未來福音③
公民館を出ると、外気は思っていたより冷たかった。朝はもうとっくに過ぎているはずなのに、風にはまだ夜の名残がひっかかっている。包帯の巻かれた腕にそれが触れて、私は小さく肩をすくめた。
街は静かだった。
人がまったくいないわけじゃない。遠くで誰かが自転車を押していたし、歩いている人がのろのろと角を曲がっていくのも見えた。けれど、少なすぎる。
本当なら、もっと車の音がして、店先には人がいて、どこかの家からテレビや洗濯機の音が漏れていてもおかしくない。そういう生活の気配だけが、きれいに薄くなっていた。
シャッターを下ろしたままの店。看板だけ残って中身のない建物。窓ガラスにひびの入った家。
まだ生活は終わっていないはずなのに、街の半分だけ先に死んでしまったみたいだった。
ノアさんはそんな道を、慣れた足取りで歩いていく。私は少し後ろをついていきながら、その背中を見た。大きなバックパックを背負った背中。すらっとした長身で、並べば頭ひとつ分は差がある。たぶん、百八十センチ近い。
この辺じゃあまり見ない髪の色。ふと横を向いたときに光る、薄い色の目。見た目だけなら、道端で拾われた私よりよほど胡散臭いのに、本人だけがその自覚をまるで持っていなさそうなのが、なんだか腹立たしい。
「馬酔木さんは」
声をかけると、前を向いたまま返事が飛んできた。
「ノアでいいよ。そっちで呼ばれる事の方が多かったんだ」
「じゃあ、ノアさんは」
言い直してから、少し間を置く。
「この街の人なんですか?」
「……んー、そう見える?」
思わず横顔を見る。
そう見えるわけがない。髪も目も、喋り方もそうだし、何よりこの人には、ここに根を下ろして暮らしてます、みたいな感じがない。そんな人が、あんな大きなバッグを背負って歩いているとも思えなかった。
「旅してるんだ。どうしても死ぬ前に行きたいところがあってさ」
「……どこ?」
「北海道」
思っていたより、ずっと遠い答えだった。
「飛行機の方が早くないですか?」
口にしてから、少し変な気分になる。
飛行機という単語は知っている。早い、ということも知っている。でも、それが今どれくらい現実的な話なのかまでは、うまく掴めなかった。
「はは。飛行機なんてもうどの国も飛んでないよ」
「……そうなんだ」
「空港とか今、でっかい墓場みたいなもんじゃないかな」
軽い調子なのに、言っていることはまるで軽くない。
私は歩きながら、電柱の先に見える空を見上げた。青い。薄い雲が流れていて、どう見てもいつも通りの空だ。その下で、飛行機はもう飛ばないらしい。
見た目だけ普通なのが、妙に気持ち悪かった。
「まぁ陸路でも一年あれば余裕でしょって感じで、九州の方からサバイバルしつつぶらぶらとね。出来るだけ人が少ない場所を通れば意外となんとかなるもんだよ」
ノアさんはそう続けて、それから少しだけ視線を前に流した。
「けど少し前にね~……相棒が死んじゃって」
「え……」
「あ、車の話ね」
「なんだ……」
喉の奥にひっかかっていたものが、少しだけ下がる。今の世界で車が駄目になるのだって深刻なんだろうけど、さっきの一瞬は普通に人が死んだのかと思った。
「だから新しい相棒探しもしないといけないんだけど……まぁこの街ならなんとかなりそうかな」
「他の街って、どんな感じなんですか?」
聞いてから、少しだけ声をひそめた。知りたいような、知りたくないような話だった。
記憶がなくても、この街が普通じゃないことくらいは分かる。だったら、もっと大きな街はどうなっているんだろう。
「都心は酷いね。福岡なんてそれこそ地獄だったよ。世界が滅亡します、けれど一年後です、って言われちゃったら職を辞める人間と失う人間が、一気に出てくるから。労働者が居なくなったら国なんて一ヶ月で滅びるって話、マジだねあれ」
その言葉に、胸の奥で何かが小さく引っかかった。
「生活は……誰かの犠牲の上に成り立ってるから?」
口に出したあとで、自分でも少し驚く。勝手に出てきた言葉だった。
「誰の受け売り?」
「お母さんが……」
その一言で、胸の奥にかすかな熱が灯った。
霞の向こうにあるみたいにぼんやりしているのに、その言葉だけは妙にはっきりしている。
「だからいつも、色んな人にありがとうって言ってました。私にも」
顔も声もまだ遠い。けれど、ありがとう、という言葉だけが残っている。
感謝しなさい、じゃなくて。感謝しよう、みたいな言い方だった気がした。
ノアさんは、ふぅん、と間のびした声を出した。
「素敵なお母さんだった?」
「はい。すごく」
そこだけは迷わなかった。
理由は分からないのに、その返事だけはするっと出た。胸の奥に、小さく灯ったままのものがある。
「はは、よかった! その調子だと、すぐ思い出せそうだね。名前も家も」
「え?」
足が止まりかける。
家。
その言葉だけ、ほかより少し重かった。掴めそうだと思った瞬間には、もう霧の向こうへ逃げている。届きそうで届かない。
それでも、お母さんのことはほんの少し思い出せた。それが今の私には、細い糸みたいに思えた。
そのタイミングで、ノアさんがぱっと両手を広げる。
「じゃあ、その素敵なお母さんを見習って、私たちも感謝をしつつ頂こう! ここが今日のおかず処です!」
いつの間にか、公民館の通りを離れて川の近くまで来ていた。堤防の斜面の向こうに、光をはね返す水面が見える。広い川だった。さっきより風が強くて、草の匂いが鼻の奥をくすぐった。
「……何もないですけど。川しか」
「ふふふ」
私の正直な反応に、ノアさんはなぜか得意げだった。
「そして取り出すのは、福岡で手に入れた~」
焦らすように語尾を伸ばしながら、背負っていた荷物をごそごそ漁る。出てきたのは、キャンプで使うような飯盒と、使い込まれた折りたたみコンロみたいなものと、サバイバル用品っぽいメタルマッチとナイフ。それから――
「わぁ! お米!! 白ごはん!!」
自分でも引くくらい声が弾んだ。
目に入っただけで、口の中にじわっと唾液が溜まる。でもしょうがない。だってお米だ。白いごはんだ。空腹すぎる私にとって、それは宝石とか金塊とかより、ずっと価値がある。
「反応がいいねぇ」
「だってお米ですよ!?」
「米だね」
「白ごはんですよ!?」
「知ってる知ってる」
私の前でひらひら手を振りながら、ノアさんは袋を持ち上げた。
「米は保存も効くし軽いし、最高の食材だね」
妙に慣れた口ぶりで言うものだから、私は目を丸くする。
「あ、川でお米炊くんですか? キャンプみたい」
「若干世知辛いけどね」
たしかに。
テントもなければレジャー感もない。あるのは終末と、空腹と、川だけだ。でも、それでもお米が食べられると思うだけで、世界の終わりが少しだけ遠のく気がした。
鍋と袋を交互に見ながら、ふと首を傾げる。
「あれ、でもさっき、おかずって」
「ところでイトスギさん、フロッグは食べたことある?」
ノアさんはにこにこしている。
「フロッグ?」
聞き慣れない単語に、私は瞬きをした。
「ってなんですか?」
「蛙だよ。ゲーコゲーコ」
数秒、意味が入ってこなかった。
蛙。フロッグ。ゲーコゲーコ。
頭の中でその三つがようやく繋がる。
「あぁ、フロッグ。あはは、あるわけ――」
ない。ないに決まってる。ないよね?
というか、ノアさんが嫌な方向に、やけに真剣な目で何かを見ている。
「やだ」
小さく言ってみる。
聞こえないふりをされた。
「いや」
今度はもう少しはっきり言う。
「やだ!!」




