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5.人魚の洞窟

 夜の潮風が骨にささる。港の明かりを背に、ラウスたちは北の入り江へと岩棚を伝った。月光を飲んだ崖は黒く濡れ、割れ目の向こうから波が低く鳴る。


「この先よ」ルルが小さく言う。「でも……本当は、人間は連れていけないの。ダメな人は入口で“弾かれる”」

「入場制限?」岩尾が首をかしげる。

「そんな感じ。人魚の棲家は“心”を見るの。入っていい人、ダメな人がわかる」


 ラウスは神野をちらり。「先生、いけるタイプ?」

「科学は黙るが、試す価値はある」神野は眼鏡を押し上げた。


 洞口に足を入れた瞬間、空気がたわんだ。ルル、ラウス、岩尾はするりと通る。だが透明な膜が神野に触れた途端、ぱんと弾けて光り、彼だけを押し返した。

「……どうやら私は不可だな」

「たぶん“人間の大人”はたいてい無理。わたしはここに来たのをみたことない」ルルが言う。

「仕方ない。ここで待つ。気をつけて行け」神野は苦笑して壁に背を預けた。


 ルルが先導する。ルルは高校2年とは思えないほど小柄だ。小学生でも通じるかもしれない。

 ラウスと岩尾はルルの後に続いて、湿った岩床を進む。暗い海の匂い、足元の薄い水膜、やがて青白い光が洞の奥ににじんだ。そこは水底のように静かな広間。貝殻が壁でほのかに光り、透きとおる水面に十数の影――人魚たちが浮いていた。


「ルル!」「無事なのね!」

 一斉に集まる声。波が控えめに寄せ、青い泡がちらつく。

「マリーのようにならなくてよかった……」

 その名で、ラウスの胸がちくりと痛む。――倉庫で泡になったあの人魚。マリーっていう名前だったのか。


「長老をお呼びします」


 奥の水面が静かに割れ、銀髪を水に流した老女の人魚が現れる。

「わたしはネリヤ。この海の“記録”を司る者」青の瞳が、波の底のように澄んでいた。

「ルル、よく戻ったね。無事で何より。――けれど、人間は諦めない。もうこの街で暮らすのは難しいだろう」


「俺が守る!」ラウスは一歩出る。

 ネリヤの視線がラウスを射抜き、わずかに光る。

「……おまえは、あの男の縁だな」

「え?」

「荒佐グンザ。かのヒグマの男は昔、この洞窟を訪れたことがある」

「じっちゃん……!」


 ネリヤは小さくうなずく。

「グンザの血を引くなら強いだろう。だが、この町で永く守り通すのは難しい」

「いや、俺はやる。ルルは――俺のつがいだ。俺にはわかる。必ず守る」


 ネリヤは長いまつげを伏せ、静かに考え、やがて目を開いた。

「ならば、頼みがある。ルルを“青龍の湖”へ連れて行け」

「青龍?」ラウスが息をのむ。

「ルルの母は青龍の娘だ。ならば青龍は、ルルの居場所を用意できる」


「りゅ、龍!? 本物!? テンション上がる!」岩尾が素直に叫ぶ。

 ネリヤがゆるく眉を上げる。「その騒がしい者は何者だ」

「普通の人間! でも、とてもいい人!」ルルが慌てて手を振る。

「“普通”の意味!」ラウスが即ツッコミ。

 ネリヤはふっと笑みをこぼす。「ここを通れたなら、心は澄んでいる。――その者も連れて行け」


「青龍の湖はここから歩いて三日」

「歩き!? 車なら一日かからんす」岩尾が地図を出す。「どの辺っすか?」

 ネリヤが水越しに指し示す。岩尾が即座に測る。「約三百キロ、山越え二つ」

 ラウスの脳裏に神野の顔が浮かぶ。「先生に運転、頼めるかな」


 戻ると、洞外で神野が月光を肩に受けて立っていた。眼鏡の奥が静かに光る。

「話はわかった。――行こう。青龍の血を引くというルルを守る。ラウス、岩尾、そして私で」


 ルルを青龍の湖へ――青龍の力を借り、居場所を作る。その言葉がラウスの胸で固く結ばれた。


 ――夜更け。

 ラウスはまっすぐ屋敷へ戻る。庭は桜が淡く散り、廊下灯が長い影を引く。玄関を開けると、黒いコートの宗田エムが待っていた。

「おかえりなさいませ、坊ちゃま」

「起きてたのか」

「ええ。“旅支度”を整えようかと」

「なんで知ってんだよ!?」

「神野先生からお電話が。“明日、出発と伝えて”」

「先生ぃ……!」


 宗田は湯を注ぎ、湯気の向こうで微笑む。

「坊ちゃまが行くなら、わたくしも同行いたします」

「はあ!? なんで宗田が!」

「お世話係ですから」

「坊ちゃまって言うな!」

「では、ラウス様」

「もっとやめろ!」


「グンザさまには“少し長めの外出”と連絡済みです」

「話が早ぇ! まだ決めたばっか――」

「準備の早さは、わたくしの美徳です」

 衣装棚が開き、旅支度のリュックが三つ並ぶ。

「先生の分も。予備の眼鏡も入れてあります」

「先生の予備メガネまで!? 段取り良すぎ!」


 宗田の声が、ふっと柔らぐ。

「坊ちゃまが“行く”と決めたなら止めません。――止めても無駄ですから」

「わかってるじゃん」

「ただし、“帰る”前提で出発してください。お世話係として、それだけは命じます」


 糸のような目が、わずかに細く開いた。瞳の奥で縦の光が一瞬だけきらりと走る。

「……ああ。ちゃんと帰る」

「承知しました。では明朝五時に出立を」

「早ぇ!」

「旅は朝に始めるものです」


 月が廊下を照らし、庭の桜がさらさらと散る。

 ラウスは拳を握った。

「――明日、青龍の湖へ行く」

「承知いたしました。蜂蜜湯をご用意します。早くお休みになれますよう」

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