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新世界より  作者: 福田雛子
2話 渚の怪獣
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渚の怪獣⑩


「同じでしょ? お姉ちゃんも」


 襟花は、ここまで自分を連れてきてくれた「お姉ちゃん」を見上げた。


 目の前には海があるのに、お姉ちゃんは少しも嬉しそうじゃない。何か言いたげに立ち尽くしたまま、息まで変だった。苦しいのを、じっとこらえているみたいに見える。


 襟花は首を傾げた。


「お姉ちゃん?」


「ごめんね。歩きすぎて疲れちゃったみたいだ。ね、未來」


 するりと間に入ったのは、ノアのやわらかい声だった。答えを決めてしまうようでいて、押しつけがましくはない。襟花に目線を合わせるようにしゃがみ込んで、にこりとする。


「そっか。そうだよね」


 襟花は未來とノアの顔を見比べて、それから納得したように頷いた。


 難しいことは分からなくても、疲れたと言われれば、そういうものかと思える。だって「お姉ちゃん」は、ずっと自分をおぶってくれていたのだ。海を見て自分だけ元気になった気がしていただけで、ほんとはみんなくたくたなのかもしれない。


「波の近くまで行くかい? 背負ってあげるよ」


 その一言で、身体の奥に残っていた疲れまで、ふっと軽くなった。


「いいの!? やった……! えへへ。ねぇ、お姉ちゃんも一緒に行こ?」


 襟花はもう一度、未來の手を引いた。今度は少しだけ強く。


 海はこんなに綺麗で、広くて、すごいのだから、一緒に来たほうがいい。見たらきっと、自分みたいに元気になれる。そう思ったのに、未來はすぐには答えなかった。


 喉の奥で何かがつかえたみたいに、息だけが小さく揺れる。唇が震えて、何かを堪えるように、絞り出すようにして、


「……っごめん。私は、一緒にいけない」


 襟花はぱちぱちと瞬きをした。


 一緒にいけない。


 その言葉を深く考えるより先に、やっぱりそれくらい疲れているんだ、という思いがきた。引っぱってしまって悪かったかもしれない。


「そっかぁ、ごめんね。……じゃあ、待ってて! ノア、いこ!」


 気を取り直すように明るく言うと、ノアは何も言わずに襟花を抱き上げた。


 ふわりと身体が浮く。少し驚いたけれど、嫌ではない。足をかばわなくていいだけでずいぶん楽だし、視界が高くなって、海がさっきより広く見えた。


「うわぁ! あはは! 高ーい! ん〜……風、きもちいいなぁ」


 海から吹いてくる風は、山の空気とまるで違った。湿っているのに重くない。知らない匂いがする。鼻の奥が少ししょっぱくなるような、不思議な匂いだ。


 ノアは襟花を抱えたまま、波打ち際へ足跡を残していく。途中で、ぽつりと言った。


「……君は怪獣だね」


「え?」


 襟花は目を丸くした。


「小さな怪獣」


 一瞬きょとんとして、それからすぐに頬がゆるむ。


 怪獣、と聞いて浮かんだのは小さな命だった。村で拾って、世話をして、自分と花澄にだけ懐いてくれた、小さな獣。だからその言葉を自分に向けられると、少しくすぐったい。


「がるる~……にゃあー!」


 真似してみたら、自分でおかしくなってしまって、えへへ、と笑いがこぼれた。花澄の前でしか見せたことがないような、やわらかい笑い方だった。


「……ねぇ、ノア」


「ん?」


「私も一緒に行きたいな、お姉ちゃんと。だって、絶対楽しいよ? それにね……私やっぱりお兄ちゃんに会いたい。だから、」


「さっき未來が言ってたろ? 一緒にはいけないよ」


 やさしい声だったのに、襟花は少しだけ唇を尖らせた。


「それは海の話だよ。だって約束したもん。私、」


「ほら、降ろすよ。どう?」


 言葉の途中で、視界がすっと下がった。次の瞬間、ざぶん、と足元に水がぶつかる。


「わ、わ、わ~! 冷た!」


 思わず声が跳ねた。足の先から冷たさが一気に駆け上がってきて、身体がきゅっと縮む。なのに嫌じゃない。むしろ可笑しい。水たまりや田んぼに入ったときの冷たさとは全然違う。生きて動いているみたいな冷たさだった。


「あはは、ねぇ! ざぱーん! って、あはは! すごい! 気持ちいい~!」


 波が来るたび、白い泡が足首にまとわりついて、すぐ引いていく。引くときには砂までさらさら持っていかれて、足の裏がくすぐったい。立っているだけなのに、地面がじわじわ逃げていくみたいで、襟花は何度も笑った。


 海は、思っていたよりずっと大きかった。


 大きい、なんて言葉では足りない。どこまでも続いていて、向こう岸なんて見えない。空と海の境目もよく分からない。光が水の上で揺れていて、眩しくて、綺麗で、見ているだけで胸の奥がふわふわした。


 これを見せたかったのだと、襟花は思った。


「……海、すごいよ。天国みたい……見てる? 花澄……」


 笑いながら言って、そっと自分のお腹に手を添える。


 そこに触れると、花澄がちゃんと一緒にいる気がした。姿は見えなくても、声が聞こえなくても、もう離れてはいない。海へ行こうねと約束したあの日から、ずっと一緒だ。だからこれは、今も一緒に見ている、だった。


 波がまた来た。今度は少し強い。


「きゃっ」


 よろける。冷たい。くすぐったい。怖いような、楽しいような、変な感じがした。


 あはは、とまた笑って、襟花はふと思い出したように振り向いた。


「ねえ、やっぱりお姉ちゃんも――」


 声が止まる。


「あれ?」


 そこにいるはずの二人が、いなかった。


 ノアも。未來も。


 さっきまでたしかに後ろにいたはずなのに、海辺には波の音しかなくて、返事だけがきれいに抜け落ちていた。


 襟花は目をしばたたかせる。


「……ノア? お姉ちゃん?」


 呼んでみる。


 返ってきたのは風の音だけだった。髪が頬に張りついて、波がまた足元を濡らす。


「どこー?」


 少しだけ声を張る。


 かくれんぼかな、と一瞬だけ思った。そういう冗談をするには、二人とも大人っぽすぎる気もする。けれど海まで来たのだから、少しくらい変なことをしたっていいのかもしれない。


 返事はなかった。


 ざあ、ざあ、と波だけが繰り返し寄せてくる。


 襟花は首を伸ばして、あたりを見回した。砂浜の先。少し離れた岩陰。後ろの道。どこにも見えない。


「ねぇー!」


 今度はもう少し大きな声を出した。その瞬間、強めの波が足首まで駆け上がってきて、襟花はバランスを崩しかける。


「わ、きゃ~!」


 慌てて片足を浮かせる。冷たい。びっくりした。びっくりしたのに、またおかしくなる。


「あはは。つめたぁい」


 誰もいないのに、思わず報告するみたいに口にしていた。


 海が楽しいから笑っているのか。二人がいなくて変だから笑っているのか。襟花にもよく分からない。


 胸の奥に、ほんの小さな穴みたいなものが空きはじめていた。けれど、それが何なのか、まだ名前を知らない。


 だから、笑った。


「あはは」


 波が来る。


「あははは!」


 足元がくすぐったい。風が気持ちいい。海は綺麗だ。天国みたいだ。花澄と一緒に見ている。お兄ちゃんにも見せたかった。ノアもお姉ちゃんも、ちゃんとどこかで見てるよね。そう思って振り返っても、やっぱり誰もいない。


 襟花はもう一度だけ、海の向こうを見た。きらきらしていた。まぶしかった。泣きたくなるくらい綺麗だった。


 だからやっぱり、笑うしかなかった。


「あはは。あははは!」


 その笑い声は波にちぎられて、渚の調べに乗っていつまでも響いていた。



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