渚の怪獣④
山の朝は、目を開ける前から冷たかった。
土の上にそのまま身体を投げ出したみたいな寝方だった。薄い布を一枚敷いて、その上で二人くっつくようにして眠ったはずなのに、起きる頃には背中も腰も痛い。枝の硬さや石のごつごつした感触が、寝ている間ずっと身体のどこかに残っていたみたいに、じんわり鈍く痛んでいた。
木々の隙間から差し込む朝の光はまだ白くて弱い。空気は湿っていて、息を吸うと喉の奥が少し冷えた。
その冷たさの中で、襟花がうっすら目を開けた。
「……ゴジラが出てきた」
すぐ隣で丸くなっていた花澄が、眠たそうに片目だけ開ける。
「夢?」
「うん……」
襟花はぼんやりしたまま頷いた。それから少しだけ眉を下げる。
「……会いたいなぁ、ゴジラ」
その言い方は、寝ぼけた子供の独り言みたいだった。でも、目が覚めても消えない寂しさが、ちゃんとその中に残っていた。
花澄はもぞりと起き上がって、身体を伸ばした。
「ん~、体痛い~」
肩を回して、腕を上げて、息を吐く。伸びをしただけで顔が少し歪む。歩き続けた足も、ろくに休めていない背中も、もうどこが痛いのか分からないくらい全部痛いのだろう。
「襟花、ねぇ襟花ぁ。ほら、起きて?」
「ん~……」
襟花はまだ地面にくっついていたかった。寒いし、だるいし、お腹は空いているし、起きたところで楽になることなんて何もない。朝は来てしまうくせに、昨日より少しでもましなことはひとつも用意してくれない。
「起きないと先に行っちゃうよ?」
「やだぁ……置いていかないで」
花澄は小さく笑った。
「行かないから……だから起きて。一緒に行くんでしょ、海」
その言葉に、襟花はやっと少しだけ目を開け直した。海、という響きだけが、この寒くて硬い山の中ではいつも少し変だった。綺麗で、遠くて、ここにはないものの名前だった。
けれど今の襟花が最初に口にしたのは、それじゃなかった。
「……お腹すいたぁ」
一拍置いて、花澄が吹き出す。
「ぷ、あはは」
「笑わないでよぉ……」
襟花はむっとして口を尖らせた。その拗ね方があまりにも幼くて、花澄は笑いながら言う。
「ちっちゃい子みたいだよ? ……かわいいね」
「もう~。お兄ちゃんみたいな事言わないで」
その名前が出た瞬間、花澄の笑いがほんの少しだけやわらいだ。
「あー、勝也さん元気かなぁ。最後に会いたかったなぁ」
襟花の顔が曇る。
歳の離れた兄のことを思い出す時、襟花の中では、待っていた時間の長さと裏切られた気持ちがいつも一緒に浮かぶ。優しかったことも知っている。好きだったこともたぶん本当だ。でも、それでも帰ってこなかった。約束をしたのに、迎えに来なかった。その事実だけが、空腹の時には余計にひどく沁みた。
「もういいよ、あんな嘘つき。帰ってくるって約束したのに……サイテーだよ。大人とおんなじだ」
吐き捨てるように言ったあと、襟花は少しだけ目を伏せた。怒っているのに、怒りきれない声だった。
花澄はすぐに否定しなかった。
「無事だといいね」
その言葉だけを、静かに置く。
襟花はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく頷いた。
「うん……」
素直に認めたくないだけで、そう思っていないわけではないのだろう。嫌いになりきれない相手のことを考える時だけ、襟花の声は少し子供に戻る。
けれど、そのまましんみりしているのも嫌だったのか、襟花は自分で空気を振り払うみたいに言った。
「……っじゃなくて。ねぇ、いつ着くの? 海」
花澄は肩をすくめる。
「さぁ~……ま、歩いてたらそのうち着くでしょ」
「てきと~……」
襟花は呆れたように言ってから、ふと首を傾げた。
「そもそもさぁ、なんで海行きたいの?」
「ん~、なんか。わかんないけどそうしたいって思ったの」
「なにそれ」
曖昧すぎる答えだった。でも花澄は、そこで笑って誤魔化すのではなく、少しだけ真面目な顔になる。
「だってさ、ある? あの村で生きてて、楽しかった事」
襟花は口を閉じた。
山の空気が少しだけ冷たくなる。
楽しかったこと、と言われて、すぐに出てくるものはなかった。あの村での日々は、生き延びることばかりで埋まっていた。大人たちは怒鳴るか怯えるかのどちらかで、子供はその隙間で勝手に縮んでいくしかない。世界が終わると決まってからは、なおさらだった。
未来がなくなった子供は、もう丁寧に扱われるものじゃなくなった。
守られる存在ですらなくなって、ただ邪魔にならないように息を潜めるだけのものみたいになった。
襟花は少し考えて、それでも答えた。
「花澄が傍に居てくれた」
花澄が目を細める。
「ん~?」
嬉しそうにしたあとで、すぐに首を振った。
「じゃなくて!」
そのツッコミだけは、少し前の二人に戻ったみたいに軽かった。
「私らみたいな子供はみんなさぁ……世界が終わるってなってから、もう人じゃなかったじゃん」
「……そうだね」
襟花はあっさり頷いた。
否定できる材料なんて、どこにもなかった。
花澄は膝を抱え直しながら続ける。
「襟花、知らないでしょ? 村の外にはねぇ、勝也さんみたいな優しい大人がたくさん居るの」
「お兄ちゃんみたいな人がいっぱい……」
襟花は想像して、すぐに吹き出した。
「ごめん、ツボった」
「真面目に話してるんだけどなぁ~?」
花澄が唇を尖らせる。襟花は慌てて笑いを引っ込めた。
「ごめんって……でも、それ関係あるの? 海」
「あるよーん。当ててみて?」
「え~? お兄ちゃんみたいな人いっぱいいるから?」
花澄はふふ、と笑う。
「バカだね~」
「え~、おしえてよぉ」
襟花が不満そうに身を乗り出すと、花澄はそれが面白いみたいにまた笑った。
二人の笑い声は小さかった。山の中では、それくらいがちょうどよかった。大きな声を出せば何かに見つかりそうで、でも黙りすぎると本当に世界に二人きりになってしまいそうで、そのあいだくらいの大きさだった。
朝の空気はまだ冷たい。
お腹も空いているし、足は痛いし、海が本当にあるのかも、どれくらい歩けば着くのかも分からない。
それでも今は、襟花が笑っていて、花澄も笑っていた。そういう時間があるうちは、まだ歩ける気がした。
海の理由を花澄は最後まで教えなかったけれど、その秘密めいた笑い方ごと、襟花は少し好きだった。
きっと海そのものより先に、花澄がそっちへ行こうと言ったから、襟花も行く気になれたのだ。
山の向こうに何があるのかなんて、本当はどうでもよかったのかもしれない。
二人で行くなら、それだけでよかった。




