未來福音⑨
四月一日、エイプリルフール。――から、五日が過ぎた。
車がひどく揺れている。舗装の傷んだ道路をタイヤが踏むたび、古いサスペンションがぎしぎしと鳴って、助手席のシートはところどころ破れていて、飛び出したスポンジが太腿に当たるたび少しむず痒い。窓の外には、見慣れたはずの可部の町が少しずつ遠ざかっていく。閉まったままの商店。人気の薄い交差点。風だけが吹いている川沿いの道。
その全部を、私は黙って見つめていt。五日前まで、あの町は私の世界の全部で、お母さんがいて、お父さんがいて、お姉ちゃんがいた家があって、毎日の生活があった。そんなもの、とっくに壊れきっていたのに、それでも私はあそこから出ていく想像なんてしたことがなかった。
なのに今、私はそこを離れている。
多分盗んだ車の助手席に乗って、見知らぬ外国人が運転するその車で、北海道を目指している。これ、嘘みたいなホントの話。
「酔ってる?」
ハンドルに片手をかけたまま、ノアさんが訊いた。
相変わらず軽い声だった。深刻な空気を深刻なままにしておけない人みたいな、あの妙に場違いな軽さ。最初は胡散臭いだけだったのに、今は少しだけ、その軽さに救われてもいる自分がいる。
「まだ大丈夫です」
「まだ、ってことは時間の問題か」
「揺れるんですよ、この車」
「年季入ってるからね。相棒にふさわしい貫禄だ」
「この相棒、絶対まともな入手経路じゃないでしょ」
「拾って欲しそうにこっちを見てたんだ」
「拾得物って言い張るにはサイズがおかしいです」
何度目かのそんな小気味いい掛け合いをしながら、私たちはくすくすと笑った。
陽の差す横顔を盗み見る。高い鼻筋。明るい色の髪。薄い色の目。ハンドルを切るたびに長い指がするすると動く。いかにも日本人離れした顔立ちなのに、運転は妙に手慣れていて、田舎の細い道にも迷いがない。その組み合わせが、今になっても少し変だった。
視線を窓の外へ戻すと、見る見るうちに町が流れていく。私が生きて、選ばず、なあなあにして、どっちつかずで、家族を壊して、逃げ出して、それでも結局また生きるほうを選んでしまった町が、ゆっくり背中側へ回っていく。
悲しいのか、ほっとしているのか、自分でも分からなかった。ただ、もう二度とは戻れないのだと確信していた。
お母さんはもういない。お父さんももういない。お姉ちゃんも今どこで何をしているのかわからない。
帰る家も、待っている人も、もう居ない。それでも不思議と死にたいとは思わなかった。
お腹が空いて、蛙を食べて、白米で泣いて、それで生き延びた人間なのだ。どこかおかしく。少しだけ図太くなってしまったのかもしれない。
だって、どうせあと一年で世界は終わる。その言葉は相変わらず最悪だったけれど、同時に、どこか免罪符の様でもあった。
あと一年しかないのなら、少しくらい勝手にしてもいいんじゃないか。
お母さんを殺した私が、そんなことを考えるなんて虫がよすぎる。そう思うのにその一方で、じゃあ死ねば全部帳消しになるのかと問われたら、それも違う気がした。
人を殺したことは消えない。お父さんを壊したことも消えない。
だけど、消えないまま生きることはできるのかもしれない。
できるかもしれない、と、今はまだ思うだけだ。確信なんてない。ただ、そうじゃないと困る。
「ねぇ、ノアさん」
「ん?」
「ほんとに大阪まで行くんですか」
「とりあえずね」
「そのあと北海道?」
「そのつもり」
「遠すぎません?」
「広島から見ればねぇ」
「他人事みたい」
ノアさんはウインカーを出して、ひどくのんびりした動作で交差点を曲がった。信号、もう動いてないのに丁寧だな人だ。
「でもまぁ、一年あるし」
「またそれ言う」
「便利な言葉だよ。大抵のことは雑に肯定できる」
「最低」
「知ってる」
また笑う。つられて、少しだけ口元が緩んだ。そんな顔をしてしまった自分に、少し驚く。
少し前までの私は、こんな風に笑えただろうか。いや、笑っていた時期はあったはずだ。お母さんがまだ元気だった頃とか、お姉ちゃんが家にいた頃とか、そういう遠い昔には、きっと。
でも今は、あの頃の笑い方とは違う。何かを取り戻したわけじゃない。ただ、失くしたものを全部抱えたまま、それでも少しだけ前を見るしかない人間の笑い方だ。
「……さよなら」
フロントガラスの向こうに、白っぽい春の空が広がっていた。あまりにも普通の空だった。
人類が滅びるとか、隕石が降るとか、そんな大層な話とはまるで関係なさそうな、いつも通りの空だ。だからこそ気持ち悪いし、だからこそ綺麗でもある。
「大阪、何が食べたい?」
唐突にノアさんが言った。
「食べ物の話ばっかりですね、私たち」
「大事でしょ」
「……たこ焼き」
「うん」
「串カツ」
「うん」
「あと、焼肉と白ご飯と焼きそば」
「欲張りだなぁ」
「生き汚いって言ってください」
「それ、褒め言葉であってる?」
さらっと返されて、私は窓に額を預けた。
生き汚い。
前ならたぶん、悪口にしか聞こえなかった。でも今は、その言葉のほうがよほど正しい気がする。
結局、生きる方を選んだ。選んでしまった。白米が美味しかったから。蛙の脚をもっと食べたかったから。北海道の海鮮が気になったから。そんな、笑えるくらいしょうもない理由で。
でももう後がなくなった人間なんて、案外そういうものなのかもしれない。世界が終わるから死ぬんじゃなくて、白米が美味しいから生きる。その程度で、充分なのかも。
私はシートに深く座り直し、膝の上で指を組んだ。十九年生きてきて、ようやく自分の名前が戻ってきたばかりだ。
愛杦未來。終わる世界には似合わない、皮肉みたいな名前。
けれど今は、その名前が少しだけ好きだった。未来なんて大げさなものはなくてもいい。今日のつぎに明日があって、そのつぎにまた一日があるなら、それでいい。
私はそれを、もう少しだけ見てみたい。車は可部を離れ、見知らぬ道へ出る。
助手席の窓から吹き込む春の風は、少しだけ土と草の匂いがした。
ノアさんが運転席で鼻歌まじりにハンドルを切る。見知らぬ外国人。胡散臭くて、軽薄で、でも妙に面倒見がよくて、たぶん思っているよりずっとお人好しな人。そんな人と二人きりで、私はこれから北海道へ向かうらしい。嘘みたいだけど、やっぱりこれが私の本当。
この先これから語られるのは、そういうどうかしたお話なのだ。
変わってしまった新しい世界で生きて、やがて星降る夜まで続く、あまりに長く短いお話。
「お腹すいたなぁ」
「ちなみにセミとか好き?」
「絶対いや!」
始まりはきっと、愛杦未來の救いの話。




