15.獣の王
――静寂。
鴉の放った大技「黒天封陣」の暴風がようやく消え、粉塵が漂う。床は抉れ、壁は焼け、空気が焦げている。
「……終わっちまった、のか」
岩尾が絶望的に呻く。
「ラウス……?」
ルルの声は震えていた。返事はない。煙が漂い、光が歪む。
そのとき。
低く、鈍い音が地の底から響いた。
――ドン。
誰かが、立ち上がる音。
――ドン……ドン……。
それは鼓動のようでもあり、地鳴りのようでもあった。
粉塵の向こうで、巨大な何かがうごめいた。
ひとつ、息を吸う音。
次の瞬間、冷気が爆ぜた。
煙を裂いて、その何かが立っていた。黒ではない、焦げた茶。けれどその毛は血と煤で濡れ、闇よりも濃かった。
金色の目が、闇の中でひらく。光を反射して、獣の瞳孔が縦に揺らめいた。
息が漏れるたびに、霧が立ち上る。歯が、鋭く長く伸びている。爪は地をえぐり、コンクリートがひび割れた。
それはもはや人間ではなかった。獣人でもない。
「ヒグマ」だった。
「……ラ、ウス……?」
ルルが呟く。返事の代わりに、低い息が漏れた。その目が、ゆっくりと彼女の方を向いた。
一瞬だけ、ヒグマの瞳に確かに光が揺れた。理性――。だが次の瞬間、それは荒ぶる咆哮にかき消された。
――ガアアアアアアアアアアアッッ!!!
耳をつんざく咆哮。空気が爆ぜ、照明が一斉に砕けた。割れたガラスが光を反射して宙に舞う。広間の温度が一気に下がり、白い息が渦を巻く。
岩尾が息を呑む。「な、なんだよ……これ……!」
ヒグマが、一歩踏み出した。その重みだけで、床がめり込んだ。
「黒天封陣を受けて……生きているだと……?」
鴉の声がわずかに震えた。ヒグマの黄金の瞳が、ゆっくりと彼に向く。
次の瞬間、獣が跳んだ。空気が破裂した。
鴉の翼が防御をとるより早く、拳が突き刺さった。鈍い衝撃音。壁がひしゃげ、天井が落ちた。
「ぐっ……がはっ!」
鴉の口から血が吹き出した。
ヒグマは止まらない。巨腕を振るい、瓦礫を蹴散らす。羽を散らし、牙をむき、闇そのもののように襲いかかる。
鴉の反撃の羽刃が何枚も突き刺さる。だが、ヒグマはまるで痛みを感じていない。血が滲み、肉が裂けても、すぐに閉じていく。
ヒグマが天を仰いだ。
「グォォォ……ガアアアアアアッ!!!」
咆哮が広間を満たし、黒い羽根が吹き散る。ついに、ヒグマの掌が鴉の胸を打ち抜いた。
黒い羽が千切れ、宙に舞う。衝撃で鴉の体が吹き飛び、床を何度も転がった。
「……っ……!」
羽を支えに起き上がろうとする。だが、脚が動かない。翼も、力を失っていた。
黄金の瞳が、真上から覗きこむ。ヒグマが低く唸り、吐息に熱が混じる。
鴉の赤い瞳がゆらめいた。ほんの一瞬、そこに“恐れ”が宿る。
「……完敗だ」
鴉の口から、その言葉が漏れた。
ヒグマの影が大きく揺れる。咆哮が響いた。黒い羽が、風に舞いながら落ちていく。
そして――鴉は、静かに床へと崩れ落ちた。その背の翼がばさりと開き、力なく、沈黙した。
「理を……超えている……これは……」
アルゴスの義眼が、狂ったように点滅する。
「測定不能。定義外の存在――」
ヒグマが振り返った。その目がアルゴスをとらえる。静かに、一歩。――地が沈んだ。
「やめ……」
アルゴスの言葉が終わる前に、ヒグマの掌が彼を掴み上げていた。
金属の軋み。義眼が悲鳴のように光る。
ヒグマがそのまま床に叩きつける。金属の体が凹み、火花が散った。
「これが、獣。これが、ヒグマ。これが……ラウス」
岩尾が呆然とつぶやく。宗田がゆっくりと立ち上がり、震える声で言った。
「……坊ちゃま。立派になられて……ええ、本当に……恐ろしいほどに」
「ラウス!」ルルが叫ぶ。
だが、彼の耳にはもう届いていない。
琥珀の瞳の奥で、光がゆらぐ。理性と本能の境界が、崩れていく。
咆哮。天井が割れた。熱風が広がり、コンクリートの壁が波打つ。瓦礫の中で、ルルがひとり震えながら立ち上がる。
「あれ、どうやったら収まるんっすか?」
岩尾の声に焦燥が混じる。
「制御はまだ……できていないようですね。止められるのは…… 」宗田が口ごもりルルを見る。
「だめ!」
ルルが駆け寄り、両手で宝珠を掲げる。
「お願い、ラウス! 帰ってきて!」
宝珠が強く光る。青い波紋が走り、空気が水に変わる。
ヒグマの毛並みに、その光が絡みつく。
きらり。きらり。きらり。
暴れる腕が、少しずつ鈍くなっていく。
だが、まだ止まらない。
巨体がうなり、地面を砕き、怒りとも苦しみともつかぬ声が漏れた。
「グゥゥゥゥ……ガァァ……!」
青い光がヒグマの身体を覆う。
光は鱗のようにひとつひとつ、毛のあいだから染み込み、
そのたびに、血と煤が洗われていく。
「ラウス……!」
ルルの声が震える。
その声に応えるように、ヒグマの動きが一瞬止まった。
目の奥に、黄金の火がちらつく。
荒ぶる瞳孔の奥で、わずかに人の色が戻りかけて――また消える。
「戻って……! あなたは人を傷つけるひとじゃない!」
ルルが泣き声で叫ぶ。
宝珠の光がさらに強くなった。波紋が重なり、青い水の膜が広間を満たす。
その中で、ヒグマがゆっくりと膝を折った。呻き声が低く漏れ、爪が床を削る。巨大な体が、苦しげに震える。
ルルが駆け寄り、光の中でその頭を抱いた。
「ラウス……もう、いいの。帰ってきて……」
長い沈黙。
――そのとき、ヒグマの胸から、かすかに声が漏れた。
「……ルル……」
青い光が弾けた。
毛並みが波のようにほどけ、光の粒が宙を舞う。骨がきしみ、筋肉が縮み、闇の衣が剥がれ落ちていく。腕が、指が、顔が――人の形を取り戻していく。
最後に、光が胸のあたりでふっと脈打った。その拍動とともに、ヒグマの巨体は完全に消え、そこに残ったのは、荒い息をつく少年――ラウスだった。
ラウスは荒い息をしながら、かすかに笑った。
「……ただいま」
ルルが涙の粒を頬に残したまま笑顔で言う。
「おかえりなさい。ラウス。おかえりなさい! 」
「ふう」岩尾が汗を拭いて座りこむ。「ちょっと、いやだいぶ焦った」
宗田も力を抜く。
「ちゃんと理性の手綱があって助かりました」
ヒグマの咆哮が消え、世界が音を失った。やがて、瓦礫の隙間から光が差しこんだ。夜明けの優しい色。
青龍の宝珠が、二人の間でやさしく輝いていた。




