渚の怪獣⑤
山道は、歩くたびに少しずつこちらの体力だけを削っていく。
舗装されているはずなのに、ひび割れた道には細かい砂利や落ち葉が散っていて、足を置くたび靴裏がずる、と嫌な音を立てた。片側は山肌、もう片側は木々に埋もれた斜面。空は見えているのに、視界はずっと狭い。前へ進んでいるはずなのに、景色が代わり映えしないせいで、本当にどこかへ向かえているのか分からなくなる。
背中には子供一人分の重みがある。重みというほど重くないのが、余計につらかった。
細い身体。背負っていてもふわっと軽い。軽いのに骨の位置だけはやけに分かる。そのことが、私の心臓をじわじわ嫌なふうに締めつけた。
「……っ、ごめんなさい、お姉ちゃん」
耳元で、遠慮がちな言葉が掛けられた。息がかかるくらい近い。声も小さい。たぶん、ずっと気にしていたんだと思う。
私はずり落ちそうになった身体を背負い直して、できるだけ明るく返す。
「大丈夫。襟花ちゃん、すっごく軽いから。任せて、えへへ」
本当は、えへへなんて笑う余裕はあまりなかった。口の中は乾いてるし、お腹は空っぽだし、ちょっと歩いただけなのに足はずっと鉛みたいだ。上り坂に入ると太ももが焼けるみたいに痛む。それでも、ここでしんどい顔をしたら、襟花ちゃんはもっと気にするだろうと思った。
「そうっ……お嬢さんぐらいの体重なら、っ……未來が背負うのが、一番効率……いいからね」
後ろから、ノアさんが息も絶え絶えに口を挟む。
振り向かなくても分かった。たぶん今、両手いっぱいに荷物を抱えている。水の入った容器、応急処置に使えそうな布や薬、役に立つかもしれない雑多なもの。いつもは二人で分担して持っている、それを全部。
「……ごめんなさい、ノアさん」
「ふふ、大丈夫。たかが二人分の荷物、なんてこと……ないよ。でもお腹は空いた」
「昨日から、何も食べてませんしっ」
「山間部は……っ、食べられるものが、案外少ないからね」
「うぅ……我慢我慢……」
口に出した途端、余計にお腹が鳴りそうだった。
我慢、なんて言葉でどうにかなる段階は、たぶん少し前に過ぎている。空腹はもう痛みになっていて、歩いていると時々、胃のあたりがきゅうっと縮む。何か食べたい、というより、この不快感から逃げたい。でも逃げられない。こういう時、身体は本当に容赦がない。
背中で、襟花ちゃんが小さく身じろぎした。
「……ねぇ、私、やっぱり歩くよ」
「だめ」
思ったより強い声が出た。自分でもびっくりしたけど、言い直す余裕もなかった。
「いいのっ……怪我してるんだから、このままで」
「でも」
「いいから!」
少しきつかったかもしれない。襟花ちゃんの身体がぴくっと強張るのが背中越しに伝わって、私はすぐに後悔した。
違う。怒りたいわけじゃない。むしろ逆だ。無理してほしくないから、言葉が尖る。息を整えようとしても、うまくいかなかった。苦しい呼吸のまま、それでもなんとか言葉を続ける。
「……これはね、私を助けてくれた人が言ってたんだけど……人って、本能的に自分の幸せに繋がる行動を取るんだって」
その言葉は、1ヶ月前よりずっと重かった。前は、もっと綺麗に聞こえていた気がする。人は自分の幸せを選ぶ。だから生きたいと思っていい。そういう、救いみたいな言葉に聞こえていた。
でも今は違う。
私が襟花ちゃんを背負っているのも、ただ優しいからじゃない。見捨てる自分に耐えられないからだ。あの夜、道の真ん中に倒れていた小さな身体を置いていったら、多分私は、その先で何を食べても何を見ても、ずっとそれを思い出したと思う。
つまり結局、私のためだ。
「……自分の、幸せ」
襟花ちゃんが、呟くみたいに繰り返す。
「うん。だから襟花ちゃんを助けたのも、今こうしてるのも、私が幸せになりたいだけだから……いいの」
言いながら、自分でも少し変な理屈だと思った。
でも嘘じゃなかった。
「だって私、襟花ちゃんじゃなかったら、たぶん見捨ててた」
口にした瞬間、胸の奥がちくっと痛む。ひどいことを言っている自覚はある。だけど、綺麗な言葉で誤魔化したくなかった。誤魔化せる気持ちじゃなかった。
「助けたのは、私のわがまま。……だから、甘えていいんだよ」
山道に、私たちの足音と荒い呼吸だけが続く。風はあるのに涼しくはなくて、肌に張りついた汗が気持ち悪かった。首筋を伝う汗が襟元に入り込んで、ぞわっとする。しばらく無言が続いて、襟花ちゃんがぽつりと訊いた。
「お姉ちゃん、でも……私、助けてもらったばっかりで、なんにも……なんで」
「そうだなぁ〜」
私は少しだけ考えるふりをしてから、声を潜める。内緒話でもするように。
「秘密にできる?」
「うん」
「私、双子のお姉ちゃんがいるんだけどね」
口にした途端、頭の中に浮かんだのは、顔というより背中だった。
怒った顔。呆れた顔。限界まで疲れてるくせに、それでも最後まで、家族に向き合おうとした彼女の背中。
私を置いて出ていったあの日のことは、今でも胸の奥に引っかかっている。たぶん今もどこかで好き勝手に生きていて、あるいは全然そんなことなくて、分からないけど、思い出す時の第一印象だけは変わらない。
「もう、すっごい我儘で自分勝手でさ。思ってる事すぐわー!って言うし、怒る時なんてぎゃおーって容赦ないし、もう怪獣みたいな人で」
「……ふふっ!かわいい!」
「えぇ?」
思わず素で聞き返してしまう。どうやら襟花ちゃんの中で、怪獣はぬいぐるみとか猫とか、そういうかわいい枠に入ったらしい。いや、気持ちは分からなくもないけれど。
「全然だよ? もうすっごい振り回されて、毎日大変だったの」
言いながら、口元が少しだけ緩んだ。大変だったのは本当だ。でも嫌いだったわけじゃない。たぶん、あれだけ好き勝手で、むちゃくちゃで、うるさくて、でも勝手に人の懐へ踏み込んでくる、生まれてからずっと一緒にいた存在なんて他に知らない。
「だから私……襟花ちゃんみたいな妹が欲しかったんだよね。実は」
これは半分冗談で、半分本音だった。背中の体温が、びくっと跳ねる。
「……っ、なにそれぇ」
「えへへ」
襟花ちゃんは呆れたみたいな声を出したけど、さっきより肩の力は抜けていた。少なくとも、無理に降りようとはしなくなった。
その空気を拾うみたいに、ノアさんの声が後ろから投げられる。
「それに、今日は地球最後の子供の日だろ? 合法的に大人を頼れるのは今日で最後だ。なんせ――」
「どうせ、一年後にはみんな死ぬ」
半分くらい反射で、私は続けていた。軽口のつもりだったのに、口に出すと全然軽くならない。事実だからだ。事実って、たまに笑えない冗談みたいな顔で立ってる。
襟花ちゃんは一拍遅れて、困ったように笑った。
「あ……あはは。でも、お姉ちゃんだってまだ子供だよ。制服だもん」
「それ気にしなくていいよ。コスプレだから」
「サイテー!」
私が抗議すると、襟花ちゃんがふき出した。
その笑いにつられて、私も笑う。ノアさんまで喉の奥で笑っていて、さっきまでただ苦しかった山道に、ほんの少しだけ人間らしい空気が戻った。
笑うと余計に体力を使うのに、それでも笑えたのが妙に嬉しかった。
「……花澄の言ってた事、本当だった」
「え?」
「村の外は、優しい人がたくさん居るって」
ノアさんの足が、ほんの少しだけ緩んだのが分かった。
「……村?」
声の調子が変わる。さっきまでの軽さが、すっと引いていた。私は背中の襟花ちゃんを少しだけ支え直しながら、訊く。
「花澄ちゃんは、お友達?」
「うん。ずーっと一緒に居てくれた、私の親友」
その言い方は、迷いがなくて、胸が少しきゅっとなった。
「海に行こうって、約束したの」
「そっか」
私はそれしか言えなかった。
約束、という言葉は強い。守れなくても残るし、守りたいと思っただけで人を動かしてしまう。私もついさっき、自分で言ったばかりだ。襟花ちゃんを助けたいのは私のわがままだって。そう言いながら、結局はこの子の約束にまで引っ張られている。
「あー……あのさ、お嬢ちゃん。君、この近くの村に住んでたの? 村っていうか、集落かな」
ちくり、とその問いが私の心臓まで届いた気がした。ノアさんは後ろを歩いている。どんな顔をして、そんな何気ない聞き方をしたのかわからないけど、その声が少し低い。
思わず、鼻の奥に昨夜の臭いが蘇る。焼けた家。黒ずんだ柱。風に混じって流れてきた、あの、死んだものの臭い。背中の襟花ちゃんは軽いままなのに、その問いが落ちた瞬間だけ、私たちのあいだの空気が急に重くなった気がした。
「うん、そうだよ」
だけど襟花ちゃんは素直に頷いた。私が感じた重さなんて、気にならないとでも言いたげに。
「そっか。じゃあ……もしかして、その村って前に火事があったりした? 家が、ほとんど焼けちゃうぐらい」
「え?」
本当に、その声はきょとんとしていて、私は喉の奥が更にひやっとするのを感じた。ノアさんの言い方は、一応やわらかい。いきなり死体だの何だの言い出すよりは、ずっとましだ。だけど、ましなだけだ。
その先に何を確認したがっているのか、私には分かってしまった。
「ノアさん、あの」
やめたほうがいい。そう言いたかった。少なくとも今、この子に聞くことじゃない。怪我してて、歩けなくて、ろくに食べてもいないはずの小さい子に。
「いや、昨日そこでちょっと嫌なもの見ちゃってね。もしあそこに住んでた人がいたら、少しまずいかなって思って」
「何がまずいの?」
襟花ちゃんが不思議そうに訊く。その声音には怯えも警戒もなかった。ただ本当に分からないから聞き返しただけ、みたいな軽さだった。
私は背中の体温を感じながら、言葉に詰まる。
何がまずいのか。そんなの決まってる。あの村に住んでた人がいたとして、その人があの光景をどう説明するのか。どういう顔で話すのか。そんなの、聞きたくないに決まってる。なのにノアさんは、まるで探るように言葉を続けて、
「あはは。まずいでしょ。ねぇ未來」
「ノアさん」
だから少し強めに名前を呼んだ。やめて、という意味を込めて。なのに、止まってはくれない。
「だって、あんな村で生き残ってる人間なんていたら――」
「死体がいっぱいあったでしょ?」
止めたのは、私が抱える女の子の食い気味な言葉だった。その言葉に虚を突かれた私は、一瞬自分の足が止まったことにも気づかない。
え?と声がひっくり返る。襟花ちゃんは、私の背中の上で少しだけ身じろぎした。まるで何か会話の流れを取り違えた子供みたいに、戸惑ったような声で続ける。
「そこだよ。私と花澄が住んでたとこ。それがどうし……」
言いかけて、ふっと黙る。たぶん、その瞬間になってようやく私たちが黙った理由に気づいたんだと思う。
山道に風が吹いた。木の葉が擦れる、しゃら、という小さな音だけがして、誰もすぐには何も言えなかった。
背中にある重みは相変わらず軽い。軽いのに、さっきまでとはまるで違う重みを背負っている気がした。
襟花ちゃんが、おそるおそる口を開く。
「え、あの……なにか変な事言った? 私」
その声は、あまりにも普通だった。ふざけているわけでも、脅かそうとしているわけでもない。本気で、自分が何をおかしくしたのか分かっていない声だった。
ぞわり、と背中が粟立つ。昨夜の村の臭いがまた鼻の奥に蘇った。焼けた木の匂い。湿った土の匂い。そこに混じっていた、あの、人が腐ったの重たい臭い。
何か言わなきゃ。そう思ったのに、喉がひきつって、言葉がうまく出てこない。
ノアさんだけが、ひどく静かな声で言う。
「……君、まさか」
その一言のほうが、怒鳴り声よりずっと怖かった。山道は変わらず続いている。空腹も、疲れも、足の痛みも、何ひとつ消えていない。
なのに、たった今、何か別のものまで私たちのあいだに入り込んできた気がした。
見ないふりをしていたものが、急にこっちを見返してきたみたいに。




