未來福音⑦
私は立ち上がれないまま、母のほうを見ていた。
「……その人がお母さん?」
背後から落ちてきたノアさんの声は、さっきまでより低かった。
「眠ってるみたいですよね」
言ったあとで、口元が変に引きつる。笑えるわけないのに、そうでもしないと壊れそうだった。
お母さんは、本当に眠っているみたいな顔をしていた。目を閉じて、胸まで布団をかけて、痩せた頬だけが白く浮いている。口元も穏やかで、息さえしていれば、ただの昼寝に見えたかもしれない。
でも、しない。もうしない。
そのすぐ傍で、お父さんは首を吊っている。
終わっていた。家も、家族も、昨日までの私も。たぶん全部。
「何もないでしょ、この家」
誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。
「父が全部売り払ったんです。お金が必要だからって。服まで。バカですよね……もう女子高生って歳でもないのに。笑っちゃう」
自分の制服を見下ろす。ノアさんが洗ってくれた、紺のセーラー服。胸元の裏地に書いてあった私の名字。学生だった頃の名残。
これを胸を張って着られたのは、もう一年以上も前だ。全部思い出した今になってみれば、こんなものをまだ着ている自分が、ひどくみじめだった。
ノアさんは何も言わなかった。返す言葉が見つからないんだろうと思う。私だって分からない。自分が何を喋っているのか、半分も掴めていなかった。
「……ずっとこんな家で?」
私はゆっくり息を吐いた。
「昨日までです」
昨日まで。
たったそれだけの言葉なのに、口にすると胃の奥が重くなる。
「半年、ううん、もっと前からずっと切り詰めて。切り詰めて、切り詰めて。母の世話と食事のために、時間も、お金も、体力も、気持ちも、全部使って……だって家族だから」
その言葉を、私は何度も自分に言い聞かせてきた。家族だから仕方ない。家族だから頑張らなきゃいけない。家族だから見捨てられない。
そうやっているうちに、何かが少しずつ削れていった。分かっていたのに、見ないふりをした。
「それも昨日で限界だったぁ……」
語尾が崩れる。自分でも情けない声だった。
お姉ちゃんは先に出ていった。あの人はあの人で、もう駄目だったんだと思う。怒って、泣いて、叫んで、全部置いていった。それでも抜け出した。抜け出せた。
私はそれをずっと、うまく言葉にできなかったけど――今なら少しだけ言える。
「何やってんだろ、って」
視界が滲む。
「どうせ死ぬのに、って……何度も」
一年後半に世界が終わる。あの終末宣言を見た日から、もともとおかしかった家の空気は、さらにおかしくなった。ぎりぎりで保っていたものが、そこで本当に壊れ始めた。
頑張れば笑える日が来る。そう信じて耐えてきたのに、その“いつか”ごと消えた。
未来がなくなった家で、未来のために頑張るなんて、もうできなかった。
「……でも幸せだったんだろうな、お父さん。お母さんの傍にいられて、一人だけ幸福だったんだと思います。だって愛してたから」
本当に、お父さんはお母さんを愛していた。それだけは疑いようがない。壊れる前も、壊れてからも、たぶん最後まで。
「私は……そうじゃなかった」
そこでようやく声が揺れた。
「追い詰められて、ほんと、本当に……疲れてた。……楽になりたかった」
背後で、ノアさんが小さく息を呑む。
「君の、記憶喪失の原因って……」
その先は聞かず、私は母の顔を見た。
「お母さん、たまに喋るんです」
昔みたいに会話はできない。こっちの言葉に頷くことはあるし、笑うことも、目で追うこともある。でも長い言葉は出てこない。唇がうまく動かなくて、声も掠れて、一言だけ。
「昔みたいに会話できなくても、一言だけ、ありがとうって喋るんです」
ありがとう。
食事を食べさせても、体を拭いても、オムツを替えても、爪を切っても、髪を梳かしても。うまく回らない口で、何度も何度も、ありがとうって。
それを聞くたび、胸の奥がきつく締まった。
感謝されるほど優しいことなんてしていない。ただ当たり前をやっているだけだ。なのに、心のどこかでは、お姉ちゃんみたいに全部投げ出したいと思っている。
「……けど、最後は違ったな」
唇の端が勝手に持ち上がる。ひどい顔をしていたと思う。
「一言だけ。たった一言だったのに」
呼吸が浅くなる。思い出したくないのに、止まらない。
数十時間前。三月が終わって、日付が変わった四月一日。エイプリルフール。
部屋は暗くて、お父さんは仮眠を取っていて、私はベッドの横に座っていた。お母さんの呼吸は浅く、顔はやつれて、目だけが妙に冴えていた。
あの夜、私はたぶんずっと疲れ切っていた。何に、なんてもう数えきれない。終わる世界にも、出ていったお姉ちゃんにも、壊れていくお父さんにも、何もできない自分にも、世界が終わるまで続くこの生活に、空っぽになった未来に。
お母さんが私を見た。痩せた目で、まっすぐに。暗くても分かった。
何だろうと思った。ご飯かな。トイレかな。身体を拭くのかな。そう思って身を寄せたのに、お母さんはかすれた声で、
「死なせて」
そこで、何かがぷつりと切れた。
ベッド脇の枕。
私の手。
母の顔。
押さえつけた感触。
弱すぎる抵抗。
途中で、それすら消えたこと。
そうだ。それが私のしたこと。してしまったこと。
四月一日。エイプリルフール。お母さんが『死なせて』って言ったから、枕で顔を押さえつけた。
「これ、嘘みたいな……」
違う。嘘じゃない。けど、嘘であってほしかった。日付だけがやけにはっきりしているのは、たぶんそれくらい最悪だったからだ。
「嘘、みたいな……っ」
喉の奥が裂ける。だから私は逃げた。だから私はお父さんに――
「嘘じゃなかったぁ……!!!」
その場に崩れ落ちた。膝が床にぶつかる音がして、痛みだけが少し遅れて来た。でもそれすら遠い。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって、息がうまく吸えない。吐きそうなのに、吐くものなんてほとんど残っていなかった。
「バカだぁ、わたし……!」
肩が震える。床に爪が立つ。
「お父さんに殺されて当たり前だぁ……!」
私を殴った理由も、殺そうとした理由も、首を吊った理由も、今なら分かる。分かってしまう。娘が、自分のいちばん大事な人を終わらせたのだ。正気でいられるわけがない。
「だって、わた……っ、あんなの……間に受けて……」
言葉が息にちぎられる。頭の中がぐちゃぐちゃで、何を掴めばいいのかも分からない。
「私っ、どうせ死ぬんだって、だからっ……お母さん殺したぁ……!」
頭を床に打ちつけたくなった。口も、心臓も、存在ごと裂いてしまいたかった。
「ごめんなさい……! ごめんなさい……っ」
誰に向かって言っているのか、自分でも分からない。お母さんか、お父さんか、自分か。それとも全部か。
「こんなこと忘れて、なにやって……私っ……ばかだ、ばかだぁ……!」
ノアさんはしばらく黙っていた。慰めの言葉を探している沈黙じゃなかった。ここで何を言っても軽くなるものなんてないと、最初から分かっている人の黙り方だった。
だから余計に、口から出た。
「殺して……誰か」
情けないくらい掠れた声だった。
「うっ、うぅ……」
嗚咽だけが続く。鼻を啜る音も、喉の奥で引っかかる呼吸も、全部がみっともないのに止め方が分からない。私は床に爪を立てたまま、俯いていた。
かさり、とすぐ傍で衣擦れがした。
「……もう行こう。ここにいても」
肩に触れられそうになった気配だけで、私は反射みたいに身を引いた。
「っ触らないでよ!」
自分でも耳が痛くなるような、甲高い声だった。
ノアさんの手が止まる。ほんの一瞬だけ。それでも引っ込めたまま、静かに言った。
「居ないよ。ここにはもう誰も」
「居たよ!」
喉が焼ける。
「だってここに! ここに居たの! 生きてたんだよ、昨日まで……!」
母のベッドを指さしたつもりだった。でも震えすぎて、ちゃんと向いていたかどうかも怪しい。見えているのに、見えていないふりをしたかった。分かっているのに、分からないままでいたかった。
そんな私に、ノアさんは容赦なく言った。
「もう死んだ」
短く、はっきりと。
「……君が殺した」
心臓を素手で掴まれたみたいだった。
息が止まる。泣くのも、喚くのも、一瞬だけ止まる。その空白に耐えられなくなって、私は子供みたいに叫んだ。
「っじゃあ私も殺してよぉ……!」
懇願というより、癇癪に近い声だった。
「もう嫌だ……! 死ななきゃいけなかったのに、お父さんに殺されなきゃいけなかったんだ、あの時すぐに!」
頭を振る。髪が頬に張りつく。涙も鼻水も止まらなくて、自分の中の水分が全部出ていくんじゃないかと思うくらいだった。
「なんで、なんでなんで……っ、なにやってんの……? なんで生きてんの、私……」
答えなんて欲しくなかった。そんなもの、あるとも思っていなかったのに。
「……覚えてないのかい」
「え……?」
私はぐしゃぐしゃの顔のまま、顔だけ上げた。覚えてない。何を?
「その問いに、君はもう答えたはずだよ。覚えてないのかい」
何を言われているのか、本当に分からなかった。
「……覚えてない」
それしか言えない。本当に覚えていない。自分が何を言ったのかも、何を選んだのかも、何に縋ったのかも。
ノアさんは少し黙った。怒っているのか、呆れているのか、それとも別の何かなのか、その沈黙だけでは読めない。
でも、次に聞こえた声は、いつもの軽さを全部削いだ声だった。
「……助けて。そう聞こえたから、死体だと思った君に駆け寄ったんだ」
息を呑む。
「そんなの……知らない」
本当に知らなかった。言った覚えがない。言うはずがない。だって私は、死にかけていて、頭も回っていなくて、罪悪感で潰れそうで――
「助けて、そう言ったから私は聞いたんだよ」
じりじりと追い詰めるような声だった。
「今死ぬか、一年後に死ぬかを」
そんなはずない。
「やめてよ」
「母親を殺して、父親から逃げて、死にかけていた君に」
「……っ、やめて」
耳を塞ごうとしても、手がうまく上がらない。
「覚えてないから!」
悲鳴みたいな声が出た。
「君は小さな声で何度も言った!」
「やめてよ!」
「今ここで死にたいって言うなら――」
その瞬間、ノアさんの声が鋭く跳ねた。
「あの時君が言った『生きたい』って言葉は……なら、エイプリルフールの嘘で片付けるかい?」
息が止まった。
その一言だけが、まっすぐ胸の真ん中に刺さる。
エイプリルフール。四月一日。嘘みたいな、本当の話。母を殺した日。父に殺されかけた日。家を逃げ出した日。全部が最悪の形で重なった、今日。
「う、ぅ……」
今度の嗚咽は外に逃げなかった。喉の奥に詰まって、胸の中でぐちゃぐちゃに暴れる。
否定したかった。
そんな言葉、私が言うわけないって。生きたいなんて、そんな都合のいいこと、あの時の私が口にするわけないって。
でも、できなかった。
だって今の私は、死にたいと喚きながら、そのくせ本当には死ねていない。お父さんに殺され損ねて、道端で野垂れ死にもできなくて、知らない男の人に拾われて、お米と蛙を食べて、おいしくて、そのまま生き延びてしまっている。
それが全部、あまりにもみっともなかった。
「……私、ずっと嫌だった」
掠れた声が床に落ちる。
顔を上げられない。母の死体も、父の死体も、ノアさんの顔も、何一つまともに見られなかった。
「心のどこかで、ずっとずっと思ってたぁ!! 動けないお母さんの世話して終わるのも、死ぬまでこんな所に居るのも……嫌だって」
口にした瞬間、胃の奥がひっくり返りそうになった。最低だ。そんなこと、自分がいちばん知っている。
「でも、どうしようも無かったの!」
止まれない。自分でも驚くくらい大きな声が、静まり返った家の中で不格好に跳ね返る。
「どうしようもなくて……! お金も、時間も、もう何もなくて……お姉ちゃんも居なくなって、お父さんもどんどんおかしくなって……もうみんなこのまま死ぬしかないって、そんなふうにしか思えなくて……!」
言いながらまた涙があふれる。醜い言い訳だと思う。けど、言わないままだと、自分の中身がそのまま腐っていきそうだった。
「けど、そのせいで私……!」
喉が詰まる。
「私、もう一人で……こんな、こんな……っ」
何を言いたいのか、自分でも分からない。母を殺したこと。父を壊したこと。家族を終わらせたこと。そんな人間が、この先一人でどうやって生きるんだ。
どうせ一年後には世界も終わるのに。
だったらここで終わってしまったほうが、ずっと筋が通っていて、ずっと綺麗だ。そう思ったのに。
「誰かを殺して、生きてる人間はここにもいる」
静かな声だった。大きくもないのに、やけに耳に残る。
顔を上げると、ノアさんはいつもの軽い顔をしていなかった。怒っているわけでも、慰めているわけでもない。ただ、まっすぐこっちを見ていた。
その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めない。飲み込みたくなかったのかもしれない。
「……っ親なんだよ! 他人じゃないの! お母さんは、親なんだよ……!」
自分でも何に怒っているのか分からなかった。ノアさんの言葉にか、自分にか、それとも“親だから”に縋っている自分の情けなさにか。
でも、ノアさんは一歩近づいた。
「ホントに思ってるなら」
さらに、もう一歩。
「その方が幸福だと思うなら、今、言ってごらんよ」
逃げ道を塞ぐみたいに。
「死にたいって。……簡単だよ」
そう言って、手が伸びる。私の首にかかる。
細い体つきだと思っていたのに、その手は片手で私の首をすっぽり覆った。ひやりと冷たい。冷え性なのかも、なんて場違いなことが一瞬よぎる。
傍から見れば、私は今、命を握られている。
たった一言。告げるだけで、私は――
なのに。
「……っ」
声が出ない。
さっきまであんなに泣き喚いて、殺してって言えたのに、その一言だけが喉の途中で引っかかって出てこなかった。
死にたい。
そう言えばいいだけなのに。
それだけで全部、綺麗に終われるはずなのに。
なのに、出ない。
「し、……っ」
息だけが漏れる。
その瞬間、自分で分かってしまった。
私は最低で、どうしようもなくて、許されるわけもなくて、それでも――
「私っ……私、最低だ」
ぼろぼろと涙が落ちる。
「こんなの、許されるわけないのに……!」
「そうだね」
ノアさんはあっさり言って、首から手を離した。
「みんな、許されないまま死ぬよ」
胸の奥がすっと冷える。でも、その言葉はどこかで納得もしてしまった。許されるとか、償えるとか、そんな綺麗な話じゃない。お母さんは戻らないし、お父さんも戻らない。私がどれだけ泣いて、どれだけ謝っても。
「どうせこの世界で生きてる人間に、未来はないんだ」
未来。
その言葉に、私は少しだけ笑いそうになった。全部思い出した今の私には、あまりに皮肉だった。
「……だから?」
絞り出すように聞くと、ノアさんはほんの少し肩を竦めた。
「自分の幸福が何かを考えて、それから好きに生きて、死ねばいい」
優しくも、正しくもない言い方だった。
たぶん救いでもない。ただ、まっすぐだった。
「だって私たちは、人間だからね」
言い返そうとして、何も出てこなかった。
幸福だとか、生きるだとか、そんな言葉、今の私からはいちばん遠いはずなのに、完全には突っぱねられない。腹が立つ。どうしようもなく腹が立つ。
「……バカだね私達」
「ご自由に。私はそろそろ行くよ。なんせ広島から北海道まで、まだ二千キロ近くある」
床板が軋む。遠ざかっていく背中。
この人は、本当に行ってしまうんだと思った。出会ってほんの数時間の、知らない男の人。その背中に向かって、
「ねぇ!」
気づけば呼び止めていた。
私はぐしゃぐしゃの顔のまま、どうしていいか分からなくて、それでも口を開く。
「私……やっぱり、生きてていいわけない……それに、どうせ一人じゃ生きられない」
情けない。結局そうなのだ。死にたいとも言い切れなくて、生きる覚悟も持てなくて、どっちも選べないままここにいる。
「……なら、ここでお別れだ」
返ってきた言葉は、やさしくなかった。
でも、それでよかったとも思った。最期まで、この人が変に甘やかさないでいてくれて。
「……ごめんなさい」
何に対しての謝罪か、自分でも分からない。私は泣き顔のまま、笑うみたいに息を吐いた。
「ありがと」
ノアさんは何も言わなかった。
数歩、歩いて――それから、不意に立ち止まる。
「……相棒」
「……え?」
間の抜けた私の声なんて気にした様子もなく、振り返らないまま彼は言った。
「相棒を探してるんだ。そうだな、一緒に北海道まで行けるような、そんな相棒」
涙で重たかった頭が、少しだけ現実に引き戻される。お別れの言葉のつもりだったのに、台無しだ。
「……車の話でしょ」
「そう。車の話。探すのは時間かかるだろうし、しばらくの間はさっきの川辺で野宿でもしようかな。……じゃあね」
出会った時みたいな軽い口調のまま、今度こそ足音が遠ざかっていく。
私はしばらく、その場から動けなかった。
動けないまま、力が抜けたようにフローリングに倒れ込む。少し首を傾ければ、両親の死体が見える。何もなくなったリビング。春なのに冷たい空気。地獄みたいな光景だ。
それでも、今の私の居場所はここしかない。
なのに、頭のどこかには、さっきの言葉だけが妙に残っていた。
幸福に繋がる言葉と行動。
「……ほんと」
鼻で笑う。ひどい声だった。
「バカみたい」
そう呟いて、私は自分の膝を抱えた。泣きすぎてもう涙も出ないのに、胸の奥だけはまだぐちゃぐちゃのままで。
「……ばか」
誰に向けた言葉なのかは、もう分からなかった。




