渚の怪獣⑧
もう、どちらが先に立ち上がれなくなったのかも分からなかった。
山道から少し外れた斜面の途中、木の根が浮いた土の上に、二人の少女はほとんど崩れるみたいに座り込んでいた。背中を預けた細い幹は冷たく、湿っていて、寄りかかったところで少しも楽にはならない。それでも地面にそのまま倒れるよりはましだった。
葉の隙間から差す光は弱い。昼なのか夕方なのかも、もうよく分からない。
お腹が空きすぎると、時間の感覚まで薄くなるのだと襟花は知った。ぐうぐう鳴る時期はとっくに過ぎていて、今はもう、腹の奥が空っぽに焼けているみたいに痛いだけだった。脚も、昨日までならどうにか動いていたのに、今日は持ち上げることを考えるだけで気が遠くなる。
隣の花澄も、似たようなものだった。
膝を崩して木にもたれ、浅い呼吸を何度も繰り返している。頬はこけて、唇は乾いて、笑うたびに折れてしまいそうなくらい細い。それでも花澄は、時々まだ笑った。
それが襟花には少しだけ怖くて、少しだけ救いだった。
「……花澄」
呼ぶと、花澄はすぐには返事をしなかった。眠ってしまったのかと思ったころ、やっと掠れた声が返る。
「なに……?」
その声を聞いて、襟花はほんの少しだけ息をついた。
「やっぱり乗ればよかったね……とらっく」
村を出る前に言っていた話だ。どこかに放置されていたトラック。動くかどうかも分からないのに、あれで海まで行けたら楽だねと、まだ少し元気のあった頃に笑い合った。
花澄はうっすら目を開け、それからくすっと笑った。
「……無理だよ、免許ないもん」
「……いらないって言ってたじゃん」
「うん……言った」
花澄はまた笑う。息が抜けるみたいな、弱い笑いだった。
「でも多分、事故ってすぐ死んでたよ……だから、これが正解」
「ぜんぜん正解じゃないよ」
襟花は口を尖らせた。拗ねるみたいに言ったけれど、声には力が入らなかった。
「でも、結局このまま死んじゃうよ。だって……もう、お腹ぺこぺこで動けない」
そう言った途端、自分で言った言葉の情けなさに、少しだけ目の奥が熱くなる。子供みたいな言い方だと思う。でも実際、子供だった。お腹が空いた、苦しい、もうやだ。そういうことを言って許される年齢のはずなのに、この世界ではもう、そういう訴えにまともに答えてくれる大人はいない。
花澄が、ぷ、と吹き出した。
「あはは……ホント、笑わせないでよぉ……」
「真面目に話してるんだけどなぁ……」
襟花がむっとすると、花澄はまた少しだけ笑った。
笑えるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。そう思いたかった。けれど花澄の笑い方は、前みたいに明るくはない。身体の底にもう残っていない力を、無理やり削って鳴らしているみたいな、そんな薄い音だった。
風が吹く。
葉の擦れる音が頭の上でかさかさと鳴って、また静かになる。鳥の声も、虫の音も、遠い。世界はまだ普通みたいに続いているのに、自分たちだけがそこから置いていかれている感じがした。
花澄がふいに、少しだけ首を巡らせた。
「……ね、襟花ぁ」
「なに?」
「ありがと」
「……なにが?」
ありがとう、と言われるようなことをした覚えが、すぐには浮かばなかった。村を出ると決めたことか。それとも今まで一緒にいたことか。どれも当たり前みたいにやってきたことだったから、改めて礼を言われると、逆に分からない。
花澄は乾いた唇を少しだけ動かした。
「ありがと。襟花がいなかったら、あのままお爺ちゃんに殺されてた、私」
その言い方は、冗談みたいに軽かった。
でも、軽く言わないと飲み込めないことなのだろうと襟花にも分かった。
花澄の祖父。あの家にいた大人。怒鳴って、殴って、奪って、最後まで自分が食べることばかり考えていた老人のことを思い出すと、襟花の胸の中には今でも生々しい嫌悪が蘇る。
「花澄のお爺ちゃん。最悪だったぁ」
吐き捨てるように言うと、花澄はうっすら笑った。
「ホント……全然死なないし、重いし、かと思ったらすぐ腐っちゃったし」
その物言いが、ひどくて、だからこそ現実だった。
殺した。運んだ。どうにかした。そうやって一度終わったはずの話は、そのあとも匂いと重さを残して、いつまでも二人にまとわりついた。死体は物みたいに扱えるほど軽くもなく、かといって人として丁寧に弔える余裕もなかった。ただ邪魔で、臭くて、でも放っておけばもっと厄介になる。
世界の終わりが近づいてから、大人も子供も、そういう嫌なことばかり妙に現実的になった。
「それにゴジラ殺して食べたんだもん。だから、やり返しただけだよ」
襟花がそう言うと、花澄はふっと目を細めた。
「可愛かったのにね、ゴジラ」
その声だけ、少しだけやわらかかった。
「襟花みたいにさぁ……お腹すいたにゃーって。ふふ」
「猫と一緒にしないでよぉ」
抗議したつもりだったのに、声は弱々しくなった。怒る元気もあまりない。
花澄はそのか細い反発が可笑しかったみたいに、また笑った。
「一緒だよぉ……私ら、もう猫だから……」
言葉の終わりが、少し溶けた。
襟花は眉を寄せる。
「花澄?」
花澄はすぐには返事をしなかった。目は開いているのに、どこを見ているのか分からない。焦点が合っていないようにも見える。呼吸も、さっきより浅い。
襟花の胸の奥が、ひやりと冷えた。
「ありがとぉ、襟花」
もう一度、花澄が言った。
「私ね、襟花に教えてもらったんだぁ……私ら、自由なんだって」
その言葉は、うわごとみたいに頼りなかった。けれど、襟花はそれを聞き逃せなかった。
自由。
村にいた頃には、そんな言葉を本気で考えたこともなかった。大人の機嫌を見て、怒鳴られないようにして、食べ物があれば食べて、なければ黙る。明日が来るのかどうかも分からない世界で、子供が自由であるはずがない。
それでも襟花は、たぶんどこかで言ったのだろう。待たなくていいとか、我慢しなくていいとか。そうじゃなければ多分、花澄の祖父の頭を背後から割った事か。
「……生きる為に何やってもいいんだって」
花澄は、夢の中の続きみたいにそう続けた。襟花の喉がきゅっと縮む。
「花澄……聞こえないよ……ねぇ」
身を寄せようとしても、自分の身体さえうまく動かせない。腕を伸ばすのも重くて、指先が少し震える。どうしよう、と思う。どうしようもない時に限って、人はどうしようって思うのだと襟花は知った。
花澄はもう、襟花を見ていないみたいだった。
「だから、私も教えてあげたいなって思ったの」
途切れ途切れの息のあいだに、言葉が落ちる。
「あんな所で待たなくていいんだって……村の外は、綺麗で、凄いんだって」
その声は、本当に小さかった。
でも海へ行こうと言った時と同じ温度が、そこには残っていた。花澄はたぶん、本気だったのだ。襟花を連れて出たかった。待つだけの場所から、腐っていくしかない村から、もっと綺麗なところへ。もっとましな景色のほうへ。
そのためにここまで来たのに。
「花澄!」
襟花の声が、山の空気を震わせた。
その反動だけで胸が痛くなる。息がうまく吸えない。花澄の肩を掴もうとして、指先が細い腕に触れる。驚くほど軽かった。生きている人の重さじゃなくなっていくみたいで、襟花は怖くなる。
「……やだ、私一人じゃ無理だよ! ねぇ!」
返事はなかった。
風だけが、また木々のあいだを抜けていく。葉が揺れて、陽のまだらが少し動く。世界は何事もなかったみたいに静かで、その静けさが余計に残酷だった。
襟花は何度も花澄の名前を呼んだ。
呼べば戻ってくるような気がした。帰ってこなかった大人たちとは違う。花澄は約束したのだ。海へ行くって。一緒にいるって。だからまだ、置いていかれるはずがないと、そう思いたかった。
けれど花澄の身体は、もうそのたびに少し揺れるだけだった。
細い肩。痩せた腕。乾いた髪。汚れた頬。ずっと一緒にいた友達の形がそこにあるのに、その中身だけが、ゆっくり遠くへ行ってしまう。
襟花は唇を噛んだ。
泣けば喉が渇く。泣いたところでお腹は膨れない。そんなことはもう何度も知っている。それでも目の奥は熱くなった。
だめだ、と思う。一人じゃ無理だ。こんな山の中で、こんなふうに置いていかれたら、本当に無理だ。
海なんて遠い。村も遠い。大人は誰も来ない。世界はもうすぐ終わる。なのにどうして、まだ自分だけが一人にならないといけないのか分からなかった。
「花澄……」
今度は、叫ぶよりずっと小さい声で呼んだ。
返事は、やっぱりない。その事実だけがじわじわと襟花の中に沈んでいく。冷たい泥みたいに重く、ゆっくりと。
村の外は綺麗で、凄いんだって。
そう言った花澄の声だけが、襟花の耳の奥に残った。海はまだ見えない。
けれど、このままここで止まれば、花澄の言葉まで山の中で腐ってしまう気がした。
だから襟花は、花澄の細い手を両手で握りしめたまま、うまく息もできない胸で、何度も何度もその名前を呼び続けた。
返ってこない声に縋るしかない子供みたいに。
実際、どうしようもなく、ただの子供だった。
その時、花澄の唇が、かすかに動いた。
「大丈夫だよ……」
もう息のほうが細くて、言葉は半分くらい風にほどけていた。
「私達は、自由だから……だから襟花ぁ、海見たら、会いに行こ……勝也さん、二人で、一緒に……」
「いく、行くから!」
襟花は縋りつくみたいに言った。花澄の肩を揺すろうとして、けれど強く触れたら壊れてしまいそうで、途中で手が止まる。
「だから、置いてかないで……一人はいやだぁ!」
情けない声だった。
泣き声みたいで、喚いているだけみたいで、でも本当だった。海へ行く約束も、東京で過ごす兄に会いに行く話も、全部花澄が一緒だからどうにか信じられたのだ。花澄がいなくなったら、山も、空も、風も、ただ冷たくて広いだけになってしまう。
花澄はもう、襟花のほうを見ていなかった。
焦点の合わない目が、葉の向こうの白っぽい空をぼんやり映している。その横顔はひどく静かで、ついさっきまで笑っていたのが嘘みたいだった。
「……ありがとぉ」
それが最後だった。
花澄の胸は、それきり、ほとんど動かなくなった。
襟花はしばらく、そのことを理解できなかった。
風の音がする。葉が鳴る。自分の呼吸が変にうるさい。遠くで水の流れる音もしている気がする。世界は何も変わっていないのに、花澄だけが、その中からすっと抜け落ちてしまったみたいだった。
「……っ……ずるいよ」
喉の奥から、掠れた声がこぼれる。
「一緒に行くって言ったのに……」
返事はない。襟花は花澄の手を握ったまま、うつむいた。指先はもう、さっきまでの熱を少しずつ失っていくところだった。冷たくなる。固くなる。置いていかれる。そういうことを、頭では知っている。知っているのに、まだ分かりたくなかった。
「……一人ぼっちは、やだ……」
涙が出たのかどうか、自分でも分からなかった。喉が乾いて、目の奥が熱くて、胸の中は空っぽで、空腹と悲しさが混ざると、何が何だかもうよく分からない。ただ苦しい。苦しくて、怖くて、どうしようもなくて、襟花は花澄の身体に額を押しつけた。
その時だった。
「……あ」
小さな声が、襟花の口から漏れた。
何かを思いついた、というより。さっき花澄が言ったことが、ひどく遅れて、胸の奥に落ちてきたのだ。
自由なんだって。生きる為に何やってもいいんだって。
村の外は、綺麗で、凄いんだって。
襟花はゆっくり顔を上げた。視界は滲んでいて、花澄の輪郭が少しぼやける。けれど、そのぼやけた向こうにある言葉だけは、妙にはっきりしていた。
花澄は、一緒に行くって言ったのだ。一人にしないと、そういう顔で笑ったのだ。
なら。
「そっか……」
襟花は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、小さく笑った。
笑えていたのかは分からない。ただ、そうしないと息ができなかった。
「そうだね、花澄」
握った手を、今度は両手で包む。細くて、軽くて、ずっと一緒にいた親友の手だった。
「……一緒に行こっか」
風が吹いた。葉の隙間から落ちる光が揺れて、花澄の頬をかすかに撫でる。返事はない。けれど襟花は、もう一度だけ、ちゃんと聞こえるように言った。
「……海、行こう」




