4.月下、熊吠える
満月が港のクレーンを白く塗っていた。潮と油の匂い、鉄骨の軋み、風の低い唸り。コンテナの谷間を、ラウスと神野は音を殺して進む。
「密航船は北行きだ。時刻は間もなくだ」神野が眼鏡を押し上げる。
「ルルの匂いはこっち。――近い」
カン、と闇で金属が跳ねた。
「先生、伏せて!」
乾いた銃声。神野の肩がはじき、壁に赤が弾ける。
「先生!!」
「かすりだ……動ける。行け、ラウス」
ラウスの視界が赤く染まった。筋肉がきしむ。背骨が鳴る。制服の縫い目が悲鳴を上げる。
コンテナの影から三つの影――花柄シャツ、のっぽ、サングラス。
「ま、また熊……!」
「おいガキ、引き返せ!」
「来るなって言われると、余計行きたくなるんだよな」
毛がざわめき立ち、耳が厚く丸みを帯びる。牙がのぞく。床の錆が足裏で砕けた。
月に向かって、咆哮。
「ヒ、ヒグマ人間だあああ!!」
サングラスが連射。火花、跳弾。ラウスは一歩で詰め、懐へ潜る。拳――鉄骨ごとへし折る直撃。サングラスがコンテナに埋まった。
のっぽが鉄パイプを振り下ろす。受ける。パイプがバナナみたいに曲がる。逆にのっぽの顎へショートフック。歯が月光に飛んだ。
花柄シャツがナイフで突きを連ねる。紙一重で捌き、手首をつかんでコンテナの角へ叩きつける。ナイフが跳ねて海に落ちた。
背後のハシゴ上から別の影が撃つ。
ラウスはコンテナの扉を片手で引きちぎり、即席の盾にした。銃弾が鉄を叩き、火花が雨になる。
盾を回転投げ。ドン、とハシゴの中段にめり込み、撃っていた男が悲鳴ごと落ちた。
「ま、待て……!」花柄シャツが膝をつく。「命令されたんだ、人魚を北の国に送れって……!」
「誰にだ」
「知らねえ! 上からだ! “半分のやつ”もだって!」
「半分?」ラウスが眉をひそめる。胸の奥で、潮の匂いがふっと濃くなった。
「……荒佐くん?」
小さな声。コンテナの隙間、結束バンドで縛られたルルがいた。髪が乱れ、制服が裂け、膝に擦り傷。
ラウスは一瞬でそばにいて、バンドを爪で断ち切った。
「ルル! もう大丈夫だ」
彼女が見上げる。瞳が揺れる。
「あなた……ヒグマ獣人なの?」
「見てのとおり」
ルルが小さくうなずく。
「ルルは、人魚だな?」ルルがはっとした、その時。
別方向から銃声。神野が崩れたパレットに身を伏せ、片腕で応射の角度を潰している。肩口の血が滴る。ラウスが歯を食いしばる。踏み切り。床板が割れた。
残った連中が一斉に散開。フック付きワイヤーが投げられ、ラウスの腕と脚に絡む。
「今だ! ウィンチ回せ!」
コンテナクレーンが悲鳴を上げる。鋼索がきしんで、ラウスを引きちぎろうとする。
「なめんな!」
腕の毛が逆立ち、筋肉が裂け目のように膨張。ワイヤーが音を立てて伸び、次の瞬間、爆ぜた。破片が星みたいに飛び、作業灯がまとめて割れる。闇が濃くなる。
月光の下、ラウスは床を蹴った。花柄シャツの鳩尾に膝。のっぽの足首を払って顎へ踵落とし。サングラスが背後から組み付く。――それを逆に抱え上げ、背中からコンクリへ叩き落す。ひび割れが蜘蛛の巣のように走る。
「ちょ、ちょっと待っ――」花柄シャツの言い訳は最後まで続かなかった。
ラウスの視線がふと逸れる。潮の匂いの奥に、別の焦げ臭さ。
「先生!」
神野が片膝で耐えている。肩の血は止まらない。その瞬間、甲高いエンジン音が港の静寂を切り裂いた。
「どけどけどけーッ!」
スクーターが滑り込み、ブレーキ音と共に岩尾が跳び降りる。
「GPSで追ってきた!」
「それストーカーの台詞な!」
「友情だ!」
岩尾は手際よく救急セットを広げ、神野の傷をのぞき込む。
「止血、圧迫、固定……OK。縫合は不要」
「……君、何者だ」
「親が外科医。俺は柔道と接骨」
「どんな高校生だ」
戦場の緊張が一瞬だけ緩む。だがルルが小さく震え、袖をつかんだ。
「荒佐くん……どうして、わたしが人魚だと」
「匂いさ。泡になった人魚と同じ“海の匂い”。それに、――お前を見た時、心臓が勝手に決めた」
敵の残りを結束バンドで縛り上げながら、ラウスが花柄シャツを見下ろす。
「ここから、どこへ送る気だった」
「“北の国”だ……人魚の血や涙を集めるって」
神野が低く唸る。「汚い人間どもが……だが、なぜ彼女を? 一見、ただの――」
ルルが小さく言った。
「わたし、人間と人魚のハーフなの。普段は人間の姿でいられるの。どうしてバレたのかは、わからない」
いたたまれないような顔でうつむくルル。
「知られたくなかった」
短い沈黙。
ラウスは息を吐いて、笑った。
「じゃ、俺と同じだな。俺も人とヒグマのハーフみたいなもんだ」
ルルは神野と岩尾を見る。
「研究対象として、興味はある。だが、それ以前に――ラウスもルルも、俺の生徒だ」神野が断言する。
「小新府、気づかなかったし、知っても変わらん」岩尾が親指を立てた。
ルルの目に涙が光る。「……ありがとう」
ラウスは花柄シャツの顎を指で上げた。
「最後に。おまえら、誰の指示だ」
「……知らねえ。俺たちゃ末端だ。上は顔も出さねえ。通信だけだ」
嘘の匂いはしない。ラウスは舌打ちし、男たちをコンテナの柱に括り付けた。
「ここで寝てろ。拾うやつがいるだろ」
神野が立ち上がる。痛みで顔をしかめつつも、声は凪いでいた。
「止血はした。車まで戻る。……移動できるか、ルル」
「うん」
ラウスは彼女の手を取って、頷いた。
「大丈夫。今度は、間に合った」
月光が波頭を撫でる。港の風が変わった。ルルが振り返り、ためらいがちに言う。
「みなさんに来てほしい場所があるの」
「どこへ?」
「――人魚たちの棲家。そこで、話したいことがある」
満月が高く、遠く。
ヒグマの血が静かに熱を引き、夜は次の舞台へ続いていく。




