渚の怪獣⑦
沈黙がずっと続いていた。
襟花ちゃんが「死体がいっぱいあったでしょ?」とあまりにもあっさり言ってから、私たちはしばらくまともに会話をしなかった。できなかった、の方が近いかもしれない。
山道の脇、ガードレールもないような細い道路の端で、私たちはようやく足を止めた。
座り込むというより、崩れ落ちるみたいに。
アスファルトはまだすっかり冷たくて、冷たい風のせいで汗で湿った制服の背中がじわじわ冷えていく。足の裏はもう自分のものじゃないみたいだった。靴の中で指が擦れて痛い。背中も肩も、襟花ちゃんを降ろしたあとも重さの形だけが残っていて、何も背負っていないのにまだ圧迫されている感じがした。
「……っ」
喉が渇いていた。でも水はもうほとんどない。
空腹も、いっそ笑えるくらい限界を通り越していた。お腹が空いた、じゃなくて、身体の内側が少しずつ削れていく感じ。胃のあたりが鈍く痛くて、気を抜くと吐き気みたいなものまで上がってくる。
そのくせ、頭だけは妙に冴えていた。さっきの、襟花ちゃんの声が、何度も耳の奥で繰り返される。
『死体がいっぱいあったでしょ?』
『そこだよ、私と花澄が住んでたとこだよ。』
『それがどうし……。』
『え、あの……なにか変な事言った? 私。』
変なことなんて、山ほどあった。
でもそのどれを、どう変だと言えばいいのか分からなかった。子供が言うにはあまりにも軽い。けれど本人は本当に何がおかしいのか分からない顔をしていた。そのことが、余計に気味が悪くて――いや、違う。
気味が悪い、なんて思いたくなかった。そう思ってしまう自分のほうが、ずっと嫌だった。
「…………」
襟花ちゃんは、少し離れたところで眠っていた。
私が丸めた上着を頭の下に敷いて、道路脇の草むらに半分身体を預けるみたいにして横になっている。眠っているというより、気絶と睡眠の間みたいな浅い落ち方だった。時々苦しそうに眉が寄る。怪我をして、熱もあって、まともに食べてもいない子供の寝息は、見ているだけで頼りなかった。
私はその顔から目を離せなくて、膝を抱えたままぼんやり見ていた。眠ってると、本当にただの子供だ。
細い睫毛。少し開いた唇。泥の跡が残った頬。あんな言葉を口にした後でも、見た目だけならまだ、小学校の教室とか、放課後の公園とか、そういう場所にいたっておかしくない子供にしか見えない。
風が吹いた。木の匂いと、遠くの水の気配みたいな湿った空気が流れてくる。山の夜は静かだった。私たちの荒い呼吸も、草の擦れる音も、全部よく聞こえるくらいに。
その静けさの中で、ノアさんがぽつりと言った。
「やっぱりあの子は置いていこう」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「な、っ……」
声が裏返りそうになって、慌てて飲み込む。襟花ちゃんを起こしたくなくて、私は反射的に小声になった。
「何言ってんですか、こんなとこで見捨てられるわけ……」
「未來」
ノアさんの声は低かった。いつもの軽さがまるでなかった。
「さっきまで君が背負ってた子は、人を殺してる。しかも一人や二人じゃない。昨日見たでしょ。あれは」
私は言葉に詰まった。昨日見たもの。焼けた村。黒い柱。鼻の奥にまとわりつく死臭。形を見たくなくて、目を逸らしたあの焼け跡。
それを思い出した瞬間、胃の奥がきゅっと縮む。でも、それでも。
「……っ、たとえそうでも!」
結局、押し出すみたいに声が出た。
「私たちと何が違うんですか……」
ノアさんが黙る。
その沈黙を、私は勝手に都合よく受け取ってしまいそうになった。ほら、言い返せないじゃないか、と。
でも違う。たぶんノアさんは、言葉を探していただけだ。わかってたのに、私は畳みかけるみたいに続けてしまう。
「なにか事情があったかもしれないじゃないですか。子供なんですよ!? 私みたい、だったかもしれないじゃないですか……」
私みたい。口にした瞬間、胸の奥がずきっと痛んだ。
死んだお父さんとお母さんのそばで、何日も動けなかったあの部屋。お腹が空いて、喉が渇いて、それでも何をしていいのか分からなかった地獄のような時間。何かが違えば、きっとそのまま死んでいたかもしれない私。
襟花ちゃんを拾った時から、たぶん私はずっと、あの子の中にその頃の自分を見ていた。大人に見捨てられる側の子供。
だから手を伸ばしたのだ。伸ばさないでいられなかった。
「……未來」
ノアさんは小さく息を吐いた。
「あの子を自分と重ねる気持ちは分かるよ」
静かな声だった。
「でも、私が言ってるのはそういうことじゃないんだ」
「じゃあ、なんですか」
「まだ気付いてないと思うけど、多分あの子……」
「お姉ちゃん」
小さな声が間に落ちて、声の方へ振り向いた。
襟花ちゃんが眠そうに目を擦るでもなく、ただじっと、私を見ていた。いつから起きていたんだろう。どこまで聞いていたんだろう。分からない。ただ、その顔がとんでもなく不安そうで、胸が締め付けられてしまう。
「あ、……ごめん!」
私は慌てて立ち上がって、襟花ちゃんのそばに寄った。
「起こしちゃった? 脚、痛くない?」
できるだけ普通の声で言ったつもりだったけど、たぶん全然普通じゃなかった。自分でも分かるくらい、喉が強張っていた。
襟花ちゃんは答えずに、少しだけ身体を起こした。
暗い中でも分かるくらい、顔色が悪い。唇も乾いている。熱のせいか目元がぼんやり赤い。その小さな顔が、私とノアさんを交互に見て、それからおずおずと訊いた。
「私、一人になっちゃうの?」
その一言は、頭じゃなくて直接胸に刺さった。
一人になっちゃうの?
そんなの、襟花ちゃんに聞かせちゃだめな言葉だった。怪我をして、歩けなくて、友達ともはぐれて、海に行く約束だけを頼りにここまで来た血まみれのこの子に、絶対に聞かせちゃいけない種類の不安だった。
「未來」
背後でノアさんが私の名前を呼ぶ。
止める声だったのか、考えろという声だったのか、もう分からない。
でも私は、その時にはもう決めていた。
「ならない!」
ほとんど叫ぶみたいに言ってしまって、私は自分でびっくりした。
襟花ちゃんの肩がびくっと揺れる。私はすぐに言い直した。今度はもっと近くで、もっとはっきりと。
「ならないよ」
それから半分は襟花ちゃんに、半分はノアさんに向けて、私は続ける。
「置いていくわけないじゃん。だって、友達と約束したんでしょ? 絶対海に行くって」
襟花ちゃんの目が少しだけ見開かれる。
約束。その言葉はずるい。自分でもそう思う。約束なんて、この世界では守られないものの代表みたいな顔をしている。大人は平気で破るし、状況はもっと簡単に壊す。それでも子供にとってはまだ大きい。こんな世界を信じるための最後の細い糸みたいなものだ。
だからこそ、切りたくなかった。
「約束は……守んなきゃダメだよ」
喉が痛かった。空腹のせいなのか、泣きそうだからなのか、自分でも分からない。
「だから、一緒に行こう?」
「でも……私」
襟花ちゃんの声は震えていた。遠慮してる、というより、信じていいのか迷っている声だった。それが苦しかった。こんな小さい子が、大人の言葉を一回で信じきれないことが、苦しかった。
「いいから!」
また少し強くなってしまう。でも今度は止めなかった。私はしゃがみ込んだまま、襟花ちゃんの目を見た。
「私も同じだから」
「え……?」
「襟花ちゃんと、同じだから」
本当は全然同じじゃない。分かってる。怪我の重さも、過去も、友達との約束も、何もかも違う。
でも、“置いていかれるのが怖い”って気持ちだけは、たぶん少しだけ同じだった。誰かに見捨てられる側の息苦しさだけは、私にも分かる気がした。
「……だから、約束。絶対、襟花ちゃんのこと置いていかない」
襟花ちゃんの顔が、くしゃっと歪んだ。
泣きそうな子供の顔だった。
「あ、……ごめ……なさ……」
言葉が上手く続かないみたいに、何度か息を詰まらせてから、襟花ちゃんは小さく言う。
「痛いとかじゃなくて……っ、そんな事言ってくれるの、もう花澄しかいないと思ってた」
その名前が出た瞬間、胸がまた痛んだ。
花澄ちゃん。会ったことのない、でも襟花ちゃんの中ではきっとまだすごく近くにいる子。私は何も返せなくて、ただ頭を撫でるみたいに、そっと襟花ちゃんの髪に触れた。
「……ありがと」
かすれた声だった。
ありがとう、と言われるたびに、私は少し苦しくなる。ありがとうを受け取れるほど、私は立派じゃない。助けたいと決めたのも私の都合だし、こうして約束を口にするのだって、たぶん半分は自分のためだ。
それでも。今この子を、一人にしたくないという気持ちだけは本物だった。
「ほら、行こ」
私は立ち上がって、背中を向ける。
「ノアさんもはやく。ね、襟花ちゃん、背中乗って?」
襟花ちゃんはまだ少し目を潤ませたまま、ためらいがちに訊いた。
「……重たくない?」
「よゆー」
言った瞬間、ぐうう、と間抜けな音が鳴った。自分のお腹からだった。一拍置いて、襟花ちゃんがふふ、と笑う。
「お姉ちゃん。お腹ぐーって」
「だって、あはは。お腹すいちゃったから。でも平気!」
私も笑うしかなかった。笑うと空腹が余計につらいのに、それでも笑った。
「だから、ほら。しゅっぱーつ」
「おー」
小さな声が返ってきて、その軽さに少しだけ救われる。
襟花ちゃんを背負い直す。さっきと同じはずの重みが、少しだけ違って感じた。責任が増えたのか、約束のせいか、単にもう私の体力が限界に近いだけか、分からない。
背中越しに、襟花ちゃんの体温が伝わる。まだ熱い。まだ細い。まだ生きている。
だから一歩踏み出した。足は重い。お腹は空いてる。もうへとへとだ。それでも止まれない。止まったら、たぶん今度こそ全部考えてしまう。焼けた村のことも、ノアさんが言いかけたことも、さっき自分が口にした約束の重さも。
だから前を見る。見なくちゃいけないと思った。
ふいに後ろから、ノアさんの足音が近づいてくる。
私は振り返らなかった。振り返らなくても分かった。ノアさんは、何も言わずについてきてくれている。
その沈黙が肯定なのか、呆れなのか、諦めなのかは分からなかった。分からないままでよかった。今はただ、後ろにその気配があることだけで十分だった。
山道はまだ続いていた。
夜明けには少し早い色の空の下、私たちはまた歩き出す。飢えて、汚れて、疲れて、どう考えてもまともじゃない三人で。
それでも、その時の私は本気で思っていたのだ。
ここで手を離さなければ、まだ取り返しがつくのだと。私は、間違わないでいられるのだと。
――そんなわけなかったのに。




