渚の怪獣⑥
山の中は、昼でもどこか薄暗かった。
木々が上で重なり合っているせいで、空はちゃんと明るいはずなのに、地面まで落ちてくる光は弱い。湿った土の匂い。踏み荒らした落ち葉の匂い。少し離れたところで、見えない水の流れる音がしていた。綺麗な山の音のはずなのに、今の二人には、それを綺麗だと思う余裕がなかった。
襟花と花澄は、斜面のゆるい場所にそのまま身体を投げ出すようにして転がっていた。
座っているというより、もうそれ以上ちゃんと姿勢を保てないだけだった。服は土で汚れ、頬も腕も細くなっている。息をするたびに肋骨のあたりがうっすら上下して、その動きだけが、まだ生きている証拠みたいだった。
「花澄……っ、生きてる?」
襟花が、小さく訊いた。それは確認というより、祈りに近い声だった。
隣で仰向けになっていた花澄が、目も開けないまま答える。
「生きてるよぉ」
かすれていて力のない声だった。でも返事があるだけで、襟花は少しだけ肩の力を抜いた。
「よかったぁ……」
安堵はした。けれど、それで何かが好転するわけでもない。襟花は乾いた唇を舐めて、空っぽの手元を見る。
「ねぇ、食べるもの無いよ。もう」
「ないね~……」
花澄はあっさり言った。事実を確認するだけの軽い調子だった。軽く言わないと、たぶん潰れてしまうのだろう。食べ物がない。水もない。足は痛いし、身体はもう思うように動かない。その全部をひとつひとつ真面目に受け止めていたら、先に心のほうが止まってしまう。
襟花はぼんやりと木々の隙間を見た。
「……海、遠いね」
その言葉だけが、相変わらずこの山の中では場違いに聞こえた。
海。ここにはないもの。遠くて、青くて、きっと綺麗なもの。二人でそこへ行くと決めた時には、それだけで少し前を向けた気がしたのに、今はその約束さえ、あまりにも遠かった。
「うん……遠いね。すっごく遠い」
花澄は笑わなかった。
いつもならもう少し軽く流したかもしれないのに、今回は素直にそう言った。遠い。歩いても歩いても着かない。腹は減るし、日が暮れるし、朝になればまた足が痛い。その繰り返しの先に本当に海があるのか、もう二人とも少し分からなくなり始めていた。
しばらく、風の音だけがした。
葉の擦れるかさかな音。どこかで小さな虫の鳴く気配。世界はまだ普通みたいに動いているのに、自分たちだけがそこから零れ落ちている感じがした。
襟花がふいに言う。
「ほんとに落ちてくるのかな、隕石」
唐突な問いだった。けれど、この世界では唐突でもなかった。
世界は終わると決まっている。そのことだけは、子供にも平等に知らされていた。大人たちが取り乱し、投げやりになり、急に優しくなったり急に残酷になったりし始めた理由も、全部そこに繋がっていた。
花澄は目を細めて、少しだけ口元をゆるめた。
「どうする? 実は嘘でした~とか言われたら」
襟花が吹き出す。
「ぷ、あはは……どうしようもないじゃんねぇ」
「ほんとだよぉ」
花澄も、弱々しく笑った。
「だってみんな殺しちゃったし」
その言い方は、冗談の続きを口にするみたいに妙に平坦だった。
山の空気が、ほんの少しだけ冷たくなる。襟花はすぐには答えず、しばらく黙っていた。それからぽつりと、
「……お兄ちゃん、東京から戻ってきたら驚くかなぁ」
花澄は少しだけ考えるみたいに目を動かす。
「襟花の家以外全部燃やしたし、大丈夫だよ」
「自分の家以外燃えて無くなってたら驚かない?」
「……確かに」
二人は笑った。
ちゃんとおかしいから笑ったのか、笑わないと変になりそうだから笑ったのか、その境目はもう曖昧だった。細い喉からこぼれる笑い声はすぐに息切れに変わって、長くは続かない。笑い終わると、襟花はまた空を見た。
見えるのは細く切り取られた白っぽい空だけで、海の色なんて想像もできない。
「けど、仕方ないよね」
自分に言い聞かせるみたいに、襟花が言う。
「仕方ないよ」
花澄も、すぐに頷いた。その返しの速さが、逆に痛かった。
仕方ない。もう何度も使ってきた言葉だった。空腹の時も、寒い時も、大人に怒鳴られた時も、誰かが死んだ時も、食べたくないものを食べた時も。そう言わないと進めない場面が、世界の終わりには多すぎた。
襟花はゆっくり言葉を継ぐ。
「私達、別に悪いことしてないもんね」
「してないよ」
花澄の声は、妙にやさしかった。
慰めるみたいに、眠らせるみたいに。
「だから私たちがやった事、間違ってないよね」
襟花は訊きながら、花澄のほうを見なかった。
たぶん本当に欲しかったのは答えじゃない。肯定だった。誰かに大丈夫だと言ってもらうこと。それだけで、自分の中のざらざらしたものを少し黙らせられると思っていた乾いた喉で息を吸ってから、花澄は言う。
「間違ってないよ。だって大人が始めたんだもん。私らは、同じ事やり返しただけ」
「うん……」
そう返した襟花の声は、安心したようでもあり、どこか眠たいようでもあった。
大人が始めた。
その理屈は、二人にとってずっと都合がよかった。自分たちが最初じゃない。先に壊したのは向こうだ。だから返しただけ。やり返しただけ。そう思っていれば、自分たちの手についたものを少しだけ見ないで済んだ。
「だから、大丈夫だから」
花澄の言ったその“だから”が、どこに繋がっているのかは曖昧だった。
間違っていないから大丈夫なのか。まだ生きているから大丈夫なのか。二人一緒だから大丈夫なのか。どれでもあって、どれでもなかった。ただ、その言葉だけが、空腹で縮こまった身体に薄い布をかけるみたいに、少しだけやさしかった。
「花澄……」
「うん?」
襟花の表情は、言いたいことがあるのにうまくまとまらないと言いたげだった。でも、次に口をついて出たのは、そのどれでもない、もっと身体に近い言葉だった。
「お腹すいた」
花澄が、かすかに笑う。
「……私も」
それは本当に、どうしようもない一致だった。
海より近くて、隕石より確かで、善悪より切実なこと。腹が減っている。苦しい。もう食べるものがない。その事実だけが、理屈も約束も全部追い越して、二人の身体の真ん中に居座っていた。
襟花は細い声で呼ぶ。
「花澄」
「なぁに」
「海……楽しみだね」
その言葉は、夢みたいだった。今にも死にそうなくせに。立ち上がるのもしんどいくせに。それでも海を楽しみにすると言えるのは、たぶんまだ完全には諦めていないからだった。
花澄はゆっくりと目を開け、木々の隙間の向こうを見た。もちろん、そこに海は見えない。けれど彼女は、ほんの少しだけ笑って言った。
「うん」
それで十分だった。
大丈夫だという言葉よりも、間違っていないという理屈よりも、その短い返事のほうが、襟花には少しだけ救いになった。
だって、山の中には何もない。食べ物も、あたたかい布も、守ってくれる大人も、帰る家も。
けれど、まだ隣に花澄がいる。
そのことだけで、襟花はなんとか目を閉じずにいられた。
空腹は消えない。苦しさも消えない。二人がしてきたことだって、消えない。
それでも海はまだ、遠くで綺麗なものの名前をしていた。




