渚の怪獣③
深夜の車内は、妙にぬるかった。
窓を閉めれば、血と消毒液と汗、それに何日も洗えていない服の匂いがこもる。少し開ければ、今度は山の湿った空気が滑り込んできて、土と木の匂いが鼻の奥に触れた。どちらにしても快適とはほど遠い。けれど、あの焼けた集落のそばにいるよりはずっといい。
後部座席には、さっき拾った女の子が横になっていた。
薄い毛布を掛けていても、白い服に滲んだ血までは隠れない。応急処置をしたところで、汚れまで消えるわけじゃない。見た目ほど外傷が多くなかったのは救いだったけれど、それでも目に入るたび、喉の奥がざらついた。
私は助手席から、何度も後ろを振り返っていた。
ちゃんと息をしているか、そればかり気になった。さっき口元で確かめた、あのかすかな吐息が、いつのまにか途切れてしまうんじゃないか。そう思うと、目を離しにくかった。
ヘッドライトが山道を舐めるように照らし、カーブのたびに車体がゆっくり傾く。そのたび、後ろの小さな身体もかすかに揺れた。
「ん……ぅ……」
掠れた声がした瞬間、私はほとんど反射で振り返った。
「っ、起きた!」
毛布の端がわずかに動く。長い睫毛が震え、泥で汚れた瞼がゆっくり持ち上がった。焦点の合わない目が、暗い車内をぼんやりとさまよう。
起きた。よかった。
そう思ったのに、次の瞬間には、何を最初に言えばいいのか分からなくなった。大丈夫ですか。痛いですか。名前は――いや、それより水? そんなことを一瞬でぐるぐる考えて、結局、口から出たのはこれだった。
「……ね、大丈夫? どこか痛くない? 自分の名前、覚えてる?」
言ってから、あ、と思う。記憶のこと、先に聞くんだ。いやでも、もう遅い。
すると運転席から、間髪入れずに軽い声が飛んできた。
「その質問いいね。教訓が活きてる」
「前見て運転してください。次、道間違えたらマジで怒りますよ」
「ハァイ……」
しぼんだ返事だけは妙に素直だった。素直なのに信用できないの、本当にどういう仕組みなんだろう。この一か月で、そういう不条理にもだいぶ慣れてしまった。
でも、今はそれどころじゃない。
女の子はまだ半分眠ったままみたいな目で、じっと私を見ていた。頬は痩せて、唇は切れていて、目だけがやけに大きく見える。近くで見ると、本当に小さい。十歳そこそこ。もっと幼く見えてもおかしくなかった。
「お姉ちゃん……だれ?」
小さく掠れた声だった。
その呼び方に、胸の奥がひくりと縮む。
助けを求めてそう言ったわけじゃない。ただ、目の前にいる年上の女をそう呼んだだけ。分かっているのに、その一言だけで、見捨てたくないという気持ちがまた勝手に強くなる。
「私、未來。君の名前は?」
女の子は少しだけ目を瞬かせ、それから思い出すみたいに呟いた。
「……桂樹、えりか」
えりか。
頭の中で一度、そっと繰り返す。やわらかくて、かわいい名前だと思った。
「かわいい名前だね」
そう言うと、えりかちゃんは、強張っていた顔をほんの少しだけ緩めた。
「私はノアでいいよ。よろしく、お嬢さん」
運転席からノアさんが言う。えりかちゃんの視線が前へ向いた。細い首が少し動いただけで、すぐに顔が歪む。
「ノア……お姉ちゃん達が、助けてくれたの?」
「いや、実を言うと私たちも誰かに助けてもらいたくて――」
「ノアさん!」
思わず声が大きくなった。今それ言う? と口にする前に、声だけが先に尖る。
ノアさんは肩をすくめた気配だけ見せて、黙った。
「う、……」
えりかちゃんが身じろぎして、小さく息を漏らす。起き上がろうとしたらしい。途中で顔をしかめ、そのまま悲鳴みたいな声がこぼれた。
「……いっ……た。いたぁ……」
私は後部座席へ身を乗り出した。
「大丈夫……?」
「起き上がらない方がいいよ。多分折れてる。手当てはしたけど素人だからさ、ごめんよ」
軽い調子のまま、ノアさんが言う。
折れてる。
その言葉だけが、妙にはっきり耳に残った。目の前に傷だらけの子供がいるのに、私はまだ、その怪我の重さをきちんと呑み込めていなかったらしい。
えりかちゃんは目に涙を滲ませたまま、それでも小さく首を振った。
「……ううん、ありがとう」
礼を言われて、胸の奥がむず痒くなる。
助けた、なんてまだ言えない。たまたま見つけて、たまたま車に乗せて、素人の応急処置をしただけだ。この先どうなるかなんて、何ひとつ分からない。それなのに、そんなふうに真っ直ぐ礼を言われると、今の私たちが少しまともな側の人間みたいに思えてしまう。
その感じが、落ち着かなかった。
「ところでお嬢さん。なんで倒れてたとか覚えてる? 記憶喪失だったりしないよね?」
ノアさんが訊く。
えりかちゃんはすぐには答えなかった。考えるように目を伏せ、乾いた唇を少し舐める。それから、ぽつりと落とす。
「海」
「え?」
聞き返したのは私だった。
「海に行こうとしてたの。……友達と」
まだ弱々しい声なのに、その一言だけ妙にまっすぐだった。
「だから山を降りようとしたんだけど、地面がなくて……」
地面がなくて。
その言い方が、頭の中で映像になるまで一拍かかった。暗い斜面。踏み出した先の空白。身体が崩れて、岩と土に叩かれて、転がって――。
背中がぞわりとした。
「え。もしかして転がり落ちて道路の真ん中に倒れてたの? よく生きてたね」
ノアさんが半ば呆れたみたいに言う。
でも、本当にそうだ。道路の真ん中に倒れていた時の姿を思い出す。血まみれで、ぐったりしていて、呼吸があるかどうかさえ一瞬分からなかった。あれで生きているのは、ほとんど奇跡だ。
その奇跡の当人は、自分の怪我より別のことのほうが大事みたいに顔を上げた。
「ねぇ、この車どこ向かってるの?」
その問いに、私は少し固まる。
どこに向かっているのか。それを聞かれて、すぐ答えられない旅ってなんだ。いや、旅ですらない。だいぶ終わってる。
「私、海に行きたい! ノア、連れてって! 花澄と一緒に行くって約束したの、だから!」
子供のお願いみたいに、まっすぐな声だった。お願いというより、確認に近いのかもしれない。助けてくれたなら、このまま連れて行ってくれるよね――そんな響きがあった。
喉の奥が詰まって、私はあわてて言葉を挟む。
「ちょ、ちょっと待って、えりかちゃん……あのね、実は私たちも今、どこにいるか分からなくて」
口にして、自分で情けなくなる。何それ。大人が二人いて、現在地が分かりませんって。しかも片方はいい歳した男で、もう片方は制服着てるとはいえ一応成人女性で。ひどい。ほんとにひどい。
「未來」
ノアさんが私の名前を呼んだ。
「も~、なんですか! 今説明しようとして――」
「ガソリンが切れた」
その一言で、頭の中が止まった。
「え、あ……。……え?」
情けない声が出る。
その瞬間、かろうじて続いていたエンジン音が、喉を詰まらせたみたいにぶつぶつと途切れた。車体が一度、小さく震える。前へ進もうとする力が急に弱くなって、タイヤが路面を噛む感覚まで頼りなくなる。
ヘッドライトだけが、まだ闇を押し返していた。
なのに、その光の先へ、もう車はほとんど進んでいない。
「ちょ、え、待って」
思わず前を見る。メーターなんて暗くてよく見えないのに、見ればどうにかなるみたいに。
どうにもならなかった。
車は坂の途中で惰性のままじりじりと転がり、やがて力尽きたように止まる。最後に短く、ぎ、と車体が軋んだ。
それから、耳が痛くなるほど静かになった。
エンジンの熱だけが、まだかすかに残っている。それも、そのうち消える。
「終わりだ。車はここで捨てる。幸い舗装された道路だ。朝を待つより、一刻も早く道なりに山を下ったほうがいい」
静かな声だった。
「でも、ノアさ」
「高輝度のライトもあるから足元の心配はない。動物避けにもなる。……けど、どうする?」
どうする、って。
簡単に言うな、と思う。けれど、声を聞けば分かった。簡単に言っているわけじゃない。ほんとうに後がない時、この人は冗談を言わない。それくらいは、もう知っている。
車内が急に狭くなった気がした。さっきまでぎりぎり私たちを守っていた鉄の箱が、ただの動かない箱になる。寝床にも、移動手段にも、傷ついた子を運ぶ担架にもならない。ただここに置かれるだけの、大きな荷物。
息を呑む。
山の夜道。食料はもうない。水も少ない。私は空腹で、ノアさんだって同じだ。えりかちゃんは脚を折っていて歩けない。
現実が、形を持って一気に押し寄せてきた。
「どうするって……」
掠れた声で返すので精一杯だった。
ノアさんは前を向いたまま言う。
「その子を助ける時に言ったよ。こうなる可能性も、全部伝えた」
責める言い方じゃなかった。短い付き合いでも、それくらいは分かる。こんな無茶をしたって、この人は私を責めない。
だから、余計にきつい。
「それでも助けたいって言ったのは君で、だから私も手を貸した」
「……う、」
言い返せなかった。
私は確かに言った。助けるに決まってるって。方向音痴とか余計なことまで叫んだけど、とにかく、助けると決めたのは私だ。その時は、それでよかった。いや、今だって、間違いだったとは思いたくない。
でも、助けるって、拾って車に乗せるところまでじゃない。
その先がある。
運ぶ。食べさせる。休ませる。連れていく。
――生かす。
その重さが、まとめて膝の上に乗ってきた気がした。
「あの……」
おずおずとした声が後ろからする。振り返ると、えりかちゃんが不安そうに私たちを見ていた。話の意味を全部は分からなくても、空気が悪いことだけは伝わっているんだと思う。小さな手が、毛布代わりの布の端をぎゅっと握っていた。
その不安そうな少女を前に、ノアさんが言う。
「ここで決めよう。歩けないその子、どうする?」
冷たい言い方だった。
でも、冷たいで済ませるのはたぶん違う。現実を、形そのままで机の上に置くみたいな声だった。
「……。……っ」
私は後部座席を見る。
まだ子供の顔だ。柔らかい髪。傷だらけなのに、目だけは澄んでいる。助けてほしいと泣き叫ぶわけでもなく、ただ不安そうに、私を見ている。
その視線が痛い。
さっき名前を聞いたばかりの子だ。海へ行く約束があると言った子。花澄という友達の名前を、あんなに大事そうに口にした子。
なのに私はもう、計算している。
どれくらい進めるか。食べ物は足りるか。私たちは生き残れるのか。
そう考えてしまった自分に吐き気がして、下唇を噛んだ。
「私、は……っ」
喉の奥で言葉が詰まる。
助けたい。でも、どうやって。
見捨てたくない。でも、連れていけるのか。
答えなんて出せるわけがないのに、選ばなきゃいけなかった。




