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新世界より  作者: 福田雛子
1話 未來福音
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未來福音④


 叫んでも、現実は何も変わらなかった。


 ノアさんは「大丈夫大丈夫、食べたら意外とチキンだから」と気軽に言って、本当に川辺の草むらから蛙を捕まえてきた。見た目ほどじゃない、の基準がもうおかしい。


 だから、なるべく見ないようにしていた。


 見ないようにしていても、耳には入る。草を踏む音。水音。小さな刃物が何かを裂く、しゃり、という湿った音。火を起こす気配。金属の擦れる音。ぱち、と小さな火花が散る音。


 やがて、川辺に炊きたての匂いが立った。


 湯気をまとった米の匂い。あたたかい食べ物の匂い。


 それだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。


 もうひとつ、香ばしい匂いも混じっていた。そっちはなるべく考えないことにする。おかずの正体に意識を向けたら、たぶん食べられなくなる。


 そうして数十分。


「はい、できたよ」


 差し出された飯盒の蓋には、白ご飯が盛られていた。私はそれを両手で受け取る。


 熱い。重い。


 掌に伝わる熱が、今ここにちゃんと食べ物があるんだと教えてくる。


 頭の中までお米みたいに真っ白になって、動けなかった。なんで、なんで、となって、ようやく気づく。両手がふさがっている。食べるための箸もカトラリーもない。


 その理性の残りかすまで読まれたみたいに、木の枝みたいな箸が差し出された。


 私はもう何も考えられないまま、それで米をひとくち掬う。湯気が目にしみた。口に入れる。


「――っ」


 言葉にならなかった。


 やわらかい。あたたかい。甘い。少しだけ癖はある。でも、そんなことはどうでもよかった。舌に触れた瞬間、数日ぶんの空白がいっぺんに埋まるみたいだった。


「う、うぅ……っ、おいっじい……」


 情けない声が出た。目の奥が熱くなって、視界がにじむ。こぼれた涙がぽろぽろ落ちていく。


 そんな私を見て、ノアさんが吹き出した。


「あはは、泣くほど? まぁカエルの味って鶏に近いからなぁ」


「お米……めちゃくちゃおいじい……」


「あ、そっちね」


 わりと本気でそっちだった。


 だから夢中でごはんをかき込んだ。おかずは最初こそ恐る恐るだったけど、口に入れてみればたしかに鶏肉に近い。少し弾力があって、変な臭みもない。


 悔しいけど、普通においしい。


 普通においしい、ということが悔しい。


 蛙なのに、白ごはんと一緒に食べると、ものすごくちゃんと「食事」だった。


「ろ過煮沸したとはいえ、川の水で炊いたからちょっと癖あるけど」


 遠くで聞こえるみたいなその声に、私は首をぶんぶん振る。


「おいしい! おいしい~っ!! もう死んでもいいぐらい幸せです。生きててよかった……」


「どっちよ」


「~~っだって!」


 言い返したつもりなのに、口の中にまだ米が入っていて全然うまく喋れなかった。


 みっともないと思う余裕もなく、また食べる。噛んで、飲み込んで、また食べる。そのたび、お腹の底が少しずつ静かになっていった。身体の中に、ちゃんと生きるためのものが入ってくる感じがする。


 しばらくそのまま必死で食べた。世界が終わるとか、記憶がないとか、そういうのを一瞬だけ忘れられるくらいには長くて、ひどく久しぶりの時間だった。


「よかったよ、君を助けて」


 ふいに落ちてきた言葉に、私は箸を止めた。


「声掛けても、死なせてくれって言う人多いんだ。こんなご時世だと」


 さっきまでと同じ軽い口調なのに、その中身だけ少し冷たい。私は口の中のものを飲み込んでから、小さく訊いた。


「……死なせてくれって言われたら、どうするんですか?」


 すぐには答えが返ってこない。


 ノアさんは川のほうを見た。春の水が、何も知らないみたいに光っている。


「選択の結果は尊重するよ。……ずっとそうしてきた」


 私は何も言えなかった。責めたいわけじゃない。でも、簡単には飲み込めない。


 終わる世界だからって、人が死にたいと言ったらそれをそのまま認めるのは、何か違う気がした。そう思うのに、じゃあ自分ならどうするのかと聞かれたら、何も言えない。


「幻滅した?」


「……すみません。失礼ですね、私」


「いいよ。まぁ『遅いか早いか問題』になっちゃったところもあるんだ」


「遅いか早いか……」


「一年経てばどうせ死ぬ、が勝っちゃうんだよ、皆」


 私は飯盒の中を見る。白いごはんが、まだ少し残っていた。


「残りの一年、楽しもうとか、思わないものなんですね……」


 ぽつりとこぼすと、ノアさんが肩をすくめる。


「さすが暫定女子高生。若さだね~」


「茶化さないでくださいよ」


 笑っているのに、ノアさんの目は少しだけやわらかかった。


「ま、分からなくても当然だよ。死にたい人は、死にたいから死ぬんじゃなくて、『もう何もしたくない』から死ぬんだ」


「でも、何もできなくなるんですよ?」


「それを幸せだって思う人もいるってこと」


 さらっとした言い方なのに、妙に実感があった。この人は、本当にそういう人たちを見てきたんだろう。見て、聞いて、それで今こうして言っている。


「人って本能的に、自分の幸福に繋がる言葉と行動を選ぶように出来てるんだよ。これ、人類共通」


「……死なせてくれって言う人も?」


「矛盾してると思うなら、それが正しいよ。あ、付いてるよ。ご飯粒」


「わ、う……すいません」


 慌てて口元を拭う。たぶん、ものすごく必死な顔をしていたんだと思う。ノアさんはまた少し笑った。


「そういえば聞いてなかった。行き倒れから生還したご感想は?」


 私は箸を持ったまま、しばらく考えた。


 ご感想。言われてみれば、たしか朝も聞かれていた気がする。


「……ん~」


 空を見上げる。青くて、広くて、普通の空だった。


 世界は終わるらしい。でも、今はまだ終わっていない。少なくとも、私の手の中には白米があって、お腹は少しずつ満たされている。


 だから、思ったことをそのまま口にした。


「ご飯が美味しいから……まだ頑張れる気がします」


「ふふ。遅いか早いかの違いだけどね」


「でも!」


 思ったより強い声が出て、自分でも少し驚いた。


「遅ければそのぶん、生きてたらいい事あるかもしれないじゃないですか……一年後に終わるとしても、一年は未来があるんですから」


 言い切ってから、ちょっとだけ照れくさくなる。偉そうに何を言ってるんだろうと思う。記憶もないくせに。さっきまで蛙に悲鳴を上げてたくせに。


 それでも、本当にそう思ったのだ。


 今この瞬間、ごはんが美味しい。それだけで、あと少し生きてもいい気がした。


「……ん。ご馳走様でした」


 飯盒の中は、綺麗なほど空になっていた。なんだかんだ言って、カエルの足もきれいさっぱり食べてしまった。


 普段の私なら意地汚いと思ったんだろうか。けれど今は、これくらい生き汚くても肯定できる気がする。少なくとも、覚えている限りじゃこんなに美味しい食事は初めてだった。


「いいね。そんなふうに未来の話が出来るなら、君は幸せに生きていけると思うよ」


 私はきょとんとして、それから少しだけ笑った。


「でも、生きてればいい事ある、は……お父さんの受け売りです。いつも言ってたか、ら……」


 口にした瞬間、自分で固まる。


 お父さん。


 さっきのお母さんに続いて、今度は父の言葉が出た。そうだ、私には父がいた。優しく笑いかける父が。


「そうだ、私のお父さんは……」


 その先がうまく出てこない。見えそうなのに、輪郭が曖昧だ。笑顔から変わる厳しい顔。低い声。お母さんを見ている時だけ、少しやわらぐ表情。


「……怖い人だった?」


 恐る恐る、というふうにノアさんが訊く。たぶん、気を使ってくれているんだろう。そのやさしさが少しくすぐったくて、私は首を振った。


「ううん。すごく家族の事を……っていうか、お母さんのこと愛してました」


 それは分かる。そこだけは、嫌になるくらい鮮明だった。


「いっつも人目気にせずいちゃいちゃして……それを、そう! 姉と一緒に、またか~って笑って……」


 そこまで言って、はっとする。


「あ」


 姉。


 今、自分で言った。お姉ちゃんがいた。


 その事実が、少し遅れて胸の奥に落ちてくる。だけど……いた。過去形だ。なぜ。そう問いかけても、記憶は何も返してくれなかった。


「ごめんなさい、まだぼんやりしてて……けど、会いたいな。みんなに」


 思い出せそうになるたび、頭の奥がじくじく痛む。けれど、口から出た言葉は全部本音だった。言った瞬間、胸の中で何かがきゅっと縮む。


 顔も、名前も、家の場所もまだはっきりしないのに、「会いたい」だけは真っ先に出てくる。そのことが少し不思議で、少しだけうれしかった。


 ノアさんはしばらく私を見ていた。いつもの軽い顔じゃなく、少しだけ真面目な目で。


「……訂正。こんな世界でも会いたい人が居るなら、それだけでもう君は幸せだよ」


 やさしい声だった。


 私はうまく返事ができない。幸せ、なんて言葉はまだしっくりこない。なのに、それを否定するのも違う気がした。


「へへ……」


 困ったみたいな笑いが漏れる。


 その時、ふと飯盒の中が気になった。まだ少しだけ残っている。ほんの少しだけ。たぶん常識的には遠慮する量。でも、久しぶりの食事をしたばかりの私に、常識はだいぶ弱かった。


「あの、ノアさん。お願いが……」


「いいよ。なに?」


「……おかわりしちゃだめですか? 白米」


 一拍おいて、ノアさんが瞬く。


「……めっちゃ食べるね、君。細いのに」


「す、すいません……五日ぶりの食事なのでつい」


「へぇ、五日」


 反芻するみたいに呟いて、それからノアさんの顔色が変わった。


「……五日!?」


「え!? あれ、なんで私、そんなに食べて無かったんだろ……」


 口にしてから、その数字の異常さにようやく気づく。五日も食べないなんて普通じゃない。どこかで食べようと思えば食べられたはずだ。たぶん。きっと。


 でも、私は食べていなかった。


 どうして?


 頭の奥を探る。何かがある。夜。家。暗い部屋。怒鳴り声。何かがぶつかる音。痛み。苦しさ。悲しさ。


「……っ」


 いきなり裏返ったみたいな昏い感情と一緒に、吐き気が込み上げてきて、私は口元を押さえた。ノアさんの声が少し低くなる。


「さっきの質問、そのまま返すけど……君、この街の人なの?」


「え……なんとなく見覚えあるから、多分……」


「じゃあここは生活圏内だ。住んでる家も近くにあると思う。なのに五日間も何も食べてなかったって、おかしくない?」


 答えられなかった。


 だって、おかしい。たしかにおかしい。その言葉が、重くのしかかってくる。


「しかも倒れてたのは深夜で、着ていたのは制服。他に学生がいる気配もないし……」


「あの」


 私は思わず遮った。これ以上言われると、何かが出てきてしまいそうだった。出てきたらまずい何かが。


「お姉さんとは一緒に住んでる? あ、思い出せる範囲で」


 瞬間、蘇ったのは、何度も聞いたことのある声だった。


『アンタ昔からそう。全部抱え込んでなぁなぁにして、何一つ自分で決めようとしない。怖がりの意気地なし!』


 怒鳴るような声。なのに、その奥にやるせなさとか、哀しさみたいなものがにじんでいる。そんな弱々しい声の主の顔は――


『もう勝手にすれば。バカ××!』


 私とよく似た背格好。姉の背中。家の玄関。立ち尽くす私。強い口調。振り向かないまま遠ざかっていく足音。最後だけ聞き取れなかった。


 でも、そうだ。思い出した。私のお姉ちゃんは……


「……家出しちゃったんです。お姉ちゃん」


 声が少し震えていた。なぜ。どうして。そう思うのに、はっきりした理由はまだ浮かんでこない。


「じゃあ、ここ半年間の生活のことは?」


「やめて……!」


 少し強い声が出た。


 今、胸にあふれているこの感じを私は知っている。


 知ってしまうと何かが壊れる、と本能が告げている。空腹になれば食べたいと身体が訴えるみたいに、それだけははっきり分かった。


 けれど、ノアさんは静かに言った。


「このままじゃみんな死ぬかも、そう言ってたよね?」


「あ……」


「……落ち着いて思い出してほしいんだけど」


 その声が不思議なくらいやさしくて、余計に逃げたくなった。


「何かから逃げてた、なんてことはない?」


 逃げてた。


 その言葉が、頭の奥のどこかにぴたりと嵌まる。息が詰まる。逃げてた。そうだ。私は――


「……あ」


 風の音が遠くなる。川の匂いが薄れる。


 代わりに、別の匂いがした。鉄みたいな、湿った匂い。暗い部屋。荒い息。何かが床にぶつかる音。


「そうだ、私」


 喉がひりつく。


「逃げてた」


 口にした瞬間、胃の奥がぎゅっと縮んだ。


「そう! 殺されそうになって! 私、殴られて、だから私……」


 言葉がそこで途切れる。頭の中で何かが一気にひっくり返った。嫌な記憶が、輪郭だけ先に迫ってくる。ちゃんと見えたら壊れると分かるのに、止められない。


「うっ……」


 吐き気がこみ上げて、私は口を押さえた。


「……誰から逃げてた?」


 震える唇を、なんとか動かす。


「お父さん」


 その一言で、世界の温度が変わった。暗がりの中で襲い来る暴力。痛み。大きな体躯の隙間から覗く、ベッド。母が眠るベッド。


 思い出したくないのに、思い出さなきゃいけないことがある。頭の奥で、ずっと閉まっていた扉が、嫌な音を立てて少しだけ開く。


「私、帰らないと……」


 立ち上がりかけて、足がもつれた。


「お母さん……お母さんが!!」


 川の匂いも、白ごはんの甘さも、さっきまで確かにあった幸福も、その瞬間ぜんぶ吹き飛んだ。


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