未來福音②
目を開けた瞬間、白が目に入った。
ぼんやり明るい、見知らぬ天井。染みの浮いた板張りを、朝の光が斜めに撫でている。眩しさに反射で腕を上げた途端、肩から背中に鈍い痛みが走った。
「う……ぅ」
喉がひりつく。出た声は掠れていて、自分のものなのに頼りなかった。
鼻の奥に、古い畳と埃っぽい布の匂いがこもっている。身体の下には毛布。薄いけれど、久しぶりに柔らかいものに包まれている気がして――
「……お母さん」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
自分で言って、自分で引っかかる。どうして今それが出たのか分からない。胸の奥に何かが引っかかったまま、続きを探ろうとしたところで、すぐ横から場違いなくらい明るい声が飛んできた。
「やぁ! 痛むところはある?」
心臓が跳ねた。私は声のしたほうを振り向く。
知らない男の人がいた。長身で細い。布団のすぐそば、壁にもたれるように座っている。昨夜、逆光の向こうにいた人だと、なんとなく分かった。顔は初めて見るはずなのに、声だけは妙に耳に残っていた。
「どうかな? 意識ははっきりしてる? 行き倒れから生還した感想は?」
軽い。半分死にかけて起きたばかりの相手に、どうしてそんな雑談みたいな調子で話しかけられるのか分からない。
私は少しだけその顔を見て、それから口を開いた。
「……地獄?」
割と本気だった。死にかけて目を開けたら、見知らぬ天井に見知らぬ男。地獄といえば火の海とか鬼とかを想像するけど、案外こういう拍子抜けした場所なのかもしれない。そんなことを考えていたら、男の人は楽しそうに肩を揺らした。
「あはは。残念、現実だよ」
「なら……どこ?」
「えーっと……こーみん館って呼ぶんだっけ」
こーみん館。ずいぶん気の抜けた響きだった。
男の人は天井を見上げるみたいにして続ける。
「流石にこのご時世だと、インフラがギリ生きてても病院なんてどこもやってないし。まぁ緊急避難にね。ホームレスとかの溜まり場にもなってなかったから、田舎町なのが幸いしたよ。運が良かったね」
言葉のひとつひとつは分かるのに、肝心なところだけごっそり抜けている感じがした。このご時世。病院なんて。緊急避難。頭がうまく追いつかない。
けれど、それより先に出てきた疑問はもっと単純だった。
「……誰?」
男の人は一度まばたきをして、それからにこっと笑った。人懐っこい笑い方だった。信用していいかどうかは、まるで別の話だけど。
「私? 私、アセビって言います。動物の馬に、酒に酔うに、樹木の木で馬酔木。洒落てるでしょ? そっちは何て字を書くんだい? イトスギさん」
聞き返したいことが一気に増えた。
馬酔木。……ノア。変わった苗字だな、と思う。難読ってやつだろうか。妙な親近感が湧いたところで、いや、そこじゃないと気づく。
今、さらっと何て呼ばれた?
「……誰?」
「だから、馬酔木です。まだぼーっとしてる? イトスギさん」
「イトスギって、誰……?」
言ってから、自分の声の頼りなさに背筋が冷えた。
相手の名前は聞こえているのに、自分のことになると急に分からない。変だ、と思う。けれど何がどう変なのか、うまく掴めない。
男の人――ノアさんは、今度こそ少しだけ表情を引き締めた。
「……君、行き倒れてたんだけど、覚えてる?」
覚えてる。
夜の道。街灯。冷たい指。意味の分からない質問。
そこまでは。じゃあ、その前は。
私は眉を寄せ、頭の奥を探るみたいに目を閉じた。家。学校。友達。年齢。住所。携帯の番号。何でもいいから一つくらい引っかかってほしいのに、どこにも手応えがない。引き出しを開けても全部空っぽ、そんな感じだった。
「……わかんない」
口にした途端、布団の上で指先がかすかに震えた。本当に分からない。自分のことなのに。
ノアさんは私の顔を見て、息を吐くように言った。
「はーん。そういう感じね。……マジか」
調子は軽いのに、最後だけ少し沈んだ。
私は毛布を握ったまま、何を言えばいいのか分からなかった。何を聞けばいいのかも分からない。自分の中にあるはずの何かが、ごっそり抜け落ちている。その感覚だけがじわじわ気持ち悪い。
見知らぬ天井。見知らぬ男。見知らぬ私。
私の沈黙をどう受け取ったのか、ノアさんは少し首を傾げ、それからふいに立ち上がった。
「まぁ、焦っても仕方ないか」
軽く言って、窓際に張ったロープのほうへ歩いていく。朝日が差し込むそのあたりに、紺色の布が吊られていた。
「君の名前、実を言うとこれに書いてあってさ。――お、乾いてる。返すね」
ロープから外して差し出されたそれを、私は反射みたいに受け取った。触れた瞬間、色と形でそれが何か分かる。紺のセーラー服だ。陽に当たっていたのか、布地に少しだけ乾いた匂いが残っていた。
くしゃっと握ったまま見下ろして、それからようやく、自分の格好に気づいた。
薄いキャミソールと下着。スカートだけが残っている。
「……え」
変な声が出た。反射で胸元を押さえる。見覚えのない服ではない。でも少なくとも、人前で着ている想定の格好じゃない。しかも腕や脚だけじゃなく、胸元の生地の隙間から白いガーゼの端がのぞいていて、キャミソールの裾の下、腹のあたりにもテープで留めた跡が浮いていた。消毒液みたいな匂いが遅れて鼻につく。
昨夜の記憶をたどる。道端で倒れて、そのまま運ばれて、服を脱がされて、手当されて――そこまできて、私は勢いよく顔を上げた。
どう見ても成人済みの男は、「あっ」という顔をした。
「いや、違う違う。違うからね?」
「何がですか……」
掠れた声で睨んでも迫力は出ない。でも気持ちとしてはかなり本気だ。
「何がって、今君が想像しただいたい全部?」
「想像したくなくてもするでしょ……」
ノアさんは両手を上げた。降参のつもりらしい。
「安心して。怪我の手当しただけ。服もほら、汚れてたし、ちょっと臭いがね? だから軽く洗って干しといた」
臭い、のひと言で言葉が詰まった。私だって女だ。意識のない間の自分をそんなふうに処理されたのだと思うと、耳のあたりまで熱くなる。そこに触れたらさらに燃え広がりそうで、私はぐっと飲み込んだ。
「スカートは?」
「それは、まぁ……全部脱がすと起きた時のショック強そうかなって」
「そこだけ変に配慮しないでください!」
怒っているのか恥ずかしいのか、自分でもよく分からない。ただ顔が熱い。
でも胸元のテープや腹のガーゼの位置を見る限り、手当そのものは必要なところだけに見えた。雑ではあるけど、妙な違和感はない。
本当に、運ばれて、脱がされて、手当された。それだけだ。だからこそ余計に気まずい。
「……先に言ってください、そういうの」
「ごめんごめん。起きたてで説明の順番ミスった」
やっぱり軽い。
私はじとっと睨みながら、受け取った制服を胸元に引き寄せた。白いラインの入った襟が目に入る。
「……セーラー服」
口にした瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。懐かしい、というほどはっきりしたものじゃない。ただ、知っているはずのものに触れた時の、小さな引っかかりだけが残る。
私はぎこちなく布地を広げる。胸元の裏、縫い付けられたタグに、カタカナで名前が書いてあった。
「……イトスギ」
自分で呟いてみる。いとすぎ。イトスギ。糸杉。
覚えも、馴染みも、愛着もない。けれど、強い違和感もなかった。たぶんこれが私の名前なのだと思う。そこから先は、何も続かない。漢字すら出てこない。
「何か思い出す?」
気軽な声が飛んでくる。私はセーラー服を抱えたまま、小さく首を振った。
「そっか」
ノアさんはあっさり頷いた。深刻ぶるわけでもなく、本気で流すわけでもない。その中間くらいの顔だった。
「んー、じゃあ恐らく女子高生のイトスギさん」
「恐らく……」
「だって記憶ないんでしょ。断定はよくないかなって」
「今の流れでそこだけ慎重なんですか」
「大事だよ。人をラベル貼りするのは良くない」
「服は脱がすのに」
「緊急事態さ。出るとこ出てくれったっていいよ?」
即答だった。
ちょっと腹が立つ。ちょっとだけ、ほんの少しだけ、安心もする。その二つが同時に来る感じがなんだか疲れる。
私は制服をぎゅっと抱え直した。
「……もういいです。着るので、あっち向いててください」
「はいはい」
ノアさんは素直に肩をすくめて、くるりと背を向けた。
私は慌ててセーラー服の上衣に腕を通す。乾いた布が肌に触れて、さっきまでの心細さが少しだけ薄れた。胸元を整えて、白いラインの入った襟を直す。包帯の上から布が重なる感触があって、そこでもう一度、胸と腹に手当の跡があることを思い出した。
それでも、何も着ていないよりずっとましだった。
「……いいです」
振り向いたノアさんは、一瞬だけこちらを見てから、軽く頷いた。
「うん。やっぱり制服着てると女子高生っぽいね」
「さっきも言ってましたよ、それ」
「断定はしてないよ。恐らくね」
ちょっと腹が立つ。でも、さっきよりはマシだった。
私は布団の端を握り直した。名字らしいものは分かっても、状況は何一つ良くなっていない。むしろ名前だけ分かったぶん、それ以外が空っぽなことが余計に気持ち悪かった。
イトスギ。たぶん私。でも、それだけ。
「改めて、ひとつ大事な話があるんだけど、いいかな?」
その言い方に、私は一瞬だけ身構えた。大事な話、なんて前置きで始まる話に、ろくなものはない。少なくとも私の人生では、たぶん。そこから先を考えかけて、嫌な感じがしたのでやめた。
「お金ならないです」
反射で口から出た。情けないと思う。でも最初に浮かんだのはそれだった。助けたあとで請求、そういう流れなら困る。私はたぶん無一文だし、制服を見ても財布の場所すら思い出せない。
ノアさんは目を丸くして、それから苦笑した。
「じゃなくて、地球があと一年で滅びるのは覚えてる?」
私は無言で目の前の男の顔を見た。
地球が。あと一年で。滅びる。
意味は分かる。言葉の並びも分かる。なのに、文として頭に入るより先に、どこかが拒否してくる。
「……あの」
喉がひりつく。さっきよりは声が出たけれど、それでもまだ掠れていた。
「宗教もいいです。そういうのはもう懲りてて……。……?」
口が勝手にそう言った。どうして“宗教”なのか、どうして“懲りてる”なのか、自分でも分からない。ただ、その手の話に近づきたくないという拒絶だけは妙にはっきりしていた。
「違うって。隕石降ってくるの。一年後に」
「はぁ……」
そこまで聞いて、私はようやく顔をしかめる。
「は?」
間の抜けた声が出た。でも仕方ない。隕石。一年後。何を言ってるんだ、この人は。
私の疑いを気にも留めないまま、ノアさんは慣れた調子で続けた。
「アネモネ彗星。恐竜が絶滅した時ぐらいデカいやつ。直径二十キロだったかな」
「……エイプリルフール?」
「はは。確かに今日は一年で唯一“嘘”を吐いても良い記念日だけど……残念ながらこれホントの話」
胸の奥がぞわっとした。さっきまでの空っぽとは別種の気持ち悪さだった。意味が分からないのに、相手が本気で言っていることだけは伝わってくる時の、逃げ場のない感じ。
私は思わず制服の裾を握りしめた。記憶はない。知らない人に助けられ、知らない場所で目を覚まし、自分の名字だけ知って、その次に世界が終わる話をされている。なんだそれ。訳が分からなすぎて、逆に少し笑いたくなる。
「し……信じられないです。証拠とか、ないんですか」
やっと絞り出せたのはそれだった。もっと他に聞くことがあるだろ、と自分でも思う。けれど結局いちばん確かめたかったのはそこだった。記憶喪失だの名字だのより、地球が滅びる話がいちばん意味不明だったから。
「いいよ。信じられるかはわからないけど、見せてあげる」
ノアさんはあっさり言って、傍に置いてあったスマホを手に取った。繋がっているのはモバイルバッテリーらしい。よく見れば、この建物に電気が通っている気配はない。
「スマホ……」
反射でポケットを探る。ない。というか、持っていた記憶すらない。私を私だと証明するものは、今のところ着ているものだけらしかった。
「あぁ、これ太陽光充電のモバイルバッテリー。電気も電波も通ってるとこなんてもう稀だし、ネットは殆ど死んでる。文明、虫の息って感じ?」
それで冗談みたいに笑えるのがすごい。いや、すごいというか、だいぶ変だ。
「ほら、これ見て。今から半年前ぐらい前のニュース動画」
映っていたのは会見場みたいな場所だった。険しい顔の人たちが並び、英語の字幕が走っている。途中で映像が切り替わる。空を横切る光の筋。赤い円で囲われた軌道図。落下予測のシミュレーション。
「……うわ」
口から出たのは、そのひと言だけだった。
「すごいでしょ」
返事をする代わりに、私はスマホを持つ手に少し力を込めた。画面の中では、蒼白な顔のキャスターが、たぶん深刻なことを言っている。その下を、見ているだけで息が詰まりそうな映像が次々に流れていく。
道路でひっくり返った車。割られた店のガラス。泣き叫ぶ人たち。どこかの国の群衆。暴動。火の手。争いの記録。AI動画かも、という逃げ道も一瞬よぎった。けれど、これがフェイクなら手が込みすぎている。画面越しでも分かる。ひどい。人類の終わりまで一年半という、短いのか長いのか分からない時間が、もう始まっていた。
「NASAがうん十年ひた隠しにしていた秘密だったのを、政権交代を機に大統領が世紀の大暴露しちゃってね。人類の危機! 一致団結! をイデオロギーにしたかったんだろうけど、それを境に、暴動、犯罪、自殺の数が急上昇。たった半年で既に人間社会は滅びかけて、残りの時間はあと一年。ま、政府がバカだったね。……ホント、たまったもんじゃない」
ノアさんはいつもの軽い口調のまま喋っていた。でも最後のひと言だけ、少し低く落ちた。
「……日本も、今こうなんですか?」
「酷いは酷い。でも殺し合いにまではなってないから平和なほうだね。民度の差ってやつかな。まぁ、野垂れ死にする人は多いけど」
平和、という言葉の使い方がだいぶおかしい。でも昨夜の道を思い出すと、少しだけ分かる気もした。あの静けさは、ただ穏やかだから静かだったわけじゃない。いろんなものが抜け落ちたあとに残った静けさだったのかもしれない。
私は膝の上の制服を見た。名前だけ分かって、記憶はない。世界は終わるらしい。それなのに朝日は普通に差して、今も私は生きている。なんだそれ。
「……ホントに覚えてない? なんで倒れてたのかも?」
私はゆっくり顔を上げた。
「なんか」
そこまで言って、少し黙る。頭の中はまだずっと霧の中みたいだった。思い出しかけるたび、輪郭が崩れる。指のあいだから水が抜けていくみたいに、何もつかめない。
それでも引っかかったわずかな違和感を、私は慎重に言葉にした。
「ずっと、頭ぼんやりしてて……。けど……このままじゃみんな死ぬ、って思ったの。……それだけ覚えてる」
言ってから、自分でも妙だと思った。みんな、って誰だろう。家族なのか、街の人なのか、それとも本当に、みんな、なのか。分からない。分からないのに、その感覚だけは妙に残っている。
「ふむ」
ノアさんは少し考えるように黙って、それから肩をすくめた。
「ま、考えても仕方ないし、もう行こっか」
「え……どこに?」
「何処って」
ノアさんは首を傾げる。
「お腹空いてない?」
そのひと言に、思考より先に身体が反応した。
「っ!! 空いてます!! すごく!! ペコペコ!」
ほとんど反射だった。自分でも驚くくらい即答だ。さっきまで世界の終わりだの記憶喪失だのに押し潰されかけていたのに、お腹の話には全力で答えられるらしい。
そんな私が面白かったのか、ノアさんは吹き出した。
「元気じゃん」
「ちが、お腹空いてるだけです」
「それを元気って言う場合もある」
なんだか悔しい。でも本当にお腹は空いていた。胃が縮むみたいに痛い。包帯の巻かれた腕や脚の違和感より、今はそっちのほうがずっと切実だった。
窓の外をちらっと見ながら、ノアさんが言う。
「ま、一時的な記憶喪失なら、そのうち色々思い出すでしょ」
あまりにも軽く言うので、私は思わず眉をひそめた。
「そんな適当な」
「悪い方に考え続けてもお腹は膨れないよ」
「理屈が雑」
「正論さ」
それは、たしかにちょっとだけそうだった。
「助けた手前もあるし、それまでは付き合うよ」
さらっと言われて、私は言葉に詰まった。響きは軽いのに、意味は軽くない。行き倒れの女の子を拾って、手当して、記憶が戻るまで面倒を見る。普通に考えて面倒だ。
「……もし」
「もし?」
「もし何も思い出せなかったら……? 私、帰る場所なんてあるのかな」
言った瞬間、部屋の空気が少しだけ静かになった気がした。お腹が空いてると言った時みたいには言えない。こっちは、もっと嫌な何かに繋がっている。
ノアさんはすぐには答えなかった。けれど深刻そうな顔もしない。ただ少しだけ目を細めて、考えるように私を見た。それから、ふっと笑う。
「その時は、諦めて好きに生きたらいいんじゃない?」
「好きに……」
「そう。なんせ人類、あと一年で滅んじゃうんだし」
私はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
好きに生きる。そんな言葉、今までの私の人生にあったんだろうか――そう思いかけたところで、また頭の奥が白く霞む。だから私はその先を追うのをやめて、小さく息をついた。
「……そうですね」
今は、それでいい気がした。
「そうします」
四月一日、エイプリルフール。
目が覚めたら、住所も名前も年齢も、その他諸々まるっと記憶が飛んでいた。そのうえ地球は一年後に滅びるらしい。嘘みたいな話は、どうやら本当らしい。
「じゃ、行こう。いざご飯処に」
「おー?」
その日初めて、私は少しだけ、言葉と一緒に笑っていた。




