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あの男シリーズ

炎と風

作者: イプシロン

 隙間なくつらなった灰色の雲は、空を覆い隠していた。青空はどこにも見えなっかった。

「あーいやだ。いきたくない。いきたくなーい」

 この男、あいも変わらず、自堕落である、我儘である、子供である。

 世のなかには、やらなければいけないことがある。だが、この男はなすべきことをなすのが、苦手なのだ。

「不安、というか恐いというかね」

 よくわからない感覚ですね。なしてしまえば消えるのではないですか? 不安や恐怖というのは? なさないで考えるから不安や恐怖が湧くのではないですか?

「それはそうなんだけどさ、そういう性格なんだから、仕方ないんだよ…」


 雲間から陽光がさす様子はなかった。前夜、止むことなく降った雪は黒々としたアスファルトを隠していた。まだ溶ける様子すら見せていなかった、路面の雪も、男の中に積った不安や恐怖も。

 着古した外套にやせた身をつつみ、いつからか、くっきりと浮きだしはじめた頬骨を寒風に朱く染めて、男は道を急いでいた。

 雪景色ということ以外、なんら普段と変わったところはなかった。

 行き交うクルマを横目にギシギシする膝をならしながら、ギシギシと雪を踏む音をさせながら、歩いている。

 見慣れた信号機の上にも雪は積っていたが、男はそのことにも気づいていないようだった。

 男は、踏切をこえ、無意識に右に左に角を曲がってゆく。やがて目的の場所にたどりついたのである。

 ATMですか。用事は多分、入出金とか振りこみといったものなのだろう。

 この男のことだ、期限ぎりぎりまで家に引き籠っていて、ATMの前まで足を運ぶのを拒否していたのだろう。察しはつく。

「だって不安なんだもん、なんか恐いんだもん」――どうせそんな理由であろう。

 さっさと済ませてしまえば、不安も恐怖も消えてなくなる。だというのに、この男はなぜかそれをしようとしない。おそらく自虐的なのだろう。

「俺は耐えてみせる。耐えて耐えて耐えぬいて、自分の強さを証明してみせる。必ず最後には勝ってみせるんだ」――そんなつもりなのであろう。馬鹿な男である。


「順番まだかな…。はやく帰りたい」

 この男の、この発言。もはや擁護も弁護もできる余地はない。

 その時、男に順番がやってきた。

 先にATMを利用していた女が、自動ドアを抜けて姿を現わしたのだ。

「こっちがわの故障しているみたいなんで、奥のしか使えないみたいですよ」

 自動ドアのこちらは野外になっていて、寒風が吹きすさび、寒かったのだが、ほっそりとした小さな背丈の女が、身振り手振りで事情を伝えてくれた瞬間、男の心のストーブに炎が灯ったようだった。

「ありがとうございます」

 男は軽く頭をさげて、言われたとおりに、ATMの方へと身体をすべらしていく。

「世の中すてたもんじゃないよね……」

 間違いない。この男、喜んでいる。

 元来、単純なのである。不安だとか恐いだとかいっても、意外と単純なのだ。

 当の本人である、この男はそれに気づいていないようだが…。


「あれ!?」

 その時、男はATMにささった、預金通帳を見つけた。

「誰のだろう? 通帳なら名前はわかるよね。でも住所は書いてないよな。電話番号もないだろうな。ということは、忘れた人に届けるには?…」

 男の指は、自分がしなければならない入金と振りこみの操作をしていたが、意識は、どうやって通帳を持主のもとに無事に戻すかということに集中していた。

 もともと落ち着きのない男である。不安や恐怖に弱い男である。だがこの時、男は驚くくらい落着いて思考しながらATMを操作していたようである。

「仕方がない、本当なら自分の手で持主に届けてあげるべきだけど、警察に頼るしかないな」

 そう決断した男は、差し込み口から取り出してATMの上に置いてあった通帳を手に、外へ向かおうとした刹那、どこかで耳にしたことのある女の声を聞いた。

「すみません、そこに通帳ありませんでしたか?」

 男の目の前には、さっき親切に、機械の故障を教えてくれた小柄な女がいたのだ。

「ありますよ」

 男は、突き飛ばされたかのような衝動的な早さで、手にしていた通帳を、持主の掌の上に置いた。

 「失礼しました、ありがとうございます」

 そう言って、女は軽く頭をさげ、去っていった。風のようであった。

 しかし、男の心に灯った炎は、風に揺らぐことはなかった。


 この男の心を覗ける、それがしは、ときどき不思議な感覚を味わうことがある。見も知らぬ人との出会い、一瞬のすれ違い。炎と風の遭遇。炎は風に消されることもあり、風は炎を大きくすることもある。しかし、この男の心に、ごく稀れに、本当にごく稀れに湧く、そうでない瞬間があることを某は目にするのだ。

 自堕落で、我儘で、子供で、ときに擁護のしようも、弁護のしようもない、この駄目男を観察しているのには、そういう理由があるのだ。


 空を見上げると、積み重なった雲の隙間から、陽光が降り注いでいるのが見えた。

 信号機に積った雪という不安や恐怖は、けっして重荷ではなかったようである。

 闇夜に凍りついたままでなければ、雪はいつか必ず溶けるということだろう。

 そこに風の囁きや消えない炎があれば。


          ~完~

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