渚の怪獣⑨
夜が明けきる少し前の空は、青いというより薄かった。
山道を抜けてからも、道はしばらく頼りなく続いていた。ひび割れた舗装。脇に伸びる雑草。曲がるたびに見える、知らない斜面と木々の影。どこまで行っても同じような景色ばかりで、足を前に出しているのに、本当に進んでいるのか分からなくなる。
それでも、空気が変わったのは分かった。
山の湿った匂いに混じって、何か別のものが入り込んでくる。冷たいような、ざらつくような、鼻の奥が少しつんとする匂い。最初は気のせいかと思った。疲れすぎて頭がおかしくなったのかとも思った。空腹と寝不足で、最近の私はだいぶ簡単に幻を見そうになる。
背中では、襟花ちゃんが浅く息をしている。
山を下り始めてから、彼女はときどき眠って、ときどき起きて、そのたびに海はまだかと訊いた。私はそのたびに、もう少しだよ、と根拠のないことを言った。もう少し、ってどれくらいだ。私も知らない。
腕も肩も痛かった。脚はもうずっと前から自分のものじゃないみたいだった。歩くたび、膝の奥がぎしぎしする。喉は乾いてるし、お腹は空っぽだし、汗が乾いた制服は肌に張りついて気持ち悪い。それでも背中の小さな熱だけは、まだ離したくなかった。
ノアさんも、さすがに黙っていた。
後ろから聞こえてくる足音は重い。荷物を持ち直す音が何度かして、そのたびに、あぁ着いてきてくれてる、と思う。私のわがままに文句も……多分あるんだろうけど、何も言わずに尊重してくれる彼という存在がすごくありがたかった。
「はぁ……はぁ……」
空が少しずつ白んでいく。木々のあいだから落ちてくる光も、夜の色じゃなくなっていく。
もう少し。もう少しだけ進めば、何かあるかもしれない。そんなふうに思い始めた頃だった。
「お姉ちゃん」
背中で、襟花ちゃんの声がした。さっきまで眠そうだったのに、今は少しだけ弾んでいる。
「……ねぇ、お姉ちゃん! ……あれ!」
「え……?」
道の先が、ふっと開けていた。山に挟まれていた視界が、突然そこで終わっている。その向こうにあるものを、私は一瞬うまく認識できなかった。朝の光を薄く反して、どこまでも平たく広がる青灰色の面。風に揺れて、きら、と鈍く光るもの。
呼吸が止まる。
「あ……」
喉の奥から、声とも息ともつかないものが漏れた。
海だ。
「……海」
口にした瞬間、それはやっと現実になった。
海。ほんとに。ちゃんと海。山じゃない。川でも池でもなくて、もっと大きくて、もっとずっと、終わりが見えないもの。
「ノアさん!!」
振り向きざま、ほとんど叫んでいた。
「海! 海ですよ!!」
「えぇ!?」
後ろから、息の切れた情けない声が返る。
ノアさんは荷物を抱えたまま顔を上げて、それから数秒遅れて固まった。
「海岸……てことは……うわ、四国横断したの!? うそぉ……」
そのまま、へたりこんだ。ぺたん、と、もう本当に腰が抜けたみたいな座り方だった。
私はそれを見て、笑うつもりなんてなかったのに、笑いそうになった。というか、たぶん半分泣きそうだった。ずっと苦しくて、疲れて、空腹で、先のことなんて何も分からなくて、それでも歩いてきて、ようやく見えたものが海で、しかもノアさんは四国横断したことに今気づいて腰を抜かしている。状況がめちゃくちゃすぎて、もう笑うしかない。
「う、う~~~っ……!」
変な声が出た。
「やったぁ~!!」
叫んだ瞬間、膝から力が抜けた。
「わ、わ……っ」
足元の小石に取られて、そのまま前につんのめる。危ない、と思った時には遅くて、私は襟花ちゃんごと盛大に地面へ転んだ。
「わぁ!」
襟花ちゃんの小さな悲鳴。
「わ、あ、ごめん! 大丈夫!?」
慌てて身体を起こす。砂利が掌に食い込んで痛い。膝も擦れた。でも、襟花ちゃんはきょとんとしたあとで、ふいに噴き出した。
「ぷ、あははは」
その笑いにつられて、私も笑ってしまう。
「あは、あはは……っ」
なにやってるんだろう、私たち。
山の中で遭難して、子供を背負って、食べ物もほとんどなくて、全然どうにかなってないのに。それでも今だけは、ただ海が見えたことが嬉しくて、転んだことすらおかしくて、笑えてしまった。同時に頬が熱くなる。疲れてるせいで息はすぐ上がるし、笑うだけでも胸が苦しい。でも苦しいのに、少し気持ちよかった。
襟花ちゃんが私の顔を覗き込む。
「お姉ちゃん、すごい汗」
「え~……そう?」
言いながら、自分でも分かる。額も首も汗でべたべただ。ここまでずっと背負って歩いてきたんだから当然なんだけど、改めて言われるとちょっと恥ずかしい。
私に覆いかぶさった襟花ちゃんはきゃっきゃと笑いながら、私の首筋に顔を寄せてぺろっと舌を這わせる。粘膜が肌を這う初めての感覚に一瞬変な声が出た。
「お姉ちゃん。しょっぱい!」
「もう~!」
思わず笑う。
「ヘトヘトだよぉ……お腹すいたぁ……」
口に出した瞬間、本当に全身の力が抜けそうになった。肩は痛いし、腰もやばいし、喉はからからで、今すぐここに寝転がってそのまま動きたくなかった。
でも襟花ちゃんは、私の弱音なんて追い越すみたいに、ぱっと顔を上げる。
「なんか……つーんって匂いがする」
潮の匂いだ。さっきから鼻の奥に触れていた、山の中にはなかった匂い。土とも草とも違う、もっと広くて、もっと遠いところから来る匂い。
「ね! もっと近くに行こ!?」
襟花ちゃんの目がきらきらしていた。
怪我をしていて、痩せていて、ここまでずっと小さくなっていた身体のどこにそんな元気が残っていたんだと思うくらい、声が明るい。
「えぇ!?ちょっと休まない!?」
後ろで座り込んだままのノアさんが悲鳴みたいな声を出す。長い脚を投げ出し荷物を抱えたまま、ものすごく情けない顔をしている。でも私は、そんな姿にも、もう笑うしかできなかった。立ち上がろうとすると脚ががくがくしたけど、なんとか踏ん張る。膝裏が震えながら、襟花ちゃんを支え直しながら、私はノアさんへ手を伸ばした。
「ほらぁっ。行きますよ、ノアさん」
「なんでそんな元気なの~!?」
「それはね~?」
わざと間を作ると、襟花ちゃんがにやりと笑って、息を合わせる様に一緒に答えた。
「「若いからー!」」
重なった二人の声が、朝の海沿いに抜けて、ノアさんは心底納得いかないみたいな顔をした。
「……まだ二十代なんだけどな」
その言い方がちょっとだけ拗ねていて、また笑ってしまう。ていうか、二十代なのは初めて知った。改めてだけど、私はこの人の事を何も知らない。だけど今は目の前の海に惹かれて、気にする余裕もなくて、
「ちょっと待ってぇ……あ~、お腹すいた……」
後ろから情けない声が続く。その情けなさすら、今は嬉しかった。
だって、まだこうして喋れている。まだ三人とも、生きている。お腹が空いたと文句を言えるくらいには、生きてここまで来た。
海は、道の先いっぱいに広がっていた。
白んだ朝の光の中で、波がゆっくり寄せては返す。ざあ、という音が少し遅れて届く。そのたびに、胸の奥の何かまで洗われるような気がした。ほんの一瞬だけ、私たちは山の中の飢えも、痛みも、臭いも、世界の終わりも、忘れられそうだった。
ほんとに着いた。襟花ちゃんが見たかった海。花澄ちゃんと来るはずだった海。私たちがもう無理かもしれないと思いながら、それでも歩いて辿り着いた海。
それはあまりにも大きくて、綺麗で、何も知らないみたいに静かだった。
私は襟花ちゃんを支えながら、一歩ずつその青のほうへ歩く。
背中の痛みも、空腹も、脚の震えも消えてはいない。
でも今だけは、それより先に、嬉しいと思った。こんな世界で生きて、やっと何かひとつくらい報われた気がした。
「お姉ちゃん、早く〜!」
「了解〜!」
一歩進むたびに道が砂混じりになって、靴の裏でじゃり、と乾いた音がした。
山を抜けた先の空はひらけていて、さっきまでずっと私たちを押し込めていた木々の影が、急に遠くなる。朝の光はまだ柔らかいのに、海のほうだけはもうちゃんと明るかった。薄い青と灰色のあいだで揺れる水面が、呼吸するみたいに光っている。
波の音が近づくたび、胸の奥の緊張がひとつずつほどけていく気がした。ざあ、と寄せて。少し間を置いて、また返していく。
その繰り返しが、あまりにも穏やかで、綺麗で、ここまで山の中で擦り減ってきたもの全部を、ほんの少しだけ騙してくれるみたいだった。
私は襟花ちゃんを支えながら、ゆっくり砂浜の端まで下りる。
足場が悪くて、膝が笑う。背中から下ろしてからも、腕を離すのが少し怖かった。ふらついたらそのまま転びそうだったし、たぶん私自身も、何かに掴まっていたかった。
「…………」
襟花ちゃんは、海を見ていた。もう瞬きも忘れたみたいに、じっと。
潮風に前髪が揺れて、痩せた頬に朝の光が薄く差している。ぼろぼろの身体で、傷だらけで、脚だって痛いはずなのに、その横顔だけは妙に静かだった。
「……どう?」
訊いてから、変な質問だなと思った。どう、って。海は海だ。綺麗かどうかなんて、見れば分かる。
でも、他に何て言えばいいのか分からなかった。襟花ちゃんは少しだけ目を細めたまま、小さく息を吐く。
「綺麗」
その一言が、波の音に溶けるみたいに落ちた。
「音も、色も、全部。……すごいね、海って」
それから、ふっと笑う。
「そっか。花澄、これを見せたかったんだ」
私は何も言えなくて、 うん、と返すくらいしかできないのに、その“うん”すら喉の奥でつかえて、出てこなかった。
ただ襟花ちゃんの横顔を見ていた。
花澄ちゃん。
名前だけは何度か聞いた。そのたびに、襟花ちゃんの声の中でだけはまだ生きているみたいに響く名前だった。
襟花ちゃんは海から目を離さないまま、続ける。
「……ありがとう。連れてきてくれて」
「……うん」
喉が渇いていたせいか、声が少しかすれた。
襟花ちゃんは気にした様子もなく、波打ち際の向こうを見たまま、波の音に混じるような静かな声を溢す。
「本当はね、諦めてたんだ」
風が吹く。髪が頬にかかって、それを払う動作すら彼女はしなかった。
「もう無理かなって。どうせ着かないかなって、何回も思った。けど、花澄が私に見せたかった景色なら、それが花澄の幸せだったなら、絶対に見なきゃって思ったの」
「うん」
返事はそれしか出なかった。たぶん、今はそれでよかった。
生まれて初めて海を見つめる少女の言葉を、途中で折りたくなかった。
「ありがと」
今度は、さっきよりずっと小さな声だった。
「私……生きてて良かったぁ」
「うん」
その「うん」は、自分でもびっくりするくらいすぐ出た。
よかった、と思ったからだ。
本当に、心から。
ここまで来られてよかった。襟花ちゃんが生きていてよかった。私たちもまだ立っていられてよかった。そういう単純なことを、海を見た瞬間だけは信じたかった。
襟花ちゃんが大きく息を吸い込む。潮の匂いをいっぱいに吸って、それから空へ向かって声を投げた。
「かすみー! 私! 海、きたよー!!」
張った声が、朝の海辺で思ったより遠くまで響く。声が、風に乗って彼方まで飛んでいく。
「……約束通り、一緒にきたよ」
その呼びかけを聞きながら、私は胸の奥が少し痛くなった。
花澄ちゃんは、たぶんもういない。
聞かなくても分かっていた。ここまでずっと襟花ちゃんが一人だったことも、言葉の端々にあった諦めも、全部それを指していた。
でも、ちゃんと訊かなきゃいけない気がした。この子がここまで抱えてきたものを、曖昧なまま綺麗な景色に溶かしちゃいけない気がした。
私は襟花ちゃんの肩を支えたまま、そっと口を開く。
「ねぇ、襟花ちゃん。その……花澄ちゃんはさ、やっぱり……」
亡くなったの、と。
最後まで言わなくても、襟花ちゃんは分かったらしい。途切れた言葉に応えるように私のほうを振り向いて、あっさり頷く。
「うん。食べちゃった」
ざあ、と波が来る。
白く砕けて、引いていく。
もう一度、ざあ、と来る。
私はそのあいだ、言葉の意味が分からなかった。時間が止まった、みたいな表現はたぶん安っぽい。
でも、その瞬間の私には、本当にそれ以外の言い方が見つからなかった。
波の音が、急に遠くなる。
目の前に海がある。光っている。風も吹いている。襟花ちゃんの髪も揺れている。何もかもちゃんと動いているのに、私の頭の中だけが、その一言のところでぴたりと止まった。
食べちゃった。
食べた。
誰を。
何を。
ただ、その一言だけが、理解を拒むみたいに頭の中で何度も跳ね返る。
「……え」
自分の声がひどく小さかった。聞き返したというより、口から漏れただけだった。
襟花ちゃんは、私が分かっていないことに気づいていないみたいに、普通に続ける。
「村から持ってきたお肉も、なくなっちゃって。お腹空きすぎて、死にそうだったの」
村から持ってきたお肉。
その言葉だけなら、まだ曖昧でいられたかもしれない。
イノシシとか、鹿とか、そういう、山で手に入る何かを想像する余地が、ほんの一瞬だけ残った。でも目の前いるこの子はは、すぐにその余地を全部なくした。
「けど花澄がね、いいよって言ってくれたから、食べた」
にこっと笑って、本当に少しだけ、嬉しそうに笑う。
「だから今も一緒にいるんだ、私たち」
「襟花……ちゃん?」
名前を呼んだのは、確認したかったからじゃない。やめて、って言いたかっただけかもしれない。それ以上簡単に言わないでほしかったのかもしれない。
でも、何をどう止めればいいのか分からなかった。
私の指が、襟花ちゃんの肩に触れたまま固まっている。離さなきゃいけないのか、このまま支えていなきゃいけないのか、それすら分からない。
襟花ちゃんが、やっとこちらを見上げる。
あの大きな目は、変わらず澄んでいた。
「美味しかったよ」
胸の奥で、何かが嫌な音を立てた。
「今まで食べたお肉の中で、一番おいしかったの!」
「……、……ぁ」
声が出ない。喉がひきつって、舌が上顎に張りつく。言葉にしようとしたものが全部、途中でばらばらになった。
今まで食べた、お肉。今まで。それは……何の?
私は一歩も動いていないはずなのに、足元の砂が急に崩れたみたいな気がした。
遅れて、少し後ろにいたノアさんの気配が近づく。彼の足音が、乾いた砂を踏んで止まった。
「村の……村の人たちも?」
ノアさんの声は低かった。軽さがひとつもない、聞いたことのない声だった。襟花ちゃんはきょとんとして、それから素直に頷いて、だけど訂正するようにすぐに付け足す。
「あ、でも大丈夫だよ。大人しか残ってなかったから」
大丈夫。何が。誰にとって?
頭の中で問いだけが弾けるのに、どれひとつ口から出てこない。なのに遠い波の音はまだ優しいままで、朝の海は何も変わらず綺麗で、だから余計に歪で、おかしかった。こんなに綺麗な場所で、こんなに綺麗な顔をして、どうしてこの子は、何を言っているんだろう。
「な……なんで?」
やっと出た声は、自分でも情けないくらい震えていた。少女は、本当に不思議そうに私を見た。
「なんでって……もう食べるものなかったから」
当然のことを答えるみたいな言い方だった。
そこには罪悪感も、言い訳も、恥ずかしさもない。
ただ、そうだったから、そうしただけ。それだけがある。
「お腹すいたら食べないの?」
「……ぁ」
返事ができない。できるわけがなかった。
私の沈黙を、襟花ちゃんは否定だとは受け取らなかったらしい。
むしろ、少し首を傾げて、当たり前みたいに言った。
「同じでしょ? お姉ちゃんも」
同じ。その二文字だけが、やけにくっきり耳の奥に残った。責めるでもなく、試すでもなく、本当に当たり前のことを確認しただけみたいな顔で、その無垢さが何より怖かった。
「……っ」
私はようやく息を吸って――だから、




