香之手紙
兄に会ったのは、一年振りだ。
子供の頃は世間並みの兄弟として過ごしたが、今となっては用でも無ければ会うこともない。端的に言ってしまえば、そういった間柄なのだ。去年と同じく、盆に逝った親父の三回忌で俺は実家に帰った。
久々に見ると、兄貴は随分父に似て来ている。こめかみのあたりに生えた若白髪や、笑い皺……。長男という生き物は、歳を取るにつれて母親の名残を削ぎ落として、父に似るのだろうか。
父と同じで、睡眠不足の腫れぼったい目が、俺を睨む。
「実家は、大変か」
久方ぶりに会った身内ほど、会話に困る存在はいない。
「なに、夏バテやわ」
水色のまだら模様を浮かべた扇子を仰ぐ兄貴。
あの扇子は、父の遺品ではなかったか。道理で、父そっくりに見えるわけだ。
「明日朝にゃ帰るけど、飯くらい作ったるわな。どうせ碌なもん食っとらんやろが」
二十歳も越すと、男兄弟の会話はめっきり減る。家業を継いだ長男と、自由奔放に家を飛び出した次男なら尚更だ。母が亡くなったのをきっかけに、父の会社へと転職した兄貴も今や立派に社長様の仕事をこなしているらしい。
実家は、男の一人暮らしには不釣り合いな一軒家だ。かつては母が、俺達兄弟と父のために腕をふるった台所も、随分と長く使われていないらしい。コンロ周りは油シミ一つなく、ゴミ箱にはインスタント食品の包装が山を作っていた。
「たまには使わんと、錆び付いちまうが」
棚に仕舞い込まれた包丁、まな板、フライパンを引っ張り出して、近所のスーパーから調達した野菜を刻む。どうせ冷蔵庫の中にはビールしか入っていないだろうと、材料を買ってきておいたのだ。熱したフライパンを振りながら、少し安心する。台所は、料理の匂いがしなくちゃならない。無臭の台所は、死んだ台所だ。
「この匂い……」
缶ビールをグラスへ手酌する兄が一人、呟く。
「母さんが得意やったな、青椒肉絲」
「ガキの頃はよく食ったっけな。今じゃもう、あんま食えん。材料が余ってももったいないけん、一応作るが。残りはツマミにでもしようや」
兄貴は父に懐いていたが、俺はどちらかと言うと母の言うことを聞いていた気がする。父は、古い男だった。長男は家を継ぐべし、守るべし……そんな考えの強い人だったのだ。裏を返せば、それ以外の家族は家長と長男を支えれば良い。言葉に出した事こそなかったが、幼いながら俺はそんな気配を感じ取っていた。
母はそれに不平を言うこともなく、俺に料理を教えこんだ。
「家にゃ女の子がおらんけんね。あんたが家の味を、お嫁さんに教えてあげるんよ」
子供の頃よく言われたことだが、当時はなんとなしに聞き流していた。
幼い時分、母や父がいなくなることなんて、想像できなかったからだ。
埃を被っていた大皿を流水で洗って、水気を払って青椒肉絲を盛る。茶碗に白飯と、あとはありあわせで作った味噌汁を並べて、兄貴と飯を食う。互いのグラスにビールを注ぎながら、同じ皿を突ついた。
「叔父さんとこには、暑中見舞いの葉書出したんか?」
「先週出しといたわ。明日辺り、果物送ってくれる言うとるけん、お前も食って帰れ。一人暮らしで桃やら梨もろうても、よう食わんわ。皮剥くんも、大義でな」
兄貴の手は、ゴツゴツとした山芋のような手だ。その手で枝払いのナタを握ったことはあっても、包丁を触ることはないだろう。
「朝にゃ帰るわな。皮剥きが大義ぃんなら、はよ嫁でも貰いまいや。飯ちゃんと食わんと死んでまうで」
「お前は、嫁さん見つけたんか?」
「俺はえーんやが。飯も母さんになろうたけん、作れるし。家も継がんが。ほいでも兄貴はちゃうやろ。会社もあるし、そろそろ身を固めてもえぇ歳や」
兄貴が、箸を茶碗の上に置いた。
「そう責めんなや。せにゃいかん言うても、ほいじゃ明日結婚するわ、とはよう言わんが」
と、ビールを一息で飲み干す。
しまったな、と思う。俺は、兄貴と違って何もなかった。家も、財産も、ほとんどもらっていない。その代わり、自由だ。面倒くさい親族の顔出しも、兄貴がやってくれている。会社の経営状態は、悪くもないが、そう楽なものでもないと聞いている。家に帰るのは一年ぶりだが、台所同様、家中綺麗なものだ。几帳面な兄貴がこまめに掃除しているのか、それとも、ろくすっぽ家にも帰らずに働いているのか。
おそらく、両方だろう。
なんとも言えず、黙っていると兄貴がポツリと
「手紙を、出しよるんよ」
と言った。
「手紙? なんの?」
「なんのて、普通の文通やが。どこそこへ行ったとか、何食ったとか、そういうんを書くんよ」
誰と? と、思わず口をついて出た。
兄貴は、田舎育ちの男らしく、無骨な人間だ。学生の頃から本の一つも読まなかったような男が、文通とは。驚いていると、兄貴は順を追って話し始めた。
「初めはな、宛名間違いで来た手紙やったんや。送り主に連絡したら、礼の手紙が来てな。そっから、何か分からんけど、色々手紙を書きよるんや。メールやら電話でも良かったんやけど、なんとなく言い出せんでな。知らん内に、もう何年も連絡しよるんよ」
「会ったりはしたん?」
「やー、しとらん。隣県の人やけん、会おう思うたら会えるんやけどな。それもなんか野暮かと思うてな」
兄貴は、頭をボリボリと掻いた。
含羞というのだろうか。喋りながら、自分でも良く分からない恥ずかしさがあるのだろう。
「きしょいかもしれんけど、手紙が、えぇ匂いがするんや。香水の匂いの時もあるし、なんちゅうか、家の匂いみたいなんがする時もある。飯の話の手紙の時にな、母さんの煮物の匂いがしたんや。それが忘れられん。あの甘じょっぱい味が、手紙を読みよると蘇るようでなぁ……」
尻すぼみの言葉を消すように、冷えた味噌汁を啜る。
俺は、うまく言葉が出ないままに、兄貴のグラスへビールを注いだ。
「でもな、最近の手紙からは、なんも匂いがせんようになったんやわ」
「どうして?」
「分からん、そしたらだんだん、返事も遅れるようになっての。今まではすぐ帰ってきたんやけどなぁ。内容も、最初は便箋一杯細かい字で書いとったんが、二行使って書くようになったりしてな。飽きてしもうたんかなぁ」
兄貴の顔が、陰る。
飯も終わり、空いた皿を洗っていると、兄貴がダンボール箱を持ってきた。
「見てみぃよ」
口を開けると、中にはぎっしりと封筒が詰まっていた。
「これが、一番新しい手紙やわ」
箱の中から、一番上の封筒を取り上げる。
俺は洗い物で濡れた手を拭いて、手紙を開いた。
懐かしい匂いが仄かにした。薄紅色の紙に、細い罫線の引かれた便箋。そして、罫線より更に細いペン字が、書かれていた。字の大きさはまちまちで、二行使ったり、隣の字とやたら離れていたり……字が、震えている。
読みにくい文章を読むと、兄貴の言う通り、他愛のない世間話が書かれている。
窓辺の花が咲いたこと、最近やりたいこともなかなかできないという悩み、食事の話。暖かくて、いつも眠いということや、なかなか手紙を書く時間も取れなくなっていること。最後は『お返事お待ちしています』と、締め括られていた。
「返事が来んけん、もう三通も出してしもうたが」
兄貴が、はにかんで笑う。
開いた便箋に顔を埋め、嗅ぎ取る。紙の匂いと、三年前、慣れ親しんだ消毒薬の匂い。
手紙を封筒に戻して、兄貴に返した。
「兄貴、明日の帰りは夜にするわ。飲み足りんけん、飲もうぜ。焼酎もあるやろ?」
「お、珍しいが。ツマミないけん、買いに行こか?」
「そん手紙がツマミやが、もっと見しまいや。知らん間にそんなんしよってから」
その夜、兄貴と俺は、久々に酔い潰れるまで酒を飲んだ。
他の手紙も読ませてもらったが、どれも綺麗な字で端から端まで埋め尽くすように言葉が並んでいた。読んでいる最中に酒臭くなった兄貴が、聞いてもいないのに解説を入れてくるのには閉口したが。
兄貴が用を足すと行って席を外した隙に、他の古い手紙も開いて、匂いを嗅いでみた。兄貴の言う、香水やら料理の匂いは何処にも無い。時間が経ったせいで、その匂いは消えてしまったんだろう。
いつか、あの最後の手紙に残った消毒薬の匂いも、薄れて無くなるのだろうか。
兄貴はこれから、何度もこの手紙を読み返す。
そして時折、消えてしまった香を思い出しては、筆を執るのだ。