渚の怪獣⑩
「同じでしょ? お姉ちゃんも」
襟花は、ここまで自分を連れてきてくれた「お姉ちゃん」を見上げた。
目の前には海があるのに、お姉ちゃんは少しも嬉しそうじゃない。何か言いたげに立ち尽くしたまま、息まで変だった。苦しいのを、じっとこらえているみたいに見える。
襟花は首を傾げた。
「お姉ちゃん?」
「ごめんね。歩きすぎて疲れちゃったみたいだ。ね、未來」
するりと間に入ったのは、ノアのやわらかい声だった。答えを決めてしまうようでいて、押しつけがましくはない。襟花に目線を合わせるようにしゃがみ込んで、にこりとする。
「そっか。そうだよね」
襟花は未來とノアの顔を見比べて、それから納得したように頷いた。
難しいことは分からなくても、疲れたと言われれば、そういうものかと思える。だって「お姉ちゃん」は、ずっと自分をおぶってくれていたのだ。海を見て自分だけ元気になった気がしていただけで、ほんとはみんなくたくたなのかもしれない。
「波の近くまで行くかい? 背負ってあげるよ」
その一言で、身体の奥に残っていた疲れまで、ふっと軽くなった。
「いいの!? やった……! えへへ。ねぇ、お姉ちゃんも一緒に行こ?」
襟花はもう一度、未來の手を引いた。今度は少しだけ強く。
海はこんなに綺麗で、広くて、すごいのだから、一緒に来たほうがいい。見たらきっと、自分みたいに元気になれる。そう思ったのに、未來はすぐには答えなかった。
喉の奥で何かがつかえたみたいに、息だけが小さく揺れる。唇が震えて、何かを堪えるように、絞り出すようにして、
「……っごめん。私は、一緒にいけない」
襟花はぱちぱちと瞬きをした。
一緒にいけない。
その言葉を深く考えるより先に、やっぱりそれくらい疲れているんだ、という思いがきた。引っぱってしまって悪かったかもしれない。
「そっかぁ、ごめんね。……じゃあ、待ってて! ノア、いこ!」
気を取り直すように明るく言うと、ノアは何も言わずに襟花を抱き上げた。
ふわりと身体が浮く。少し驚いたけれど、嫌ではない。足をかばわなくていいだけでずいぶん楽だし、視界が高くなって、海がさっきより広く見えた。
「うわぁ! あはは! 高ーい! ん〜……風、きもちいいなぁ」
海から吹いてくる風は、山の空気とまるで違った。湿っているのに重くない。知らない匂いがする。鼻の奥が少ししょっぱくなるような、不思議な匂いだ。
ノアは襟花を抱えたまま、波打ち際へ足跡を残していく。途中で、ぽつりと言った。
「……君は怪獣だね」
「え?」
襟花は目を丸くした。
「小さな怪獣」
一瞬きょとんとして、それからすぐに頬がゆるむ。
怪獣、と聞いて浮かんだのは小さな命だった。村で拾って、世話をして、自分と花澄にだけ懐いてくれた、小さな獣。だからその言葉を自分に向けられると、少しくすぐったい。
「がるる~……にゃあー!」
真似してみたら、自分でおかしくなってしまって、えへへ、と笑いがこぼれた。花澄の前でしか見せたことがないような、やわらかい笑い方だった。
「……ねぇ、ノア」
「ん?」
「私も一緒に行きたいな、お姉ちゃんと。だって、絶対楽しいよ? それにね……私やっぱりお兄ちゃんに会いたい。だから、」
「さっき未來が言ってたろ? 一緒にはいけないよ」
やさしい声だったのに、襟花は少しだけ唇を尖らせた。
「それは海の話だよ。だって約束したもん。私、」
「ほら、降ろすよ。どう?」
言葉の途中で、視界がすっと下がった。次の瞬間、ざぶん、と足元に水がぶつかる。
「わ、わ、わ~! 冷た!」
思わず声が跳ねた。足の先から冷たさが一気に駆け上がってきて、身体がきゅっと縮む。なのに嫌じゃない。むしろ可笑しい。水たまりや田んぼに入ったときの冷たさとは全然違う。生きて動いているみたいな冷たさだった。
「あはは、ねぇ! ざぱーん! って、あはは! すごい! 気持ちいい~!」
波が来るたび、白い泡が足首にまとわりついて、すぐ引いていく。引くときには砂までさらさら持っていかれて、足の裏がくすぐったい。立っているだけなのに、地面がじわじわ逃げていくみたいで、襟花は何度も笑った。
海は、思っていたよりずっと大きかった。
大きい、なんて言葉では足りない。どこまでも続いていて、向こう岸なんて見えない。空と海の境目もよく分からない。光が水の上で揺れていて、眩しくて、綺麗で、見ているだけで胸の奥がふわふわした。
これを見せたかったのだと、襟花は思った。
「……海、すごいよ。天国みたい……見てる? 花澄……」
笑いながら言って、そっと自分のお腹に手を添える。
そこに触れると、花澄がちゃんと一緒にいる気がした。姿は見えなくても、声が聞こえなくても、もう離れてはいない。海へ行こうねと約束したあの日から、ずっと一緒だ。だからこれは、今も一緒に見ている、だった。
波がまた来た。今度は少し強い。
「きゃっ」
よろける。冷たい。くすぐったい。怖いような、楽しいような、変な感じがした。
あはは、とまた笑って、襟花はふと思い出したように振り向いた。
「ねえ、やっぱりお姉ちゃんも――」
声が止まる。
「あれ?」
そこにいるはずの二人が、いなかった。
ノアも。未來も。
さっきまでたしかに後ろにいたはずなのに、海辺には波の音しかなくて、返事だけがきれいに抜け落ちていた。
襟花は目をしばたたかせる。
「……ノア? お姉ちゃん?」
呼んでみる。
返ってきたのは風の音だけだった。髪が頬に張りついて、波がまた足元を濡らす。
「どこー?」
少しだけ声を張る。
かくれんぼかな、と一瞬だけ思った。そういう冗談をするには、二人とも大人っぽすぎる気もする。けれど海まで来たのだから、少しくらい変なことをしたっていいのかもしれない。
返事はなかった。
ざあ、ざあ、と波だけが繰り返し寄せてくる。
襟花は首を伸ばして、あたりを見回した。砂浜の先。少し離れた岩陰。後ろの道。どこにも見えない。
「ねぇー!」
今度はもう少し大きな声を出した。その瞬間、強めの波が足首まで駆け上がってきて、襟花はバランスを崩しかける。
「わ、きゃ~!」
慌てて片足を浮かせる。冷たい。びっくりした。びっくりしたのに、またおかしくなる。
「あはは。つめたぁい」
誰もいないのに、思わず報告するみたいに口にしていた。
海が楽しいから笑っているのか。二人がいなくて変だから笑っているのか。襟花にもよく分からない。
胸の奥に、ほんの小さな穴みたいなものが空きはじめていた。けれど、それが何なのか、まだ名前を知らない。
だから、笑った。
「あはは」
波が来る。
「あははは!」
足元がくすぐったい。風が気持ちいい。海は綺麗だ。天国みたいだ。花澄と一緒に見ている。お兄ちゃんにも見せたかった。ノアもお姉ちゃんも、ちゃんとどこかで見てるよね。そう思って振り返っても、やっぱり誰もいない。
襟花はもう一度だけ、海の向こうを見た。きらきらしていた。まぶしかった。泣きたくなるくらい綺麗だった。
だからやっぱり、笑うしかなかった。
「あはは。あははは!」
その笑い声は波にちぎられて、渚の調べに乗っていつまでも響いていた。




