未來福音⑤
可部の住宅街。門柱の形も、塀に這う蔦も、少し傾いたカーブミラーも見覚えがある。なのに、そこに「私の生活」がつながらない。思い出せそうで思い出せない何かが、ずっと視界の奥でちらついていた。
春の日差しはまだ明るいのに、通りには人の気配がない。
洗濯物の揺れる家もない。窓の向こうのテレビの音もしない。犬の鳴き声も、子どもの声もない。乾いた風がアスファルトを撫でていくだけで、町じゅうが息を潜めているみたいだった。
角を曲がったところで、私はようやく足を止めた。
目の前の一軒家を見上げる。二階建ての、どこにでもありそうな家。白っぽい外壁。小さな駐車スペース。玄関脇には枯れた植木鉢だけが残っていて、玄関灯は消えたまま、回収されていないゴミ袋が溜まっている。
見た瞬間に分かった。
ここだ。私の家だ。
「ここが君の家?」
少し遅れて追いついたノアさんが、隣に並ぶ。
「……はい」
答えた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
家だ。たぶん間違いない。なのに、帰ってきた感じはしない。むしろ近づいちゃいけない場所まで来てしまったみたいで、背中がじっとりした。
ノアさんは家を見上げ、それから私の横顔を見た。
「理由は思い出した? ……殺されそうになった理由」
その言葉だけで、こめかみの奥がずきりと痛む。
「ううん。でも、お母さんの看病をしていて……そこで確か、痛っ」
針を刺されたみたいな痛みが走って、反射的に頭を押さえた。思い出しかけるたび、こうなる。
「……あのさ。念を押すようで悪いんだけど、多分、君のお父さんがやろうとしたのは」
「大丈夫です」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。ノアさんが言い切る前に遮っていた。
「あの人に、お母さんを傷つけることなんてできません」
言い切った瞬間、胸の奥に熱が灯る。
そうだ。お父さんはお母さんを愛していた。そこだけはぼやけない。思い出そうとしなくても、家族のことを考えると最初に浮かぶのは、お母さんのベッドのそばにいるお父さんの姿だった。
だから、心中なんてするわけがない。
世界が滅びるからって、家族を道連れにするような人じゃない。少なくとも、私はそう思っていた。
「多分……そう、私が邪魔だったんです」
うまく息が吸えないまま、言葉だけが先に出る。
「だから、ちょっと……無事か確かめるだけです。確かめたら……私……」
その先が続かなかった。
謝るのか、逃げるのか、戻るのか。そこまで考えられない。ただ今すぐ玄関を開けて、お母さんが無事かどうか、それだけ知りたかった。
ノアさんの声が、さっきまでより少し低くなる。
「さっき、人間は本能的に自分の幸福に繋がる行動をとるって話したよね」
「でも」
「追い詰められた人間は、簡単に人を殺すよ」
「っ、でも!」
喉が擦り切れそうなくらい強く言い返した。
「私なんか邪魔なぐらい仲、良くて……それに、お父さん言ってたんです!」
玄関の前で、半分はノアさんに、半分は自分に言い聞かせるみたいに声を張る。
「死ぬまで、お母さんとは世界が終わるまで一緒にいるって。誓ったんだって!」
思い出す。
お母さんのベッドのそばで、少しやつれた顔のまま、それでも笑っていた父を。冗談みたいな大げさな言葉を、本気で言えてしまう人だった。そういうところをお姉ちゃんは気持ち悪いって笑っていたし、私はまた始まったと思っていた。でも、お父さんは本気だった。
「だから……あの人に母は殺せないの。殺せないはず、です」
最後だけ、少し声が揺れた。
ノアさんはすぐには返さなかった。数秒置いてから、静かに聞く。
「……その言葉に、お母さんは何か言ってた?」
一瞬だけ、頭が空白になる。
お母さんは――
「喋れないから、お母さん」
口にした瞬間、空気がぴたりと止まった気がした。
そうだ。お母さんは病気で、歩けなくなって、たぶんそれだけじゃなくて、うまく話すのも難しくなっていた。だから私たちはこの町へ来て、家の中で、ずっと――
そこまで考えたところで、嫌な沈黙が落ちた。
ノアさんはそれ以上、何も言わなかった。
その沈黙のほうが、かえって怖い。私は玄関に手をかけた。鍵は開いていた。
妙なところだけ、やけに現実感がある。鍵の位置も、ドアノブの癖も知っている。押し下げた自分の手が、やけに他人のものみたいに見えた。
がちゃ、と乾いた音がして、扉が開く。
途端に、家の匂いがした。
閉め切った空気の匂い。湿った布の匂い。薬品と埃と、長く人が動いていない部屋の匂い。懐かしいはずなのに、鼻の奥がつんとした。
「……お母さん」
返事はない。
「お母さん……?」
当たり前だと思う。喋れないんだから。
それでも呼ばずにいられなかった。
靴を脱ぎ捨てるみたいにして上がる。ノアさんも一歩遅れて入ってきた。廊下は薄暗く、窓から差し込む午後の日差しが細い線になって床へ落ちている。人の暮らしの音がしない。冷蔵庫の駆動音も、テレビの音も、咳払いも、何も。
静かすぎて、自分の息だけがやけにうるさい。
見覚えのあるはずの家なのに、どこかおかしい。
物が少ない。
少ない、なんてものじゃない。玄関にあったはずの靴箱の上の小物も、廊下の端に置いてあったはずの収納もない。壁際ががらんとしていて、生活の重みだけがごっそり抜け落ちていた。
胸の奥がざわつく。
それでも足は止まらない。私は奥へ進んだ。居間へ向かう。そこにお母さんのベッドがあった。介助がしやすくて、日当たりもよくて、家族が一番長くいる場所だったから。
足が勝手に速くなる。
「お母さん!」
居間の入口まで来て、私は足を止めた。
リビングには、母が眠るベッドがあった。
逆に、それしかなかった。
テレビ台も、テーブルも、棚も、ソファもない。広い床だけが剥き出しになっていて、部屋の真ん中に介護用ベッドだけがぽつんと置かれている。生活を全部引き剥がして、最後にお母さんだけ残したみたいだった。
「……え」
お母さんはベッドの上に横たわっていた。布団を胸までかけ、目を閉じている。顔色は白い。痩せた頬。閉じた唇。髪はきちんと整えられていて、本当にただ眠っているだけみたいに見えた。
一瞬だけ、肺に空気が戻る。
よかった、と喉まで出かけて――止まる。
違う。
ベッドのそばに、もう一つあった。
そこでようやく見えた。母のベッドのすぐ横、天井から垂れたくたびれた布。その先に吊られた、人の体。
「あ……」
声にならない音が喉から漏れた。足が勝手に一歩下がる。
ぶらん、と。
風もないのに、ほんのわずかに揺れていた。
父だった。
母のそばを離れなかった父が、そこで首を吊って死んでいた。顔は紫色に変わり、舌が少しだけのぞいていて、目は半開きのまま乾いている。足先はだらりと下がり、床から少し浮いていた。見慣れていたはずの大きな体が、今はただ重い肉の塊にしか見えない。鼻を刺すような甘ったるい臭いが、遅れて喉の奥まで入り込んできた。
「ぅ、……っ」
胃がひっくり返る。
後ずさった踵が廊下の段差に引っかかって、そのまま尻餅をついた。視界が揺れる。喉が閉まる。息が、うまく吸えない。
「だ、大丈夫?」
ノアさんの声が遠い。
大丈夫なわけがない。そんなことを思う余裕もないまま、喉から変な音だけが漏れた。
「ひっ、ひっ……うぁ……!」
泣いてるのか、過呼吸なのか、自分でも分からない。目の前の光景から目が離せない。見ていたら壊れると分かるのに、逸らせなかった。
ウソだ。
なんで、お父さんが死んでるの。
なんで、お母さんはあんなに静かなの。
なんで、この部屋には何もないの。
なんで、私は五日も食べてなかったの。
なんで、逃げてたの。
なんで、今日の日付――四月一日だけが、こんなにはっきりしてるの。
「……私」
震えた唇の隙間から、かすれた声が落ちる。
頭の中で、何かが割れた。
実際には何の音もしていないのに、ずっと閉じていた記憶の蓋にひびが入っていく音だけが、やけに鮮明だった。
見えてしまう。思い出したくないのに。
暗い部屋。荒い息。怒鳴り声。お父さんの手。殴られる痛み。ベッドの上のお母さん。痩せた腕。乾いた唇。かすれた声。お姉ちゃんがいない家。売られていく家具。空になっていく引き出し。炊けなくなった米。痩せていく私。笑わなくなった母。壊れていく父。
そして――
「私……っ!」
自分の声なのに、知らない誰かの悲鳴みたいだった。
「わ、わた……どうしよう……」
何がどうしようなのか、もう分かっている。分かってしまう。
お父さんは母を殺したんじゃない。
その可能性が消えた瞬間、空いた場所へ別の答えが雪崩れ込んできた。
「私……とんでもないこと、しちゃった……の、かも……」
ノアさんが息を呑む気配がした。
「な……なにか、思い出した……の?」
思い出した。父の死体を見た瞬間、逃げていた記憶が全部、首根っこを掴んで引きずり戻してきた。
「あ、ぁああ……!」
頭を抱える。抱えても止まらない。喉の奥から声が溢れる。嫌だ。嫌だ、嫌だ。なのに思い出す。母の顔。枕。震える手。ほんの十何時間前。あの一言。夜の空気。四月一日。エイプリルフール。
「あぁあああああっ!」
私はその場で崩れた。
目の前には、母のベッドと、父の死体がある。
そして、そのどちらよりも恐ろしいものが、今、自分の頭の中で形を持ち始めていた。




