14.黒天封陣
――水の中にいた。
深く、静かで、青い世界。音もなく、光だけがゆらめいている。冷たいはずなのに、なぜかあたたかい。その光が、胸の奥をやさしく包みこむ。
(ここは……どこだ)
自分の体が、溶けていくように軽い。耳の奥で、遠く波のような声がした。
――「獣の子よ。なぜ立ち上がる」
(……立ち上がらなきゃ、守れねぇ。ルルも、仲間も )
声は静かに笑った。 ――「血にあらず、意志で選ぶか」
(そうだ。俺は青龍の子じゃない。でも、ルルは俺のつがいだ )
青い光が形を変える。龍――巨大な龍の影が、水の向こうにゆらめいた。ゆったりと、湖の底を泳ぐように。その鱗が、宝珠と同じ光を放つ。
――「ならば、我が水を貸そう。行け」
光が弾けた。世界が反転し、胸が焼けるように熱を帯びた。
――とくん。
心臓が、再び動き出した。
ラウスは大きく息を吸い込み、目を開いた。視界がゆらぎ、青い光が天井を照らしている。頬に、ルルの涙が落ちた。
「……ルル」
彼女は声も出せず、ただ首を振った。安堵と涙でぐしゃぐしゃになった顔が、やけに眩しい。 その手には、青龍の宝珠が握られている。宝珠はルルの手の中で、ゆっくりと脈を打っていた。
そのとき。何かが動く音。
アルゴスがゆっくりと立ち上がっていた。義眼が再び淡く光り、冷たい声がこぼれる。
「宝珠、そして青龍の血を引く人魚。その力、やはり手に入れなくてはなりませんね」
そして、麻痺の解けた鴉――神野レイガが、静かに翼を広げた。床をかすめる風が、鋭く吹き抜ける。
ラウスは歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がった。血に濡れた床が軋む。
「先生だろうが、EOだろうが……もう誰にも、ルルは渡さねぇ」
拳を握る。
その声に応えるように、ルルの手の中の宝珠が再び光った。青龍の光がラウスの背を照らし、影が大きく伸びる。
再び、風が鳴った。
黒い翼と、琥珀の瞳がぶつかり合う。
黒い羽根が刃のように舞う。ラウスが拳を振るい、岩が砕ける。だが鴉の姿はもうそこにはいない。
「速ぇ……やっぱり、こいつ……!」
跳び退いたラウスの肩を、黒い風がかすめた。血が散る。
空中で舞う鴉の姿は、まるで夜そのものだった。銀のメッシュをはらむ黒髪が風に流れ、冷たい目がラウスを射抜く。理性の炎だけがそこにある。
「なぜ……倒れない」
鴉の唇が小さく動く。
「致命傷を負いながら、なぜ立てる」
「理屈じゃねぇよ!」
ラウスが吠える。
「立たなきゃ、誰がルルを守るんだ!」
拳と翼がぶつかる。衝撃波が広間の壁を割り、光が飛び散る。
そのすぐ脇で、岩尾がアルゴスとやり合っていた。義眼が眩く光り、金属の腕が振り下ろされる。岩尾がかわし、腹に一撃を叩き込む。
「おまえもしぶといんだよ!」
もう一発。拳がアルゴスの顎を跳ね上げた。
「感情が無いとか言っといて、けっこう痛そうじゃねぇか!」
「……人間、理解不能」アルゴスが電子音を混じらせて呻く。
少し離れた場所で、宗田がルルの手当てをしていた。ルルの額を見て、静かに眉をひそめる。
「乙女の額にけがなど、あってはなりません」
丁寧にハンカチで額を押さえながら、やわらかい声で続ける。
「大丈夫です。坊ちゃまは、必ず戻ってきますから」
ルルは涙をこらえて頷いた。
鴉の動きが一瞬だけ止まった。その光景が目に入ったのだ。傷つきながら、互いを庇い、必死に繋がろうとする者たち。
(なぜ……)
(なぜそこまで――)
「こいつらは……なんのために戦っている?」
鴉は低く呟いた。
「そして俺は……なにを、守っている?」
一瞬、翼が揺らいだ。そのわずかな迷いを突いて、ラウスが懐に飛び込む。
「うおおおッ!!!」
拳が唸りを上げ、黒い羽根を吹き飛ばす。だが鴉も咄嗟に反撃し、両者が激突した。
風が荒れ狂う。光が反射し、天井の水滴が輝く。
「――終わらせる!」
鴉の目が再び赤く燃えた。翼を大きく広げ、掌を組む。周囲の空気が軋む。
「先生、やめ――!」
岩尾の声がかき消える。
黒い羽根が空間を裂き、渦が生まれた。空気が吸いこまれるように、全ての光が中央に集まる。神野が放つ――必殺の一撃。
「黒天封陣」
轟音。
瞬間、天井の梁がひしゃげ、闇そのものが形を得た。何千枚という羽根が同心円状に広がり、夜空を逆さにしたような黒い結界をつくる。
羽根の一枚一枚が符のように輝き、古代の呪式が浮かび上がる。
「封・断・滅」――低く鳴る声が空間を貫き、光そのものが押し潰された。
真空が生まれ、床の石が音もなく砕ける。空気は逆流し、広間全体が吸いこまれるように歪む。
岩尾が地面に手を突く。「重てぇっ……!」
宗田の髪が真上に引かれる。
「これは風ではありません……“空間の圧縮”です!」
中央に浮かぶ鴉の姿が、まるで黒い太陽だった。その周囲を、炎と氷の双渦が絡み合うように回転している。
「黒の天、命を封ず」
鴉の声が呪のように響く。翼が重なり合い、黒い光が一点に凝縮される――。その狙う先にはラウスの姿があった。
宗田が顔を上げた。「いけません、坊ちゃま!」
岩尾が叫ぶ。「逃げろラウス!!」
だが、ラウスはその場から動かなかった。
(俺が受けなきゃ――)
風が爆ぜる。黒と青が交錯した。




