未來福音⑧
エイプリルフールはとっくに終わって、五日が経った。
四月六日。空はよく晴れていた。
人類滅亡まであと一年を切っているとは思えない青色だった。広島市安佐北区、可部の町は相変わらず静かで、車も人もまばらで、そこかしこが半分死んでいるみたい。それでも春の光はやたら明るくて、私だけ置いてきぼりにされたみたいに晴れやかだった。
だけど、足取りはとても重い。
空腹で膝は笑うし、数日前に殴られた身体はまだところどころ痛い。包帯はとっくに緩んでいて、制服も五日前よりもっとくたびれていた。髪もひどい、顔色もひどい、臭いもひどい、見なくてもわかる。
それでも私は歩いた。
別にあの人が本当にまだいる保証なんてなかった。北海道へ行くと言っていたし、新しい相棒を見つけてさっさと旅を続けていても何もおかしくない。むしろそのほうが普通だ。
だから期待なんてしていなかった。期待なんてしていなかったのに、川へ近づくにつれて、風の匂いが変わった。乾いた町の匂いに、水と草の匂いが混ざる。
あの日と同じだ。あの日、私は白飯を見て馬鹿みたいにはしゃいで、蛙に泣きそうになって、それでも最後には泣きながら食べた。
その記憶が鮮明すぎて、下腹部が引き締まる。
堤防を下りる足がふらついて、一度よろけた。手をついた土は乾いていて、春の草が指に触れる。情けない。死にに来たみたいな顔で、私はここに何をしに来たのだろう。本当に、救いようがなかった。
河川敷の少し開けた場所に、小さな煙が上がっていた。
小さな飯盒。折り畳みのコンロ。見覚えのある長い背中。それから少し離れた場所に、見慣れない車が停まっていた。
ワンボックスに近いくすんだ色の車。無傷ではないけれど、このご時世にしてはまだ走れそうな見た目をしている。
要するに、あれが新しい相棒なのだろう、なのに。なのになぜかまだ、彼は大きな欠伸をしながら川辺に座り込んでいた。。
なんだか間の抜けた、その平和な仕草が妙に腹立たしくて、でも少しだけ安心して、私は五日ぶりに掠れた声を出した。
「……まだ居たんですか」
声をかけると、ノアさんがゆっくりこちらを向いた。私の顔を見ても驚いた様子はなく、ただ少しだけ目を細めて、それからいつもの調子で笑う。
「……おや、こんにちは。何処かで会った事あったっけ。女子高生のお嬢さん」
私は思わず眉を寄せる。
制服はたしかに着ていた。五日前と同じ、少しくたびれたセーラー服。でももう、これはただのラベルだ。しかも間違ったラベル。
「もう女子高生じゃないです。三か月前の誕生日で19になりました。」
「じゃあそれ、コスプレ?」
「最低」
覇気のない声で返すと、ノアさんは肩を揺らして笑った。その笑い方に少しだけ苛立って、でもその軽さに救われてもいた。真面目な顔で優しくされるほうが、今の私はたぶん耐えられない。
「……五日経ちましたよ。もう五日。一年の……えっと」
「七十三分の一だよ」
即答だった。めちゃくちゃ速いと感じたのは、私の脳みそが働いてなさすぎるだけなのか、ノアさんの計算が早すぎるのか、なんてどうでもいい疑問を裏に言葉は走る。
「そう、そうです。七十三分の……勿体無いとか思わないんですか。……あと、その車」
「落ちてたんだ。盗んでないよ、ホントに」
「嘘でしょ」
たぶん嘘だと思った。というか、今の世界でその区別にどれだけ意味があるのかも分からない。だけど、どうでもよかった。大事なのはそこじゃない。
「……で、何しにきたの?」
問われて、すぐには答えられなかった。
何しにきたのか。そんなの、自分でも分かっているようで、分かっていない。頭の中でぐるぐる回る答えは結局どれも本当で、どれも最低だ。だから、
「……あの後また泣いて」
私は言葉を絞り出す。
「泣きすぎて……涙、出なくなりました」
「うん」
「ジッとしてたら、そのまま死ねると思ったんです。何も食べなければ、そのうち動けなくなって、勝手に終わるかなって」
言いながら、自分の指先を見る。爪の間には薄く土が入っていて、制服の袖も少し汚れていた。人一人殺しておいて、死ぬ勇気もない、半端な手だ。
「けど気付いたら、ここで食べた白米と……」
「美味しかったんでしょ? カエル」
「……はい。蛙の事ばかり考えてました」
「そっか」
たったそれだけの返事だった。
笑わない。責めない。慰めない。
ただ、そっか、で終わらせる。
「お腹すいて無理でした。死ぬの」
だから今度は、ちゃんと言えた。
ノアさんは「そっかぁ……」と、呆れるでもなく感心するでもない声をこぼした。
それから火の上の網を見下ろして、気の抜けた調子のまま言う。
「ちょうど今、焼いたけど。カエルの脚」
「食べたいです」
ほとんど反射だった。
自分でも引くくらい即答だったけれど、もう見栄を張るだけの体力もなかった。蛙だろうが何だろうが、今の私には食べ物だった。あの日あれだけ嫌がったものに、五日後には自分から手を伸ばしている。笑える。いや、笑えない。でも、お腹はそんなことに頓着しなかった。
「あ、でもお箸とかないけど」
差し出されたこんがり焼けた脚を、私はためらいなく手で掴んだ。
熱かった。熱い、という感覚がまだ自分の手に残っていたことに、少しだけ驚く。指先に油がついて、香ばしい匂いが立つ。口に運んで噛むと、表面のぱりっとした感触の下から、やわらかい肉汁が出てきて、それが舌に絡みつく。
「……美味しい?」
ノアさんが聞く。
私はしばらく答えられなかった。噛んで、飲み込んで、それからようやく喉の奥から声を押し出す。
「……っ、美味しい……死ぬほど美味しい」
泣いていた。自分でも気づかないうちに、また目の奥が熱くなっていた。
みっともない、と思う。でも止まらなかった。塩気と脂と熱が、空っぽだった胃に落ちていくたび、五日間ろくに食べなかった身体が泣いているみたいだった。
「最後のお米、もう少しで炊けるよ」
その言葉に、余計に涙が出そうになった。
最後のお米。最後、なんてつくと縁起でもないのに、今の私にはそれすら救いみたいに聞こえる。火の向こうで飯盒が小さく湯気を吐いていた。春の風がそれを薄くさらっていく。太田川の水面は呑気なくらい明るくて、人類滅亡がどうとか、母を殺したとか、そういうこと全部から目を逸らしたみたいな顔で光っていた。
「……っ美味しい」
もう一度言うと、ノアさんは今度こそ少しだけ笑った。
「聞いた話だけど、北海道ってもーっと美味しいものあるらしいよ。いくらとか、海鮮?」
北海道。その単語は相変わらず現実味がなかった。遠い。広島から見れば、ほとんど地図の端だ。けれど、白米と蛙の脚で涙を流している今の私には、その遠さが妙に魅力的にも思えた。
「どうせなら、食べてから死にたいです」
口にしてから、自分で少し笑ってしまった。
ついさっきまで、死ぬならそれでいいと思っていた。なのに今は、その前に何か食べたいと思っている。いくらでも、海鮮でも、白ご飯でもいい。なんでもいいから、まだ口にしたことのないものを食べてみたい。そんな欲が、自分の中にまだ残っていたことが情けなくて、可笑しかった。
「だよねぇ」
でもそんな私の色々込めた言葉を一蹴するようにノアさんは笑い飛ばす。
それが妙に嬉しかった。否定も励ましも説教もなく、ただ、そうだねと同じ高さで頷いてくれる。その軽さが今の私にはありがたかった。だから、返したくなった。とっても今の私に渡せるものなんて、一つしかない。
「未來」
「……え?」
指先についた油を制服の裾で拭きかけて、やっぱりやめた。そんなことをしても、この服はもう充分くたびれている。けれど、名前だけは少しでもちゃんとした形で言いたかった。
「愛しいに旧字体の杉で愛杦って書きます。名前は……未來。愛杦未來です」
泣いて、吐いて、眠れないまま横になっていた五日間、何度も頭の中で転がした名前だった。今ならどんな風に書くかも説明できる。馬酔木に負けず劣らず変わった名前が、ようやく自分のものに戻ってきた気がした。
愛杦未來。
母を殺した娘の名前。父に殺されかけて逃げた娘の名前。空腹に負けて、また生きる方へ戻ってきてしまった私の名前。
「……それ、本名?」
何を驚いたのか、丸くした目で私を見るノアさんに思わず笑ってしまう。
「よりにもよって未來だなんて、おかしいですよね」
終わる世界で、未來。皮肉すぎると何度も思った。たぶん少し前の私なら、この名前を口にするだけで気が滅入っていただろう。
「いや……いいね。そっか、未来」
薄い色の目が、火の向こうで少しだけ細くなる。
「私が一番好きな名前だ」
不意打ちみたいな言い方だった。
軽い調子なのに、言葉の置き方だけが妙にやさしい。そういうところが、この人はずるいと思う。こっちが泣くか怒るか迷っている時に、するっと心臓の隙間みたいな場所へ入り込んでくる。
「……ていうか、そっちこそ」
照れ隠しみたいに、私はわざと少し強めに言った。
「偽名ってバレバレですよ、その苗字」
「えぇ!? 失礼な。馬酔木はちゃんと実在する苗字だよ」
「外国人って、みんな変わった漢字とか苗字好きですよね。国籍どこですか、アナタ。イギリス?」
私はようやく、少しだけまともにノアさんの顔を見た。
高い鼻筋。日本人離れした白い肌に骨格。陽に透ける金髪に、ガラス玉の様な碧眼。それにしたって日本語が上手すぎるだろ。そんな風に思って、突っ込もうとした瞬間。それは私の質問への返答のつもりだったのか。
「シークレェット」
とんでもなく流暢な発音で返された。
「北海道着くまでには教えてあげるよ。とりあえず当面は大阪を目指して」
「たこ焼き! 串カツ!!」
口から飛び出したのが食べ物の名前だったせいで、自分でも笑ってしまった。どれだけ腹が減っているんだ、私は。
けれど釣られてノアさんも笑う。
「まだあれば、好きなだけ食べたらいいさ。だって――」
「どうせ、一年後にはみんな死ぬ」
今度は私が先に言った。
あの日、公民館で初めてその話を聞いた時には、ただ怖くて、ただ現実味がなくて、ただ気持ち悪いだけだった言葉だ。
でも今は、少しだけ違う意味に聞こえた。
一年後にはみんな死ぬ。だから全部無駄、じゃない。どうせ死ぬなら、その前に少しくらい好きにしたっていい。好きに食べて、好きに笑って、好きにどこかへ行ってもいい。そういう、開き直りに近い自由の言葉として、ようやく飲み込める気がして、私たちは二人で小さく笑った。
川風が吹いて、煙が流れる。少し離れた場所に停められたくすんだ色の車が、陽を浴びて鈍く光っていた。五日前にはただの他人の車にしか見えなかったそれが、その時は少しだけ違って見えた。
まだ乗るとも何とも言っていない。北海道へ行くとも決めていない。
それでも、あの車の助手席に自分が座る光景を、ほんの一瞬だけ想像した。
たぶんそれは、死にたいより先に、食べたいが来たのと同じ種類の衝動だった。
飯盒の蓋が、ことりと鳴る。白い湯気が、また上がる。
私はその匂いを吸い込みながら、もう一度だけ、心の中で自分の名前を呼んだ。
愛杦未來。
まだ死んでいない、私の名前。これから生きる、私の名前。




