表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新世界より  作者: 福田雛子
1話 未來福音
9/17

未來福音⑨


 四月一日、エイプリルフール。――から、五日が過ぎた。


 車がひどく揺れている。舗装の傷んだ道路をタイヤが踏むたび、古いサスペンションがぎしぎしと鳴って、助手席のシートはところどころ破れていて、飛び出したスポンジが太腿に当たるたび少しむず痒い。窓の外には、見慣れたはずの可部の町が少しずつ遠ざかっていく。閉まったままの商店。人気の薄い交差点。風だけが吹いている川沿いの道。


 その全部を、私は黙って見つめていt。五日前まで、あの町は私の世界の全部で、お母さんがいて、お父さんがいて、お姉ちゃんがいた家があって、毎日の生活があった。そんなもの、とっくに壊れきっていたのに、それでも私はあそこから出ていく想像なんてしたことがなかった。


 なのに今、私はそこを離れている。


 多分盗んだ車の助手席に乗って、見知らぬ外国人が運転するその車で、北海道を目指している。これ、嘘みたいなホントの話。


「酔ってる?」


 ハンドルに片手をかけたまま、ノアさんが訊いた。


 相変わらず軽い声だった。深刻な空気を深刻なままにしておけない人みたいな、あの妙に場違いな軽さ。最初は胡散臭いだけだったのに、今は少しだけ、その軽さに救われてもいる自分がいる。


「まだ大丈夫です」


「まだ、ってことは時間の問題か」


「揺れるんですよ、この車」


「年季入ってるからね。相棒にふさわしい貫禄だ」


「この相棒、絶対まともな入手経路じゃないでしょ」


「拾って欲しそうにこっちを見てたんだ」


「拾得物って言い張るにはサイズがおかしいです」


 何度目かのそんな小気味いい掛け合いをしながら、私たちはくすくすと笑った。


 陽の差す横顔を盗み見る。高い鼻筋。明るい色の髪。薄い色の目。ハンドルを切るたびに長い指がするすると動く。いかにも日本人離れした顔立ちなのに、運転は妙に手慣れていて、田舎の細い道にも迷いがない。その組み合わせが、今になっても少し変だった。


 視線を窓の外へ戻すと、見る見るうちに町が流れていく。私が生きて、選ばず、なあなあにして、どっちつかずで、家族を壊して、逃げ出して、それでも結局また生きるほうを選んでしまった町が、ゆっくり背中側へ回っていく。


 悲しいのか、ほっとしているのか、自分でも分からなかった。ただ、もう二度とは戻れないのだと確信していた。


 お母さんはもういない。お父さんももういない。お姉ちゃんも今どこで何をしているのかわからない。


 帰る家も、待っている人も、もう居ない。それでも不思議と死にたいとは思わなかった。


 お腹が空いて、蛙を食べて、白米で泣いて、それで生き延びた人間なのだ。どこかおかしく。少しだけ図太くなってしまったのかもしれない。


 だって、どうせあと一年で世界は終わる。その言葉は相変わらず最悪だったけれど、同時に、どこか免罪符の様でもあった。


 あと一年しかないのなら、少しくらい勝手にしてもいいんじゃないか。


 お母さんを殺した私が、そんなことを考えるなんて虫がよすぎる。そう思うのにその一方で、じゃあ死ねば全部帳消しになるのかと問われたら、それも違う気がした。


 人を殺したことは消えない。お父さんを壊したことも消えない。


 だけど、消えないまま生きることはできるのかもしれない。


 できるかもしれない、と、今はまだ思うだけだ。確信なんてない。ただ、そうじゃないと困る。


「ねぇ、ノアさん」


「ん?」


「ほんとに大阪まで行くんですか」


「とりあえずね」


「そのあと北海道?」


「そのつもり」


「遠すぎません?」


「広島から見ればねぇ」


「他人事みたい」


 ノアさんはウインカーを出して、ひどくのんびりした動作で交差点を曲がった。信号、もう動いてないのに丁寧だな人だ。


「でもまぁ、一年あるし」


「またそれ言う」


「便利な言葉だよ。大抵のことは雑に肯定できる」


「最低」


「知ってる」


 また笑う。つられて、少しだけ口元が緩んだ。そんな顔をしてしまった自分に、少し驚く。


 少し前までの私は、こんな風に笑えただろうか。いや、笑っていた時期はあったはずだ。お母さんがまだ元気だった頃とか、お姉ちゃんが家にいた頃とか、そういう遠い昔には、きっと。


 でも今は、あの頃の笑い方とは違う。何かを取り戻したわけじゃない。ただ、失くしたものを全部抱えたまま、それでも少しだけ前を見るしかない人間の笑い方だ。


「……さよなら」


 フロントガラスの向こうに、白っぽい春の空が広がっていた。あまりにも普通の空だった。


 人類が滅びるとか、隕石が降るとか、そんな大層な話とはまるで関係なさそうな、いつも通りの空だ。だからこそ気持ち悪いし、だからこそ綺麗でもある。


「大阪、何が食べたい?」


 唐突にノアさんが言った。


「食べ物の話ばっかりですね、私たち」


「大事でしょ」


「……たこ焼き」


「うん」


「串カツ」


「うん」


「あと、焼肉と白ご飯と焼きそば」


「欲張りだなぁ」


「生き汚いって言ってください」


「それ、褒め言葉であってる?」


 さらっと返されて、私は窓に額を預けた。


 生き汚い。


 前ならたぶん、悪口にしか聞こえなかった。でも今は、その言葉のほうがよほど正しい気がする。


 結局、生きる方を選んだ。選んでしまった。白米が美味しかったから。蛙の脚をもっと食べたかったから。北海道の海鮮が気になったから。そんな、笑えるくらいしょうもない理由で。


 でももう後がなくなった人間なんて、案外そういうものなのかもしれない。世界が終わるから死ぬんじゃなくて、白米が美味しいから生きる。その程度で、充分なのかも。


 私はシートに深く座り直し、膝の上で指を組んだ。十九年生きてきて、ようやく自分の名前が戻ってきたばかりだ。


 愛杦未來。終わる世界には似合わない、皮肉みたいな名前。


 けれど今は、その名前が少しだけ好きだった。未来なんて大げさなものはなくてもいい。今日のつぎに明日があって、そのつぎにまた一日があるなら、それでいい。


 私はそれを、もう少しだけ見てみたい。車は可部を離れ、見知らぬ道へ出る。


 助手席の窓から吹き込む春の風は、少しだけ土と草の匂いがした。


 ノアさんが運転席で鼻歌まじりにハンドルを切る。見知らぬ外国人。胡散臭くて、軽薄で、でも妙に面倒見がよくて、たぶん思っているよりずっとお人好しな人。そんな人と二人きりで、私はこれから北海道へ向かうらしい。嘘みたいだけど、やっぱりこれが私の本当。


 この先これから語られるのは、そういうどうかしたお話なのだ。


 変わってしまった新しい世界で生きて、やがて星降る夜まで続く、あまりに長く短いお話。


「お腹すいたなぁ」


「ちなみにセミとか好き?」


「絶対いや!」


 始まりはきっと、愛杦未來の救いの話。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ