渚の怪獣②
人のいる気配が、まるでなかった。
山の奥に取り残されたその集落は、もう村というより、ただ家の形をした残骸がいくつも並んでいるだけの場所だった。風が吹けば、古びた板戸や木材がかすかに軋む。どこかのトタン板が、きい、と小さく鳴る。そんな音だけが、ときどき静けさを思い出したみたいに響いた。
その中で、どうにか雨風をしのげる形を残していた一軒家の壁際に、二人の少女が並んで座っていた。
襟花は膝を抱え、力なく背を壁に預けている。花澄はその隣で、浅く息を吐きながら、目の前に置かれた器をじっと見ていた。
部屋の中には、火を使ったあとのぬるい匂いがこもっていた。焦げた薪の匂いと、煮た何かの油っぽい匂い。もう窓を開ける気力もないのか、空気はよどんで重かった。
「海、いこ」
花澄が、ぽつりと言った。
襟花は顔も上げなかった。
「……何言ってんの。さっさと食べなよ」
目の前の器を顎で示すみたいにして言う。その声にも、いつもの調子はなかった。叱るというより、そうでも言わないと自分まで動けなくなりそうだった。
「襟花、行った事ないでしょ? トラック乗ってさ、どう? 海」
「食べなってば。めっちゃ頑張って火つけたんだから、ほらぁ」
花澄は渋々みたいに器を持ち上げた。
「いただきます」
それから一口食べて、ふう、と長く息をつく。
襟花はその様子を見て、じとっと眉を寄せた。
「食べないし」
「美味しくないもん……飽きちゃった」
子供みたいな言い方だった。実際、子供だった。
けれど、その一言にはわがままだけでは済まない疲れが混じっていた。毎日似たようなものばかり口にして、食べなければ死ぬから食べるだけで、美味しいとか美味しくないとか、そんな基準そのものがとっくに壊れ始めている。それでも花澄は、あえてそう言った。
襟花は器の中身ではなく、別のところへ引っかかったように言う。
「……ないよ」
「え?」
「免許。ないから運転できない。私たち」
一拍置いて、花澄が吹き出した。
「いらないよそんなの。必要なのは、技術」
笑いながら言う花澄に、襟花は呆れたように口を尖らせる。
「もっとないよぉ」
「じゃあ歩いていこ?」
「え~、めっちゃ遠いんでしょ? 着く前にお腹空いて死んじゃう」
襟花は心底いやそうに言って、壁に頭を預けた。重たいまぶたを閉じかけて、それでも眠れない。疲れているのに、眠ったらそのまま置いていかれそうな気がして、身体だけじゃなく心のほうまでずっと浅い。
花澄は器を膝に置いたまま、襟花の横顔を見た。
「行こうよぉ……だってさぁ。いいの? こんな村で人生最期を迎えても」
「それはぁ……」
「私は嫌だなぁ……それに、絶対食べ物無くなる方が早いよ? ね? だから行こ、海!」
海、という言葉だけが、この家の中では妙に浮いて聞こえた。
山しかない場所だった。見えるのは木と、朽ちかけた家と、曇った空だけ。水のきらめきも、波の音も、ここにはない。だからこそ、その言葉は現実味がなくて、子供の思いつきみたいで、でも少しだけ綺麗だった。
「ん~……」
襟花は曖昧に唸った。
賛成も反対もしたくない声だった。
花澄はその返事を待たず、少しだけ言いにくそうに続けた。
「……それとも、まだ待つ? 勝也さん帰ってくるの」
襟花の肩が、ぴくりと揺れた。
部屋の空気が、さっきまでとは違う重さを持つ。
勝也さん。
その名前だけは、この村のどこにももういないくせに、まだ二人のそばに居座っていた。帰ってくるかもしれない。迎えに来てくれるかもしれない。そんな期待が、とっくに腐り始めているのに捨てきれない。襟花はずっと、その腐りかけた約束の前に座り込んでいるみたいだった。
「襟花が行かないなら、私……」
「……疲れた」
襟花が、ふいに言った。
花澄が目を瞬く。
「え?」
「お兄ちゃん待つの、もう疲れた……」
その声は小さくて、けれど誤魔化しがなかった。
怒っているわけでも、拗ねているわけでもない。ただ本当に、疲れ果てしまった。待てば何かが変わると思って、待つしかないから待って、それでも何も来なくて、空腹と寒さと静けさの中で、希望だけを持ち続けるのに疲れてしまった。
花澄はそっと器を脇へ置いた。
それから、手を伸ばして襟花を抱き寄せる。
「……おいで」
「ん……」
襟花は抵抗しなかった。子供みたいに素直に寄りかかって、花澄の肩に額をつける。
花澄の身体も痩せていて、抱きしめても安心できるような厚みはどこにもなかった。それでも、一人で壁にもたれているよりはずっとましだった。
「大丈夫だよ、襟花」
「うん」
「私が一緒にいるじゃん」
襟花は少しだけ黙ってから、顔を上げずに訊いた。
「ずっと居てくれる?」
花澄は笑った。
疲れていても、その問いには笑えた。
「ふふ。ゆーびきりげんまん」
そう言って小指を差し出す。
「嘘付いたら針千本のーます。ゆーびきったぁ!」
襟花は一瞬ぽかんとして、それから小さく目を丸くした。子供っぽい遊びだった。でも今の二人には、それくらいの約束のほうが、世界のどんな立派な言葉より信じられる気がした。
「……花澄」
「なぁに?」
「いいよ。……海。行く」
ようやく出たその言葉に、花澄はぱっと顔を明るくした。
「やった」
声まで少し軽くなる。たったそれだけで、さっきまで死んだみたいに淀んでいた部屋の空気が、ほんの少しだけ動いた。
襟花はその顔を見て、つられるみたいに少しだけ笑う。
けれど、すぐに何かを思い出したように言った。
「あ、待って。けどその前に」
「なに?」
襟花は器の置かれた床のあたりを見た。火を使った跡。残った骨。自分達を支えてくれた、命の名残。
それから、静かに言う。
「ゴジラのお墓、作ってからにしよ」
花澄は一度だけ目を伏せた。
冗談みたいな名前だった。ふざけた響きのくせに、その一言で部屋の中が急にしんとする。
少ししてから、花澄はうなずいた。
「うん」
それでよかった。
雑で、幼くて、何の意味もないかもしれない。けれど、そうしなければ先へ行けない気がした。置いていくにも、せめて墓くらいはいると、二人ともどこかで思っていた。
海へ行く前に。
この村を出る前に。
ここで終わったものを、ちゃんとひとつ埋めていかなければならない。
家の外では、風がまた、打ち捨てられた家々の隙間を抜けていた。
誰もいない集落の中で、二人だけがまだ生きている。その事実は心細いのに、ときどき二人だけだから息ができるような気もした。
襟花は花澄の肩にもたれたまま、目を閉じる。
海はまだ見えない。
どれだけ歩けば着くのかも分からない。
それでも、行くと決めた。
兄の帰りを待つのをやめて、何も残っていない村を出て、二人で海へ行く。
その約束だけが、もうすぐ潰れそうな世界の中で、かろうじて前を向くための形をしていた。




