第38話 このままさらって欲しかった
「うん。ありがとう。コーヒー美味しかったです。そろそろ行かなくちゃ」
風見先輩が椅子から立った。
「近くまで送ります」
「そう? ありがとう」
「あたしも今日のところは帰ろうかな……」
みなみちゃんが伏し目がちに言った。先ほど、お母さんは泊まって行ったらと言っていたのに。きっと、彼女は空気を読んでくれたのだろう。
友央も送り迎えに、ついてこようとしたけど断った。
「風見先輩、どっちの方ですか?」
「あっ。あのスーパーがあるほう」
彼女が指さしたのは、長い道の先にある24時間営業のスーパーだった。
夏の夜は涼しく、半袖であっても肌寒さを感じるくらいだった。秋はもうすぐやって来るのだろう。
私たち3人は、並んで歩いた。しかし、道中は無言だった。
「あたし、こっちだから。またね」
「みなみちゃん、じゃあね」
T字路に差し掛かった時だった。
みなみちゃんは私と風見先輩を一度見た後、走って闇の中へと消えて行った。無事に家に帰れますようにと心の中で祈った。
私と風見先輩はスーパーまで二人で歩くことになった。
「——和央ちゃんのお兄さん。優しいね」
「そうですか?」
「うん。性格も和央ちゃんに似てるなって思ったなぁ」
間接的に私を褒めてくれた。風見先輩、無自覚なのかな。
今、抱きしめたくて仕方なかった。
「それに、和央ちゃん。みなみちゃんといたんだね」
「あっ。はい。急にウチに来ることになっちゃって」
「いいなぁ。仲良いんだね」
風見先輩の声が切なそうだった。彼女の横顔は泣いているように思えた。
「先輩もいつでもウチに来てくださいよ!」
「和央ちゃん。ありがとう……」
「いえいえ! どんとこいです! 明日でもいいですよ?」
「あははっ。本当にありがとう。…………あのね。自分語りしてもいいかな?」
「はい。風見先輩の自分語りなら、とことん聞きたいです!」
「じゃあ、遠慮なく。わたしね、県外の大学に行こうと思っているんだ」
「えっ……」
私は息を呑んだ。
「それだと一人暮らしができるでしょ? 前から決めていたことなんだ」
そうだったんだ。風見先輩の声音が明るくなった分、私の心には暗い影がさした。
「ここからだと片道5時間はかかっちゃうかな? だからね、和央ちゃんとは気軽に会えなくなっちゃうかも」
嘘。そんなのって、ないよ。
「……嫌です」
気がついたら、悲しい気持ちが口から溢れていた。私には止められなかった。
「……風見先輩と会えなくなるなんて寂しいです」
「和央ちゃん」
彼女を困らせては駄目だ。頭ではわかっているのに、すがるような言葉ばかり出てくる。本当、何しているんだろう。
「まだ春まで時間があるよ!」
「……」
「これから思い出たくさん作ろうよ!」
風見先輩の言葉は宝石のように嬉しかった。だけど、彼女は受験生だ。きっとこれからますます忙しくなるだろう。
ただの後輩の私に、かまけてなんていられない。
私は友央の大学受験のことを思い出していた。目がギラついていて、いつもピリピリしていた。息抜きであっても、とても遊びに誘えるような雰囲気ではなかった。
「ありがとうございます……」
けど、話す時間くらいはあるだろう。未来を悲観せず、少しでも明るく考えることにした。
「ねぇ。和央ちゃん」
「何ですか?」
「少しの間、手を繋いでていい?」
「もちろんです」
右手を差し出すと、彼女は優しく握ってくれた。
なんだかカップルみたいだ。高鳴る気持ちが溢れないようにと、必死に胸を押さえ込んだ。
風見先輩を盗み見ると、まっすぐ前を向いていた。顎を引いていて、澄んだ瞳で一点を見つめていた。
ドキドキしている自分の気持ちが、急に場違いに思えてきた。
あっという間にスーパーに辿り着こうとしていた。白い眩しい明かりが私たちに安心感をくれた。
「風見先輩の家、近くなんですか?」
「うん。わりかし」
「そうなんですね」
「うん……」
沈黙が私たちの間に広がった。
「じゃあここでお別れだね」
「はい。先輩、気をつけて帰ってくださいね」
「和央ちゃんもね。ダッシュで帰るんだよ!」
「あははっ。わかりました」
「……」
「……」
二人して顔を見合わせる。
まだ離れがたい気持ちがあるのも事実だった。
「和央ちゃん、目を閉じてくれる?」
風見先輩の顔が真剣だった。茶化していい雰囲気ではない。
「はい」
私はおとなしく瞳を閉じた。まさかキスされるなんてことはないよね?
そんな。まさか。
自分の妄想に笑っていたら、ふにっと唇に柔らかな感触が広がった。
私は風見先輩にキスをされた。
両肩を掴んで、少しかがむように、私の身長に合わせてくれていた。背中に手が回り、優しく抱きしめられる。お返しにと、私も先輩の腰に手を回した。
まるでこの世に二人っきりみたいだった。このままさらって欲しかった。
ときめきに身を委ねていると、あっという間に風見先輩が私から離れた。
「……元気出た。ありがとう。またね!」
「あっ」
風見先輩は走って、そのまま行ってしまった。
耳がほんのり赤く染まっていたのを私は見逃さなかった。
これは正真正銘、風見先輩の意思で私にしてくれたキスだ。
物語の模倣ではない。オリジナルのストーリーだ。
私は思わず唇に手を当てた。今日は一日中、風見先輩と一緒にいた。
これから先、どんどん彼女に溺れていきそうな予感がした。心臓の音はまだうるさい。
「どうしよう。ますます好きになっちゃう……」
私の独り言は夜の闇に溶けていった。




