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2.鮭と蜂蜜と糸目の女

 倉庫の中は、嘘みたいに静まり返っていた。

 さっきまで鉄と血の匂いが充満してたのに、今は波の音だけが遠くで響いている。

 ラウスはしゃがみこみ、床に残った小さな水の輪を見つめた。泡は消えて、跡形もない。潮の匂いだけが、まだ残っていた。まるで海がここに滲み出してきたみたいに。


「……死んじまったのか」

「すまない」神野が静かに言った。銀のメッシュの入った髪が、蛍光灯の残光を受けて揺れる。

「俺があいつらに捕まって動けなかった。もっと早く助けていれば」

「先生のせいじゃねぇよ。悪いのは、あのクズどもだ」


 神野は何も言わず、視線を落とした。

 ラウスは拳を握る。「助けたのに、守れなかった」

「ああ、守れなかったな」神野の声が低く響いた。


 二人は倉庫を出た。潮風が冷たい。

 ラウスの体はもう人間の姿に戻っていたが、指先にはまだ獣の名残が残っている。


 船の汽笛が、遠くでボーッと鳴った。

 ラウスはあの人魚の横顔を思い出す。茶色の髪。銀青の尾びれ。――本当に、美しかった。

「忘れねぇよ」

「それでいい」神野が言った。「そういう記憶が、人を強くする」

「人を、ね……」

 ラウスは自分の爪の先を見た。

 先生は答えず、ただ「乗れ」とだけ言って車のドアを開けた。


 *


 そのころ、陽の落ちかけた埠頭を一台の車が走っていた。

 花柄シャツ、のっぽ、眼鏡。

「ヒグマ人間だと?」

「聞いてねぇよ、そんなの」

「人魚を置いてきちまってよかったのか?」

「“次こそぬかるな”ってさ」

「ボスの命令か」

 エンジン音が闇に溶け、車はトンネルへ消えた。


 *


 ――帰路。

 神野の車の中は静かだった。助手席のラウスは窓にもたれて、流れる街をぼんやり見ていた。

 夕焼けが街を染める。ガラスに映るオレンジ色の光が、まるで別の世界みたいだ。


「いったい何が起きてるんだ? 人魚、拳銃を持った連中、そして君は?」

「俺?」ラウスは少し考え、「ヒグマになれる」とだけ答えた。

「……簡潔だな」神野が苦笑する。

「わかりやすいほうがいいだろ」


「ヒグマ、か。亜人――いや、獣人だな?」

「ああ。うちは代々そういう血だ」

「獣人が実在するとは……」神野が息を吐いた。「人魚もいた。あの連中も狙っていた。偶然とは思えない。調べる必要がある」

「調べるって、俺も巻き込まれるやつだよな?」

「当然だ」

「うわ、やっぱり」ラウスは天井を仰ぐ。「宗田そうだに怒られるな」


「宗田?」

「家の人。女だけど、俺より強い」

「君より?」神野が眉を上げる。

「見た目は優しそうなんだけどな。実際は熊より怖ぇ」

「その人もヒグマ獣人か?」

「違う。ヒグマ獣人に女は生まれねぇんだ」

「なるほど……会ってみたくなった」

「先生、生きて帰れたらな」

 冗談めかして言ったが、少しだけ本気だった。


 車は静かな住宅街へ入った。

「ここでいい。ありがとな」

「気をつけろ。明日、研究室に来い」

「了解」


 *


 和風の屋敷の門をくぐると、玄関前に宗田エムが立っていた。

 三十前後に見える。細い輪郭に黒髪をまとめ、黒のエプロン姿。

 糸のように細い目が、いつも笑っているように見えるけど、実際に笑ってるところは誰も見たことがない。


「坊ちゃま。おかえりなさいませ」

「ただいま」

「お疲れのようですね。鮭になさいますか、蜂蜜になさいますか」

「両方」

「かしこまりました」宗田は穏やかに頷く。

「では、その制服の破れについては――後ほどたっぷり伺います」

「げっ」


 宗田はゆるやかに一礼し、足音もなく廊下の奥へ消えた。


 ラウスは庭の桜を見上げた。夕焼けの中、花びらが一枚、風に舞う。

 あの人魚の儚げな微笑みが、花びらの向こうに重なった。


「このまま終わらせねぇ。――ここから始める」


 拳を握る。掌にはまだ、わずかに潮の匂いが残っていた。

 夕風が頬を撫でる。ラウスは目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。


 夜の屋敷は、いつも静かだ。

 風の音と時計の針だけが聞こえる。


 宗田エムは台所でお盆を整えていた。

 銀の皿に鮭の切り身、ガラス皿には黄金色の蜂蜜をひと匙。

 配置は完璧――まるで儀式の準備みたいだった。


 そこへ足音。

「ただいまー」

「さきほども伺いました。二度目の“ただいま”は不要です」

「へいへい」ラウスは椅子にどかっと座りこむ。「あーもう疲れた」


 宗田が湯気の立つスープを置いた。

「お疲れでしょうね。坊ちゃまの“高校生活初日”が、戦場で幕を開けたようですから」

「戦場ってほどでも……まあ、変な連中には会ったけど」


 宗田の手が止まった。糸目が細く光る。

「お話を」

「……人魚がいたんだ」

 声が少し低くなる。「車のトランクの中に。人間が囲んでて、血とか涙とか取ろうとしてた」


 宗田は何も言わない。

 ただ蜂蜜の瓶のふたを、静かに閉めた。


「人魚の血肉は、不老不死をもたらすと申します」

「知ってる。でも、その人魚、死んだ。泡になった」

「そうでしたか」

 宗田の声は揺れなかった。

 ラウスは拳を握った。「あいつら、まるで獣だ。獣以下だ」


「坊ちゃま」宗田の声がやわらかくなる。

「ん」

「今日、“変身”なさいましたね」

「……まあ、した」

「禁止されていたはずですが」

「しょうがねぇだろ! 人魚も先生も殺されそうだったんだ」

「お怪我は?」

「ない」

「では、周囲に見られましたね」

「うっ、あー、はい」

「どなたに?」

「敵の3人組と、あと……担任の、神野先生」

「先生」宗田は軽く首をかしげる。「それは賢明ではありませんね」

「だよなー」


 宗田は蜂蜜をひと匙、紅茶に落としながら言った。

「この国では“獣人”は公には存在しません。異能――つまり、知られてはいけない種です」

「わかってる。でも、隠してるだけってのも、もうしんどい」

「使命をお忘れなく」

「使命、ね。“つがい探し”の?」

「はい。伴侶を見つけ、血をつなぐこと。それがこの家に生まれた者の役目です」


 ラウスはカップを両手で包んだ。

「俺だけだもんな」

「ええ。お祖父さまは山にお籠りです。あの方は一人で十分に生きていけますから」

「じっちゃん、まだ熊より元気だしな」

「それは結構なことです」


 少しの沈黙。

「でもさ、もしまたあんな場面になったら、もっと早く変身する。迷ってるうちに、助けられねぇのは嫌だ」

 宗田の手が止まる。

「泡になって、消えたんだ。助けられなかった」


 蜂蜜の甘い香りが漂う中で、ラウスの声だけが沈んだ。


「人魚は死ぬと体を残さず泡になります。だから奴らは“殺さずに採る”のです」

「ほんと、胸くそ悪い話だな」

「はい。残酷ですが、それもこの世の“(ことわり)”の一つ」

 宗田は糸のような目を細め、わずかに微笑んだ。

「坊ちゃま。明日も学校へ行かれるのですね?」

「一応な」

「でしたら、その制服をなんとかいたしましょう。裂け目が獣的すぎます」

「獣的ってなんだよ」

 ラウスが笑うと、宗田もほんの少しだけ口角を上げた。


「宗田」

「はい」

「もしまた変身したら、怒る?」

「怒りません」宗田は穏やかに言った。「けれど、その代償は払っていただきます」

「代償って、なんだよ」

「変身してから考えましょう」


 ラウスは一瞬、宗田の目を見た。

 糸のような瞼の奥――そこに潜む、あの縦に細い瞳を思い出す。幼いころ、一度だけ見た。体が動かなくなり、息が止まった。


 ラウスは肩をすくめ、椅子にもたれた。

 外では、春の夜風が庭の桜を揺らしていた。

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