3.俺のつがいが可愛すぎてテディる
春の陽射しがまぶしい。
私立稜館学園の正門をくぐると、芝の匂いがした。制服の上着はまだ肩になじまず、襟元がちょっと苦しい。
(宗田、仕立て直し早すぎだろ)
昨夜あんなに裂けてたはずの制服が、今朝には新品同然。袖の長さまで完璧だ。――針の音も聞こえなかったのに。
(あの人のことは、考えるだけ無駄か)
ラウスは首をすくめ、ポケットに手を突っ込んだ。
白い校舎。ざわめく声。チョークの匂い。昨日の港倉庫が夢みたいに遠い。
「おはよー、荒佐くん!」
クラスの女子が手を振る。
「お、おう」
高校生活、二日目。平和そのもの。女子がいっぱいいる。もしかして、この中に――
(俺の“つがい”が……)
口元がゆるんだ。
だが、平和は長く続かない。
廊下の角で、ぬっと人影が立ちはだかった。
「おい、君。昨日、すごい速さで車を追いかけてただろ」
がっしりした体、日焼けした肌、鼻の横の古い傷。体育会の化身みたいな上級生だ。
「誰っすか」
「総合格闘部主将、岩尾謙剛だ」
ラウスの眉がぴくっと動く。「けんごー?」
「噂になってるぞ。信号無視の車を追って消えた一年がいるってな」
「はあ。通報とかされたとか?」
「いや、むしろ推薦だ」岩尾は真顔だ。「うちの部、君みたいなのを待ってた」
「格闘部って……俺、格闘技とかやってないし」
「人間やめてる反応速度だったぞ」
(……え、勘いいなこの人)
「まあ考えとけ。期待してるぞ、チーター新入生!」
「あれとは違ぇ!」
ラウスの叫びを置き去りに、岩尾は笑いながら去っていった。
「人の話、聞かねぇタイプだな……」
ぼやきながら教室へ戻る途中、窓の外がふっと明るくなった。
三階の廊下から見下ろす校庭。花壇のそばに、ひとりの少女が立っていた。風に茶色の髪が揺れる。光を透かして金にも見える。白いブラウスに水色のスカート。みんなと同じ制服なのに、まるで空気の層ごと違って見えた。
(誰だ……あの子)
胸の奥で、何かが鳴った。少女が顔を上げ、まっすぐこちらを見上げる。目が合った。時間が止まる。
(……俺の、つがい)
心臓がぎゅっと縮んで、脈拍が乱れた。耳が、きゅん、と頭の上に飛び出しかける。
(やべっ!)
慌てて押さえた瞬間、少女はふっと首を傾げ、角を曲がって消えた。
「は?」
ラウスは窓を開け、三階から下をのぞき込む。誰もいない。思考より先に、体が動いた。
窓枠を蹴る。――軽やかに飛び降りた。制服の裾がふわりと舞い、花壇の前にすとんと着地。
「うわああああ!?」「三階から誰かがー!!」
上から悲鳴が上がる。ラウスはポケットに手を突っ込み、きょろきょろと辺りを見回した。
少女の姿は、もうなかった。
「……うっかり“アレ”になりかけて、出遅れた」
ため息が出る。
*
放課後。
神野の研究室のドアには「進化人類学研究室」の札。
「失礼しまーす」
中では神野が資料の山に埋もれていた。銀のメッシュの黒髪が夕陽を受けて青く光る。
「来たか、荒佐。昨日の件、誰かに話したか?」
「してねぇよ。宗田にめっちゃ怒られたし。……先生こそ、俺のこと言ってないよな?」
「もちろんだ」神野は眼鏡を外し、目頭を押さえる。
「それにしても、人魚……。本当に“あれ”を見たんだな」
「ああ。泡になって消えた」
「――そして君は、“ヒグマ獣人”だと」
「そうっす」
神野の目が細くなる。
「興味深い。進化人類学には“獣系分岐説”という仮説があってな。ヒトと哺乳類が、知的種として別の枝を伸ばした可能性だ」
「つまり俺の先祖が熊だった説?」
「端的に言えば、そうだ」神野は口の端を上げる。「だが問題は、なぜ君たちが“隠れている”のか」
「見た目が怖ぇからじゃない?」
「いや、それだけではない」
神野の目に光が宿る。「あの連中――人魚を狙った三人も、何かを知っている。あの“泡”は死ではなく、ある種の防御反応だ。細胞が――」
「先生、理屈っぽいっすね」
「研究者だからな」
「それと、あの三人のことだが」
「何かわかった?」
「いや、まだだ。昨日の今日で手がかりはない。警察に出すのも難しい」
「……そうっすね」
神野は小さくうなずいた。「何かわかったら、すぐ知らせる」
研究室を出ると、夕焼けが校舎の窓を真っ赤に染めていた。ラウスはさっきの少女を思い出す。あの光。あの目。あの心臓の鳴り。
「俺のつがい――待ってろよ」
拳を握る。夕陽を映したその瞳が、まるで炎のように燃えていた。
*
夜の港。コンテナの隙間に、ちらつく蛍光灯。
花柄シャツ、のっぽ、サングラス――あの三人組がスピーカーの前に正座していた。ノイズ混じりの低い声が響く。
「別の人魚が稜館学園にいる。捕まえろ。今度は失敗は許さない」
「ま、また学園ッスか? ヒグマ人間がいるんスけど!」
「怖気づいたか。お前たちの価値は結果で決まる。二度目の敗北は存在しない」
通信が途切れた。沈黙。花柄シャツが顔を上げる。
「……行くぞ」
「まさかヒグマを殺れってんじゃ」
「ヒグマじゃねぇ、人魚を捕まえろだ」
「ガキ一匹、熊一匹。上等だ」
「戦うんスか!?」
「まさか。会わねぇようにする!」
*
翌朝、稜館学園。春の陽射しがまぶしい。教室には女子たちの笑い声が満ちていた。
「Next, please.」「Yes, Mr.Jinno!」
神野の英語の授業は人気が高い。女生徒たちはきらきらした目で先生を見ている。
神野が黒板に “Where is my partner?” と書く。
「荒佐、訳してみろ」
「……俺の、つがいはどこ」
教室が爆笑の渦になる。
「Partnerだ。つがいはanimalだ」神野が額を押さえる。
「動物的には間違ってないっすよ」
「間違ってるのはお前の脳みそだ」
笑われながらも、ラウスの心の中は真剣だった。
(だって気になってんだよ……俺の“つがい”)
*
放課後。廊下を出た瞬間、背後からごつい手が肩をつかんだ。
「荒佐! 部室行くぞ!」
「またっすか岩尾先輩! 俺今日は――」
「筋肉に休みはない!」
「入部するってまだ言ってねぇ!!」
岩尾にずるずる引きずられ、格闘部の部室へ。
ドアを開けた瞬間――世界が止まった。
白いブラウス、水色のスカート。
陽を受けてやわらかく光る、茶色の髪。
ぱっちりした瞳、白い肌、華奢な肩。
背は小さくて俺の胸の高さくらいしかないんじゃないか?
そしてその子が、にこっと笑った。
(――マジか)
昨日、校庭で見たあの子。俺の“つがい”! リアルにいた!
「マネージャーの小新府だ。小柄だが学年は二年。こっちは荒佐ラウス」岩尾が紹介する。
「小新府ルルです。よろしくお願いします」
コシンプ……ルル。
名前まで、可愛い。音が可愛い。口に出して可愛い。
「ルルルルルル……」
ラウスの脳がバグった。
ルルが首をかしげる。「荒佐くんは一年生? 見学かな」
「う、うん……見学……」
心臓がドラムみたいに鳴る。耳がぴくぴく動きそう。
(やべぇ、こらえろ! ここでテディったら人生終わる!)
岩尾が拳を鳴らす。「よし、スパーリングだ!」
「聞けよぉ!!」
限界。
ラウスは逃げるように部室を飛び出した。
「速ぇ! やはり反応速度が人外だ!!」岩尾の声が背後から響く。
*
神野の研究室のドアを乱暴に開ける。
「先生、やばい!」
「またか」
「恋です!!」
「……病気じゃないのか」
「ちがいます! つがいを見つけて、可愛すぎて、変身しかけて、今も……やば……」
「変身? ヒグマにか?」
もふっ。
目の前で、小さな茶色いくまのぬいぐるみが転がった。
「……どうしてこうなった」神野が拾い上げる。
「やめろぉ! 触んなぁー!」
「しゃべれるのか。服も縮むのか。……関節が妙にリアルだな。ぬいぐるみ構造なのに筋肉がある。どういう仕組みだ?」
「あちこち観察すんなぁ!!」
「で、どうやったら戻る?」
「肉球をぎゅーぎゅー押してくれ!!」
神野は両手で押す。「こうか?」
「ちがう! 弱ぇ!!」
「力加減がわからん!」
研究室に謎の悲鳴が響いた。
そのとき――ノックの音。
「神野先生、プリント集め終わりました」
生徒が入ってくる。神野はラウスを背中に隠し、無理やり笑顔。
「そこに置いといて」
「先生、ぬい好きなんですか?」
「研究素材だ」
生徒が首をかしげつつ去った。
「先生、恋は重症です……」
「熊型恋愛体質は初めてだな」神野がメモを取る。「自制不能、変身発動――興味深い」
「観察すんなって言ってんだろぉ!」
*
そのころ、校門の外。ルルは呼び止められていた。
「小新府さん? 先生が呼んでました。北門の方です」
「え? はい」
ルルが首をかしげながら北門へ向かう。そこに立っていたのは――花柄シャツ、のっぽ、サングラス。
「少し話を」
「あなたたち……誰?」
ルルの背筋が冷たくなった。
*
研究室。
神野のスマホが震える。教頭からの緊急メッセージ。
『生徒が3人組に車で攫われた。名前は小新府ルル。車は銀のセダン』
神野とラウスが同時に顔を上げた。ラウスの丸い瞳がギラリと光る。
「なんでルルが!」
「三人組、銀のセダン……またあいつらか」
次の瞬間――もふもふが弾け飛び、熊のぬいぐるみが少年の姿に戻った。
「行く!!」
床を蹴る音が、研究室の窓ガラスを震わせた。




