婚約解消の条項を書いたのはわたくしです。後段もお読みになりまして?
その日、王国婚姻登記所の第三控室で、わたくしは七年ぶりに自分の書いた文章を、他人の口から聞きました。
「婚姻予約解消に関する第四条。両家の家格に著しい変動が生じた場合、いずれの側からも予約の解消を申し出ることができる」
レオンハルト・ヴァイス伯爵令息は、書類の束を机に置いて、そう読み上げました。読み上げ方が下手でした。区切る場所が違うのです。「著しい変動が生じた場合」で一度切ってしまうと、条件と効果の関係が薄れます。
わたくしは指摘しませんでした。もう、彼の書類を直す立場ではなくなるところでしたから。
「ユリア。分かってくれるね」
彼は書類から顔を上げました。困った顔をしていました。彼はいつも、自分が困っている顔をします。
「エッシェンバッハ侯爵家から、正式な打診があった。ローゼマリー嬢だ。……七年前とは、うちの立場も変わった。第四条に、まさに当てはまる」
「当てはまりますわね」
わたくしは言いました。
「家格の変動。伯爵家は持ち直し、アドラー男爵家は据え置き。数字の上でも、当てはまります」
彼はほっとした顔をしました。それから、わたくしの手を取ろうとして、途中でやめました。
「君なら分かってくれると思っていた。君は、こういうことに詳しいから」
詳しい、という言葉を、彼は褒め言葉として使いました。
わたくしの家は、アドラー男爵家といいます。爵位は父が王国から拝領したもので、領地はありません。代わりに、仕事があります。婚姻契約書の起草です。
王国の貴族は、婚姻の際に契約を交わします。持参金、婚資、離縁時の取り決め、子の帰属、家産の分離と合有。それを、両家の言い分を聞いて、後で揉めない形の文章に落とす。それがアドラー家の仕事です。曽祖父の代から、そればかりしています。
だから、わたくしは条文を読むことができます。書くこともできます。
「第四条を、適用なさるのですね」
「そうだ」
「承知いたしました」
レオンハルトの肩から力が抜けたのが分かりました。
「ありがとう、ユリア。本当に、君は」
「レオンハルト様」
わたくしは、彼の手元の書類を指しました。
「その条項、七年前にわたくしが書いたものですわ」
彼の顔から、表情が抜けました。
§
七年前。わたくしは十五歳で、レオンハルトは十七歳でした。
ヴァイス伯爵家は傾いていました。先代——彼の父君が、北の運河事業に家産の四割を入れて、その運河が凍ったのです。三年連続で。
婚約は、その前の年に結ばれていました。伯爵家と男爵家。釣り合っていない縁組でしたが、アドラー家の仕事は貴族の家々と深く繋がっていて、ヴァイス家はそれを欲しがりました。父はそれを承知で、わたくしを出しました。
運河が凍った後、ヴァイス家の周りから人が引いていきました。
このままでは、婚約は解消される。侯爵家や公爵家に嫁ぐような話ではなく、単に、伯爵家が男爵家との縁組すら維持できなくなる。そういう解消です。両家の面目が潰れて、わたくしの父の仕事にも傷がつく。
だから、わたくしは条文を書きました。
家格に著しい変動が生じた場合、いずれの側からも解消を申し出ることができる。そう書いておけば、解消は「不履行」ではなく「条項の行使」になります。誰の顔も潰れません。父はわたくしの草案を読み、二か所だけ直して、ヴァイス家に持っていきました。
先代はそれに署名しました。読まずに。
十五歳のわたくしは、その条文を書きながら、こうも考えていました。
——もし、逆になったら。
ヴァイス家が持ち直して、わたくしの家を追い越したら。そのとき、この条文はわたくしに向かって使われる。
それは構わない、と思いました。ただ、そのときに、七年なり十年なりを丸ごとなかったことにされるのは、違う。
ですから、第四条には後段を付けました。
§
「後段?」
レオンハルトは書類をめくりました。彼が持ってきたのは、写しの、それも一枚目だけでした。
「そんなものは」
「二枚目にございます」
わたくしは自分の鞄から、正本の写しを出しました。アドラー家は、起草した契約の写しを全て保管します。曽祖父の代から、一件も欠かさずに。
「前段で解消を申し出た側は、相手方が予約期間中に起草・管理した契約群の引き継ぎを、九十日以内に完了させるものとする。引き継ぎの完了は、王国婚姻登記所の確認をもって足りる」
読み上げてから、わたくしは彼を見ました。
「レオンハルト様。わたくしはこの七年、ヴァイス伯爵家の契約を管理してまいりました。小作契約、商会との取引、ご一族の婚礼契約。それらを、九十日以内に引き継いでくださいませ」
彼は笑いました。困ったときの笑い方でした。
「引き継ぎなんて、形式だろう。書類を渡せばいいだけの話だ」
「そうですわね」
わたくしは頷きました。
「書類は、お渡しいたします。全部で四百十二件ございます」
彼の笑いが止まりました。
「四百……」
「小作契約が百四十二件。うち、今年更新期を迎えるものが三十九件。商会との取引契約が八十七件。ご一族と縁戚の婚礼契約が二十三件。残りは、雑契約と覚書でございます」
「そんなにあるわけが」
「ございます」
わたくしは立ち上がりました。
「三日以内に、目録をお届けいたします」
§
目録を作るのに、三日かかりました。
わたくしは自室の床に紙を並べて、七年分を数えました。数えたのは、その日が初めてでした。
やっているときは、数えないのです。北の小作人が地代の減免を申し出てくる。条文を確認して、天候不良の条項に当たるかを見て、当たれば書式を整えて先代に持っていく。それを一件ずつ片付けているうちに、七年が経ちます。
紙を並べてみると、床が埋まりました。
百四十二件の小作契約のうち、六十一件は、わたくしが巻き直したものでした。先代の代の契約は文言が古く、地代の計算式が二通りに読める。それを、揉める前に書き直していったのです。揉めなかったので、誰にも気づかれませんでした。
十九番の小作契約を並べたとき、雨の日のことを思い出しました。
東の村の小作人が、四年前、屋敷の裏口に来たことがあります。老人でした。地代の計算が去年と違う、と言うのです。わたくしが計算式を確かめると、旧暦の閏月が入る年で、条文の読み方によっては一月分多く立つ計算になっていました。
わたくしは条文を書き直し、差額を戻す手続きをしました。三日かかりました。老人は、屋敷の裏口で頭を下げて帰っていきました。
その件を、レオンハルトは知りません。知らせる必要がなかったからです。揉めていない案件は、報告に上がりません。
商会との取引契約のうち、十九件には、わたくしが入れた解除予告の条項がありました。ヴァイス家がまた傾いたときに、一方的に切られないための条項です。これも報告していません。何も起きていないので。
婚礼契約が二十三件。そのうち十一件は、レオンハルトの従兄弟や又従姉妹のものでした。わたくしは、彼の一族の縁組を、十一回まとめたことになります。自分の縁組が解消される前に。
十一件目——去年の秋、彼の従妹の婚礼契約を書いたとき、レオンハルトは礼を言いました。「君がいると助かる」と。
助かる、という言葉を、彼は褒め言葉として使いました。
数え終えて、わたくしは目録を清書しました。四百十二件。件名、当事者、締結日、次の更新期日、注意すべき条項。
最後の行を書き終えたとき、少しだけ、手が止まりました。
この七年は、書類の山でした。
でも、書類の山は、わたくしが積んだものでした。
§
王国婚姻登記所の受理窓口は、いつも混んでいます。
わたくしが目録の副本を提出しに行くと、窓口の書記官が中身を見て、途中で顔を上げました。
「……これは、第四条後段の引き継ぎ目録ですか」
「はい」
「少々お待ちください」
彼は奥へ引っ込み、しばらくして、別の人を連れて戻ってきました。
背の高い、痩せた男でした。年は三十前後。上着の袖に登記所長官の徽章がついていました。
「ヴィルヘルム・エッシェンバッハと申します」
エッシェンバッハ。ローゼマリー嬢と同じ家名でした。
「アドラー男爵家の、ユリア嬢ですね」
「はい」
「この目録は、あなたが」
「わたくしが作成いたしました」
彼は目録をめくりました。速いめくり方でした。読んでいないのではなく、読み慣れている人のめくり方です。
三十枚ほどめくって、彼は手を止めました。
「小作契約の第六十一号。地代算定について、旧暦基準から新暦基準への読み替え条項が入っている」
「はい」
「これは、七年前の様式には無いものです」
「わたくしが入れました。旧暦のままですと、閏月の年に地代が一月分多く立ちます。小作人が損をいたします」
彼はもう一度、目録を見ました。それから、わたくしを見ました。
「六十一件、全部ですか」
「六十一件、全部です」
彼はしばらく黙っていました。
「アドラー嬢。……登記所の起草課に、欠員があります」
わたくしは、少し驚きました。
「わたくしに、ということでしょうか」
「あなたにです」
考えました。長くは考えませんでした。
「ありがたいお話です。ですが、お受けするのは九十日後にさせてくださいませ」
「理由を伺っても」
「第四条を、最後まで終わらせたいのです」
彼は、初めて表情らしいものを見せました。ほんの少し、口の端が動いただけでしたが。
「結構です。九十日後に、もう一度伺います」
それから、彼は付け加えました。
「もう一つ。妹が、あなたにお会いしたいと申しております」
§
ローゼマリー・エッシェンバッハ侯爵令嬢は、十九歳でした。
目の細い、静かな人でした。登記所の面会室で向かい合ったとき、彼女は挨拶より先に、鞄から紙束を出しました。
「これを、お持ちいたしました」
ヴァイス伯爵家との婚姻予約の、草案でした。彼女の家の起草人が書いたものです。
「アドラー様。不躾を承知で伺います。この草案に、抜けはございますか」
わたくしは、少し驚きました。
「……わたくしに、それをお尋ねになるのですか」
「他に伺える方がおりません」
彼女は真っ直ぐに言いました。
「兄は登記所の長官ですから、係争になりうる案件について身内に助言はいたしません。父は、侯爵家の格が全てだと考えております。ですから、この草案を読める人間で、わたくしの側に立つ理由のない方に伺いたいのです」
筋の通った言い分でした。
わたくしは草案を読みました。よく書けていました。持参金の額も、離縁時の取り決めも、抜けはありません。
ただ、一つだけ。
「第九条の、家産の合有についてですが」
「はい」
「ヴァイス伯爵家の既存契約との接続が書かれておりません。この形ですと、ご婚姻の後、伯爵家の契約上の債務がそのまま合有財産に及びます」
彼女の目が、少しだけ動きました。
「……四百十二件の、ですか」
わたくしは彼女を見ました。
「ご存じでしたのね」
「目録の写しが、兄のところに回っておりました。読ませていただきました」
彼女は膝の上で手を組みました。
「アドラー様。もう一つ伺います。あの四百十二件は、どなたが管理しておられたのですか」
わたくしは、少し迷いました。
自分の手柄を並べに来たのではありません。ですが、嘘をつく理由もありませんでした。
「わたくしが」
「七年、お一人で」
「はい」
彼女は、しばらく草案を見つめていました。
それから、顔を上げました。
「ありがとうございます。よく分かりました」
余計なことは何も言いませんでした。同情も、憤りも。
ただ、帰り際に、一度だけ振り向いて言いました。
「わたくし、条文を読むのが遅いのです。ですから、必ず最後まで読むことにしております」
§
三十日目。
ヴァイス伯爵家から、使いが来ました。目録の第三十九号について、地代の減免申請が来ているが、どう処理すればいいのか、という問い合わせでした。
わたくしは返事を書きました。目録の該当欄をご覧ください、と。注意すべき条項の欄に、天候不良減免の適用要件を書いてあります。
四十五日目。
東の村の、あの老人が、アドラー家に来ました。
わたくしは玄関で会いました。老人は、去年と同じように帽子を取って、それから、少し困った顔をしました。
「アドラー様。地代の書付が、去年と違うのでございます」
見せてもらいました。
ヴァイス家の新しい書付は、旧暦基準に戻っていました。読み替え条項が落ちているのです。引き継ぎのときに、条項の意味が分からず、古い様式をそのまま使ったのでしょう。
閏月の年でした。一月分、多く立っています。
「……アドラー様は、もう、伯爵家の方ではないと聞きました」
「はい。もう、違います」
「そうですか」
老人は、書付をしまいました。文句を言いに来たのではないのです。ただ、去年まで直してくれた人が、今年はいない。それだけのことを、確かめに来たのでした。
わたくしは、その場で書きました。
伯爵家宛ての、正式な照会状です。第六十一号契約の読み替え条項の適用について、書面で回答を求める。差出人はアドラー男爵家。引き継ぎの当事者として、後段の履行状況を確認する立場にあります。
権限は、ありました。第四条後段を書いたのは、わたくしですから。
「三日以内に、返事が参ります」
老人は、また頭を下げて帰っていきました。
その夜、わたくしは自分の手が少し震えているのに気づきました。
怒っていたのです。
自分が捨てられたことにではありません。七年かけて直したものが、九十日で元に戻ったことに。
§
六十日目。
レオンハルト本人が、アドラー家に来ました。
「ユリア。相談があるんだ」
彼は玄関先で言いました。中には入れませんでした。婚約が解消された家の令息を、屋敷に上げる理由がありません。
「商会との契約で、揉めている。ケラー商会だ。先方が、今期の納入量を三割減らすと言ってきた」
「解除予告条項がございます。第二十二号契約の、第七項です」
「それは見た。だが、その先が分からない。予告を出したら、うちが不利になるんじゃないのか」
「なりません」
わたくしは言いました。
「その条項は、こちらから予告を出したときに、先方が九十日間は現行条件を維持する義務を負う形になっております。ですから、予告を出してから交渉なさるのが有利です」
彼は、そこで少し黙りました。
「……なぜ、そんな条項が入っているんだ」
「わたくしが入れましたので」
「君が」
「はい」
彼は玄関の石段に立ったまま、しばらく動きませんでした。
それから、言いました。
「ユリア。戻ってきてくれないか」
わたくしは、彼の顔を見ました。
「エッシェンバッハ家との話は、まだ正式には決まっていない。今なら、間に合う。君が戻ってくれれば、契約のことも、元通りになる」
謝罪ではありませんでした。
彼は、わたくしに「戻れ」と言ったのです。「悪かった」ではなく。
わたくしは、そのとき初めて、はっきりと理解しました。
この人は、わたくしがしていたことの中身を、七年間、一度も見なかった。見なかったから、なくなって初めて困っている。そして困っているから、元に戻したい。
それは、わたくしを求めているのではありません。わたくしがやっていた作業を求めているのです。
「レオンハルト様。東の村の第六十一号契約は、お直しになりましたか」
「……何の話だ」
「照会状を差し上げました。十五日前に」
彼は、思い出そうとする顔をしました。思い出せない顔でした。
「そんなものまで、いちいち」
「いちいちでございます」
わたくしは言いました。
「七年間、いちいちやってまいりました」
「ユリア」
「お断りいたします」
わたくしは、玄関の扉に手をかけました。
「レオンハルト様。あなたは第四条を行使なさいました。行使なさったのは、あなたです。わたくしではありません」
§
九十日目。
王国婚姻登記所の第一審査室に、四人が集まりました。レオンハルトと、わたくしと、確認にあたる長官のヴィルヘルム様。
そして、ローゼマリー嬢が、兄君の隣に座っていました。
「では、引き継ぎの確認に入ります」
ヴィルヘルム様が言いました。
「ヴァイス伯爵令息。目録四百十二件のうち、引き継ぎが完了したものを申告してください」
レオンハルトは、書類を出しました。
「……百三件だ」
「四百十二件中、百三件」
「残りも、目録は受け取っている。中身も、これから」
「第四条後段は『引き継ぎを完了させる』と定めています。受領ではありません」
ヴィルヘルム様の声は、責める調子ではありませんでした。ただ、条文を読む声でした。
「更新期を迎える三十九件のうち、処理が済んでいるものは」
「……四件」
「四件」
室内が静かになりました。
レオンハルトは、わたくしの方を見ました。何か言ってほしい、という顔でした。七年間、彼が困ったときにする顔です。
わたくしは、何も言いませんでした。
言うことがなかったのです。彼が読まなかった条文を、彼の代わりに読んであげる立場では、もうありませんでした。
「ヴァイス伯爵令息」
声を出したのは、ローゼマリー嬢でした。
「わたくし、第四条を読ませていただきました」
レオンハルトが振り向きました。
「全文をです。前段と、後段の両方を」
彼女は、膝の上で手を組んでいました。
「あなたは、わたくしとの縁組の打診に、この解消条項を使われました。使うこと自体は、責めておりません。条項は使うために書かれるものです」
「では」
「ですが、あなたは後段をお読みでなかった」
彼女は、静かに言いました。
「先日、アドラー様に草案を見ていただきました。第九条に抜けがあると教えていただきました。ヴァイス伯爵家の既存契約との接続が書かれていない、と」
「そんなものは、後から」
「後から足せば済む条文と、済まない条文がございます」
彼女は続けました。
「わたくしが嫁ぐことになれば、伯爵家の契約は、いずれわたくしの家の契約と繋がります。四百十二件のうち三百九件が宙に浮いたままの家に、わたくしは嫁げません」
「それは、これから」
「これからでは、遅いのです」
彼女は、初めて少し声を強くしました。
「アドラー様に、もう一つ伺いました。あの四百十二件を、七年間どなたが管理しておられたのか」
レオンハルトが、わたくしを見ました。
「アドラー様は、ご自分だとお答えになりました。それだけです。恨み言も、手柄話も、一つもございませんでした」
彼女は、まっすぐ彼を見ました。
「わたくしは、そういう方が七年おそばにいて、それを一度も数えなかった家に嫁ぐつもりはございません」
§
エッシェンバッハ家からの打診は、その日のうちに取り下げられました。
ヴァイス伯爵家が潰れたわけではありません。契約は、いずれ誰かが引き継ぐでしょう。時間はかかるでしょうが。
ただ、レオンハルトは、七年かけて自分の家を支えていたものが何だったのかを、これから一件ずつ数えることになりました。四百十二件を。
それは罰ではありません。彼が第四条を選んだ結果です。
審査室を出るとき、彼はわたくしに何か言おうとしました。
わたくしは、会釈だけして通り過ぎました。
東の村の第六十一号契約については、三日後に回答が来ました。読み替え条項を復活させる、という内容でした。差額は戻されるそうです。
それだけで、十分でした。
§
廊下で、ヴィルヘルム様が追いついてきました。
「アドラー嬢」
「はい」
「九十日が経ちました」
彼は、そう言っただけでした。約束を、そのまま持ってきたのです。
「起草課の件、お受けいたします」
「結構です」
彼は少し歩いてから、付け加えました。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「なぜ、後段を書いたのですか。七年前、あなたは十五歳だった」
わたくしは、廊下の窓の外を見ました。
「逆になったときのことを、考えました」
「逆に」
「ヴァイス家が持ち直して、わたくしが要らなくなる日のことです」
わたくしは言いました。
「そうなっても構わないと思いました。ただ、七年なり十年なりを、なかったことにされるのは違うと思ったのです。ですから、数えられる形にしておきました」
ヴィルヘルム様は、しばらく黙って歩いていました。
「アドラー嬢」
「はい」
「あなたは、自分の契約を一度も書いていない」
わたくしは足を止めました。
言われて、初めて気づきました。
わたくしはヴァイス家の契約を四百十二件書きました。他家の婚礼契約を二十三件まとめました。自分の婚姻契約は、父が書きました。持参金の額も、離縁時の取り決めも、全部、父の文章です。
わたくしが自分で書いたのは、第四条だけでした。自分が捨てられるときの条文だけを、わたくしは自分で書いていたのです。
「……そうですね」
「起草課の初仕事に、それをどうぞ」
彼は前を向いたまま言いました。
「自分のための条項を、一度、書いてみるといい。誰のためでもなく」
わたくしは、返事をしませんでした。
できなかったのです。
§
王国婚姻登記所の起草課に入って、半年が経ちました。
仕事は多く、条文は相変わらず読みにくく、貴族の言い分は相変わらず食い違います。わたくしはそれを、後で揉めない形の文章に落としています。曽祖父の代から、うちがそればかりしているように。
違うのは、数えられることです。
起草課では、誰がどの条項を書いたかが記録に残ります。第六十一号の読み替え条項が誰の手によるものか、書類を見れば分かる。わたくしが七年かけて誰にも気づかれなかったことが、ここでは一行の記名になります。
先月、ローゼマリー嬢から手紙が来ました。別の家との縁組が決まったそうです。草案は三度読み返した、と書いてありました。抜けはなかったそうです。
先日、ヴィルヘルム様が起草課に来ました。書類を渡しに来ただけのはずでしたが、机の前で少し立ち止まりました。
「例の件は」
「まだです」
「そうですか」
彼は、それ以上言いませんでした。急かす人ではないのです。
でも、机の一番下の引き出しには、白紙が一枚入っています。
半年前から入れてあります。
まだ一文字も書いていません。何を書けばいいのか、分からないからです。持参金の額でも、離縁時の取り決めでもない、わたくしのための条項。
ただ、最近、一行だけ思いついたものがあります。
——本条項の当事者は、相手方がなした事柄を、年に一度、数えるものとする。
条文としては、ひどい出来です。効果が書かれていませんし、違反したときの措置もありません。父が見たら、赤を入れる前に溜め息をつくでしょう。
それでも、わたくしはこの一行が気に入っています。
七年前、わたくしは自分を捨てるための条文を書きました。
今度は、数えてもらうための条文を書こうと思います。
書き上がったら、渡す相手には、心当たりがございます。
——後段まで、きちんとお読みになる方に。




