渚の怪獣①
四月一日。エイプリルフール――から、一か月が過ぎた。
あの日、川べりで飯盒の白い湯気を見ながら、私はたしかに思ったのだ。生きるんだ、と。
ノアさんと北海道を目指して、どうせ一年後にはみんな死ぬならその前に少しくらい好きに食べて、好きに笑って、生きてみよう、と。
その気持ちは今でも嘘じゃない。ただ、旅ってもっと進むものだと思っていた。
地図の上なら、広島から大阪、その先に北海道まで線で繋げば済む。道があって、車があって、ガソリンと食べ物と、雨風をしのげる場所があれば――たぶん。
でも、世界の終わりまで残り一年になった後では、その“たぶん”が片っ端から使い物にならなかった。
雨の日はほとんど動けない。ワイパーの壊れた車で山道は無理だし、歩くにしたって視界が悪い。道端に捨てられた車に潜り込んで、窓を叩く雨粒の音を聞きながら、止むのを待つしかない日があって、そういう日はだいたい寒かった。
湿った制服は肌に張りつくし、靴下はいつまでも乾かない。毛布なんて毎回あるわけじゃなくて、後部座席に転がっていたバスタオルや、誰のものとも知れない上着で身体を包んだ。布の匂いが他人すぎて、眠る前に少し泣きたくなったこともある。
食べ物が尽きて、立ち往生した日もあった。
そもそも人の多そうな場所を避けて動いていたのもあると思う。大きな町や幹線道路の近くは追い剥ぎや、もっと面倒なトラブルに出くわしそうだったからだ。私がノアさんと出会ったのだって、静かな田舎町だった。
だから寄るのは、たいてい人の気配の薄い集落や、道を外れた先にある小さな店ばかりになる。でもそういう場所はもうとっくに空っぽだった。物流が止まってから時間が経っている。棚に並んでいるのは、売れ残りじゃなくて、埃だけだった。
山の近くで食べられそうな草を探したり、畑の隅に生き残っていた豆を拾ったり、誰もいない家の台所を泥棒みたいな気分で探ったりした。何もない時は、本当に何もない。
ノアさんは「サバイバルは得意分野なんだけどなぁ」と言いながら、そのへんに生えている草を見て首を傾げていた。得意分野が頼もしさに直結しないの、バグだと思う。
ガソリンはもっとどうしようもない。広島を出発した時に乗っていた相棒は突起に乗り捨てていて、歩いてはまだ走れそうな車を見つけては、動かなくなったら捨てる。また探して、また捨てる。その繰り返しだった。
車はそのまま寝床にもなった。シートを倒しても身体は痛いし、窓ガラス一枚向こうに真っ暗な世界があると思うと、少しの物音でも目が覚める。夜中に気配を感じた時は、二人とも息を殺したまま、朝までほとんど眠れなかった。
あと、これは本当に誰も言ってくれないことだけど。
旅って排泄がめちゃくちゃ面倒だ。
水洗トイレなんてもう当てにならない。流れない便器の前で立ち尽くしたことが何度もある。結局、人目のない場所を探して済ませるしかなくて、最初の私は恥ずかしさで半泣きだった。
ノアさんはそういう時だけ妙に手際がよくて、「ほら、あっち見てるから」とか「穴掘ったほうがいいよ」とか言った。慣れていてほしくない方向に頼もしい。ありがたいけど、ありがたくない。
お風呂にも入れない。顔も髪もまともに洗えない。汗と泥と埃が、少しずつ身体に積もっていく。制服が冬用だったお陰で服の汚れは目立たないけど、爪の間は黒くなり、髪は指が通らなくなった。自分の身体なのに自分じゃないみたいで、人間ってお腹が空くより先に、もう嫌だと思うことがあるんだなとその一か月で知った。
終末世界は理論値じゃ語れない。地図の距離と実際に生きた距離がこれっぽっちも一致しない。
だって、だって。
五月一日。広島から北海道に向かっていたはずが、起きたら何故か四国に居た。
助手席の窓から身を乗り出して案内標識を見て、私はしばらく黙った。潮の匂いがする。朝の光は白っぽい。標識は見知らぬ地名を指している。頭の中の地図とはどう考えても噛み合わない。
もう一回見た。やっぱり四国だった。
「悪かった! 悪かったよ! 道を間違えたんだ! そんな目で見ないでよ!」
ノアさんはハンドルに額を押しつけたまま、朝から情けない声を出した。そんな目って、どんな目だ。そりゃ見たけど。かなり。じとーって。
「はぁ……」
北海道に向かっていたはずなのだ。北へ、北へ、とりあえず北。それだけは共有していたはずなのに、気づけば海を渡って四国地方。方向音痴にも限度がある。
「北海道に向かってたはずなんですけど……」
「そのつもりだったんだけどなぁ……」
責める声にも、もう出会った頃の勢いはなかった。怒るのは体力がいる。空腹と寝不足と、洗えていない身体の不快感をずっと背負っていると、声を出す前に疲れていた。
それでも四国は違うじゃん。
ノアさんは情けない顔のまま地図を広げ、しばらく唸ったあとで言った。
「大丈夫。修正可能。たぶん」
「その“たぶん”って、私もう全然好きじゃないです」
「いい日本語だと思うよ?」
そういう問題ではない。
ただ、その時はまだ四国にいること自体をそこまで深刻には捉えていなかった。遠回りしただけだと思っていた。橋を渡って本州側に戻って、またやり直せばいい。ガソリンと食べ物さえ見つかれば、どうにかなる。そう思いたかった。
実際には、その“どうにかなる”が細くなっていくところからが本番だった。
淡路島を経由して本州へ戻るとか、もう少し北上して橋のあるところを探すとか、案だけはいくつか出た。私にはどれが正しいのかさっぱり分からなかったけれど、少なくとも今いる場所で立ち止まっていても仕方がない、という点だけは一致していた。
だから走った。走ったはずだった。
五月二日。起きたらなぜか徳島にいた。なんで?
しかも町らしい町はすぐに途切れてあとはもう、見渡す限り山だった。緑が濃すぎて目が疲れるくらいの山。道は細く、ガードレールの向こうは斜面か谷で、少しハンドルを誤ればそのまま落ちていきそうだった。
窓を開けると、湿った土と木の匂いがする。どこか近くで川の流れる音も。でも安心より先に、山の中に閉じ込められている感じがした。
「いや、道がね……おかしいなぁ……ハハ……ごめん」
ノアさんが乾いた笑いをこぼす。私は笑えなかった。
「あとガソリンがなくなりそう。食べ物も」
追い打ちのひと言で胃の底がすっと冷える。
減っていく食料と、目に見えて下がるガソリンのメーター。見慣れた光景のはずなのに、山の中だと意味が違う。平地ならまだ“次の町”を想像できる。でもここは、次があるのかどうかから分からない。
五月三日。イイ歳した外国人とセーラー服の成人女性。遭難している事にようやく気付く。
だけど認めたところで何も改善しない。ただ、その瞬間から冗談を言う気力が少し減った。
車内の空気も悪かった。窓を開ければ山の匂いが入ってくるけれど、閉めれば汗と泥と、何日も着っぱなしの服の匂いがこもる。水も節約しなきゃいけないから、喉が渇いても好きなだけ飲めない。口の中がねばつく。空腹で胃が痛いのに、食べれば食べたで、減ることが怖い。
足りないものばかりだった。食べ物、ガソリン、水、睡眠、清潔さ、安心。足りないものしかない世界で、それでも進まなきゃいけないのはかなりきつい。
「遭難した時ってさ、下手に動かないほうがいい場合もあるんだよ」
運転席で頬杖をつきながら、ノアさんが言った。
「じゃあ野焼きして救助とか待ちます?」
「オーマイガー」
突っ込む気力も起きなかった。救助なんて来ない。誰かに見つけてもらうことを前提に待つのは、希望というより放棄に近い。だから結局動くしかない。
五月四日。夜も更けてきた頃、山の奥に集落を見つけた。
最初に屋根が見えた時は、助かったと思った。山と山の隙間に、家がある。道がある。例えもう誰もいなくても屋根と壁があれば休める。
そう思ったのは、近づくまでだった。
家の形が変だった。普通の廃村なら草に埋もれて、雨風に削られて、少しずつ朽ちていくはずだ。けれどそこに並んでいたのはそうやって“時間をかけて死んだ家”じゃない。焼けていたのだ。黒く煤けて崩れ、骨組みだけを晒した家ばかりだった。
柱だけが立っている家。屋根が途中で落ちた家。窓枠の形だけ残して、中身が丸ごと消えている家。
古い焼け跡もあれば、まだ妙に生々しい黒もあった。何度も燃えたのか、一度ひどく焼けたのか、私には分からない。ただ、人がいなくなったあと静かに朽ちたわけではないことだけは、嫌でも分かった。
窓を少し開けた瞬間、入ってきたのはよく知る臭い。
生ごみや排水溝の延長にある嫌な匂いじゃない。もっと濃くて、重くて、鼻の奥に張りつく臭気。反射で口元を押さえる。脳裏に過ったのは五日間共に過ごした――両親の死体。
「……っ」
「酷いね」
車は集落の入口手前でゆっくり止まった。
フロントガラスの向こう、焼け落ちた家々のあいだに、ひしゃげた自転車が倒れている。焦げた洗濯竿が、何も干さないまま斜めに突き出している。庭だったらしい場所には雑草が伸び放題で、その奥に何か焦げ付いたものが見えた。
見間違いであってほしかった。でも目を凝らすほど見たくないものの輪郭がはっきりしていく気がして、私は思わず視線を逸らす。
「……行くんですか、ここ」
自分でも分かるくらい、声が固かった。泊まれる場所は欲しい。休みたい。でもここは違う、と身体のほうが先に拒否する。ノアさんはしばらく黙って外を見ていて、いつもの軽口はなかった。
「いや」
短く言って、それからもう一度。
「やめよう」
その言い方が逆に怖かった。普段のノアさんはもっと曖昧に笑って誤魔化す。なのに迷いなく切った。つまり見るまでもなくそういう事だ。
何があった村なのか。どうしてこんな臭いがするのか。まだ何か残っているのか。考え始めると、想像が勝手に嫌なほうへ伸びていく。
世界が壊れてからそういう想像力だけは育ってしまった。嫌な場所には近づかない。選べるなら避ける。それは臆病じゃなくて、生き残るための判断だ。
ノアさんは静かにハンドルを切り、車を反転させた。
焼け跡の村がバックミラーの中で少しずつ遠ざかっていく。なのに臭いだけはしばらく車内に残り、鼻の奥にこびりついた。窓を少し開けると、山の湿った空気が流れ込んできて少しましになる。でも完全には消えない。もう自分の服や髪にも、あの村の臭いが移った気がした。
「今日も車中泊ですかね」
「もっと寝心地の良い車を拾いたいね」
「普通に寝泊まりしたいって意味です……」
軽口は返した。でも喉の奥は乾いたままだった。空腹も疲労も限界に近い。今なら少しくらい嫌な場所でも屋根があれば飛び込みたい。それでも、さっきの村だけは無理だった。あそこに泊まるくらいなら、まだ車の中のほうがいい。
細い山道を、車はゆっくり進んだ。タイヤが小石を踏む音。枝が車体を擦る音。曲がって、下って、また曲がる道。対向車も、人の気配もない。集落を離れてからしばらく経つのに、世界から私たちだけ切り離されたみたいな静けさが続いていた。
その静けさの中で、ノアさんがふいにブレーキを踏んだ。身体が前につんのめる。
「えっ」
顔を上げた先、ヘッドライトの届く道路の真ん中に何かが倒れていた。最初は何なのか分からなかった。落ちた荷物かと思った。動物かとも思った。でも形が、人だった。しかも小さい。
「……人?」
「待って未來。ああやって近寄った瞬間に襲い掛かってくるやり方が昔流行って……いや……子供?」
心臓がどくんと鳴った。さっきまでの疲れが一瞬で別のものに押し流される。私はシートベルトを外して、ほとんど転がるみたいに車を降りた。
「未來!」
呼ぶ声を無視する。夜風が冷たい。だけどそんなことを気にしている余裕はなかった。
「ねぇ!大丈夫!?」
道路の上に倒れていたのは、女の子だった。
近くで見るとますます小さい。細い腕も足も、泥と擦り傷でひどいことになっている。白い服は血まみれで、乾いた血と新しい血が混ざって黒ずんでいた。靴は片方が脱げかけ、足首は土にまみれている。生きているのか、一瞬分からなかった。
確認しないわけにはいかなくて、私は震える指をその子の口元に近づけた。
微かに、感じる吐息。
「生きてる……!」
叫ぶみたいに言うと、すぐ後ろでノアさんが膝をついた。
「ぎりぎりね」
低い声だった。
その言い方が嫌で、胸の奥がざらついた。でも今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「ね、君。聞こえる? 大丈夫? 分かる?」
返事はない。完全に意識がないわけでもないのか、睫毛がかすかに震えた。顔は泥で汚れ、頬は削げるみたいに痩せている。唇は乾いて切れていた。何日もろくに食べていないのかもしれない。そう思っただけで息が詰まる。
子供だ。十歳くらいだろうか。本当に、ただの小さな子供だった。
「未來。今から大事な話をするよ」
ノアさんがその子の怪我をざっと見ながら、抑えた声で告げる。
「こんな状態じゃ助けるのはかなり厳しい。この脚の腫れだと多分歩けない、折れてるかも。そしたら熱もあるだろうし、出血もしてる。こっちだって余裕ない。それでも――」
聞き方が嫌だった。正しいのは分かる。分かるけど、嫌だった。まるで計算の話みたいで目の前の子が荷物みたいに聞こえて、だから私はノアさんの言葉が終わる前に、反射的に、
「助けるに決まってるじゃないですか! ノアさんのバカ!! 方向音痴!」
「最後のは今関係ないでしょ!?」
「一番あるもん! あります!」
自分でも分かるくらい、声がひっくり返っていた。
怒っているというより、たぶん怖かった。ここで見捨てたら、その瞬間に何かが決定的に壊れる気がした。目の前のこの子だけじゃなく、自分の中の、多分人としての大切な何かまで。
「……。」
ノアさんは一瞬だけ私を見て、それから諦めたみたいに息をついた。
「分かった。車に運ぼう」
結局手伝ってくれる。そのことに、私は何度も救われる。
二人で身体を抱え上げた瞬間、あまりにも軽くて、ぞっとした。軽い。小さいからだけじゃない。ちゃんと食べて、ちゃんと眠って生きてきた身体の重さじゃない。
後部座席に寝かせると、その子は苦しそうに浅く息をした。熱があるのか、頬が妙に熱い。額に触れるとじっとり汗ばんでいた。私はタオルを探し、手近な水で少し濡らして、顔についた血をそっと拭いた。
泥の下から白い肌が少しだけ見える。
子供だ、とまた思った。
この世界では、子供っていうだけで、もう十分すぎるくらい危うい。
「服は血塗れ。怪我も多い。多分どこかで転んだか……いや、落ちたのかな?やっぱり折れてそうだね」
「でも……」
「そう。かなり大変な拾い物だよ、未來。なんせ……まだ生きてるからね」
私はその子の手を握った。熱くて、細くて、強く握ったら折れてしまいそうだった。
「でもノアさんも、助けてくれますよね?」
そう言うと、ノアさんは少しだけ困ったように笑った。
「だってもう日付変わっちゃったし? 今日になって子供を見捨てるのは流石にね」
一瞬、意味が分からなかった。けれど次の瞬間、日付が頭の中で繋がる。
「あ」
五月五日。
子供の日。
「……詳しいですよね。記念日とか」
「無駄な知識ばっかり教えてくれる人が居たんだよ」
そう言って、ノアさんは軽く肩をすくめた。
五月五日。こどもの日。そんな日に山の中の道路で、血まみれの子供を拾っている。皮肉にもほどがある。
それでも、その時の私はまだ信じていたのだ。見つけた。助けた。助けようとしている。だからきっと、まだ間に合うのだと。
「大丈夫だよ。もう大丈夫だから」
何の保証もない言葉を、私は何度も口にした。相手に向けているようで、自分に言い聞かせる言葉を。
その子は答えない。浅い呼吸だけが続き、長い睫毛が時々かすかに震える。そのたびに私は”生きてる”と確かめた。
この子の名前もまだ知らない。何を食べてどうやってここまで生き延びてきたのかも。
私がどれだけ助けたいと思っても、助けるだけじゃ済まないことがあるなんて、この時は考えもしなかった。
それどころか私は、自分は正しいことをしているのだと思っていた。
見捨てないこと。手を伸ばすこと。子供を助けること。その選択が、あとでどれだけ重くなるのかも知らずに。
そして五月五日。子供の人格を重んじて、子供の幸福を祈って、子供の未来を願う、こどもの日。
その日、私たちは――子供を殺した。




