10.転がる。宝珠も、俺たちも。
夜明けの湖畔は静まり返っていた。風もなく、水面は鏡のように青い。ラウスは拳の中の蒼玉を見つめた。青龍の宝珠が淡く光る。
「この宝珠を……どうすりゃ、ルルを取り戻せるんだ」
手の中の光はぬるいほどに温かく、まるで心臓の鼓動と共鳴している。宗田が静かに言う。
「さらっていった者たちからの接触を待つしかありませんね」
「だよなあ。せっかく手に入れたのに、次の一手がわからん」岩尾もため息をつく。
「待つのか。待つのは苦手だ」とラウス。
「むやみに動いてもよいことになりません。時を待つ、それもまた大切なことです」
「性に合わないんだよなぁ」ラウスは草の上に寝転がった。
「今は辛抱です。朝食の用意を確認してまいります」
宗田は穏やかに一礼し、湖畔の車へと向かった。
残されたラウスは明け方の空を見つめた。
「……ルル、どこにいるんだよ」
ルルの可愛らしい笑顔を思い出す。胸の奥が焼けるように痛い。愛しさと焦りが入り混じり、血が熱を帯びていく。
そのとき、宝珠の青い光が、ふいに強く瞬いた。ラウスの胸の鼓動と共鳴するように、眩しい光が弾ける。
「な、なんだこれ……!」
視界が白く染まり、体が急に軽くなる。
――もふっ。
「……」
岩尾が呆然とした声を出す。
「おい……ラウス、いったい……」
そこにいたのは、ちょこんと立つ茶色いテディベアだった。
「や、やっべぇ……今じゃねえのに!!!」
ラウスの小さな声が上ずる。
「落ち着け。深呼吸しろ」岩尾が自分も焦った声音で言いながら、ぬいぐるみラウスを持ち上げる。
「やべぇやべぇ!宝珠が――!」ラウスが叫ぶ。
――ぽとん。
転がった宝珠を、すっと横から人影がさらっていった。
「――!」岩尾が息を呑む。「誰かいる!」
木々の間を、花柄シャツ、のっぽ、サングラス――あの三人組が走り去る。
「てめえらぁぁぁああ!!」
ぬいぐるみラウスの声が悲鳴のように響いた。
「追え!」ラウスが叫ぶ。
「わ、わかった!」岩尾がぬいぐるみを放り投げて走る。
「置いてくなぁぁぁ!!!」
戻ってきた宗田がぬいぐるみを片手で拾い上げ、軽やかに走り出す。森を抜け、湖岸を駆ける。先行する三人は、トラックの荷台に飛び乗り、ライフルを構えていた。
「動くなぁ!」
パンッ。弾丸が岩を砕き、火花が散る。宗田が咄嗟にぬいぐるみを庇って伏せる。
「ラウス坊ちゃま、撃たれます!」
「うるせぇ!このままじゃ、ルルも先生も――!」
「失礼します! 」
宗田がすっと正座し、ぬいぐるみの前に座る。真剣な表情で、両手をそっと伸ばした。
「岩尾さん、よくご覧になって覚えてください。こうです」
ぷに、ぷに。
宗田の指が、テディの肉球をリズミカルに押す。
「……なにしてんすか」岩尾が唖然とする。
「状態復帰です」宗田は動じない。テンポを少しずつ速め、指の腹で肉球をもみ込む。
「ちょっと気持ちよさそうですね」
――その瞬間。
ぬいぐるみの体がぐらりと揺れた。毛皮の下から光が漏れ、背骨が音を立てて伸びる。
「さすがうまい! 宗田、サンキュー! 」
毛皮が裂け、光が爆ぜた。
――ヒグマ獣人。
宗田が冷静に眼鏡を押し上げる。
「変身まで、完了です」
岩尾が絶叫した。「マジかよぉぉぉぉ!!」
夜明けの光が背に差し込み、ラウスの影が大地を裂いた。
「うおおおおおおおッ!!」
咆哮とともに、地面が震える。トラックの荷台に飛び込み、拳を叩き込む。銃が砕け、花柄シャツが宙を舞う。
「ひぃぃぃっ!」
のっぽが逃げようとした瞬間、岩尾の回し蹴りが炸裂した。
「格闘部をなめんなッ!!」
最後の一人を掴み上げ、ラウスが低く唸る。
「ルルをどこへやった」
「ま、待て! 俺たちは、さらってねえ!」
「はあ!?」
「青龍の宝を横取りしようとしただけだ! 本命は別にいる! 黒幕が! 」
「別……?」ラウスの拳が止まる。
「おまえら、まだ知らねえのか? “あの教師”、一緒なんだろ? 」
「神野先生がどうしたって? 」ラウスが問う。
「黒幕一味だよ。神野レイガ! 」
*
暗い部屋。ルルはひとり、椅子に縛られ、震えていた。
扉が音もなく開き、神野が入ってくる。その背後には、白いスーツの男がいた。右目は白い義眼。光を反射せず、ただ情報を吸い込むように沈んでいる。感情の欠片もない微笑みを浮かべ、ルルを見下ろした。
「せ、先生……無事だったのですね」
ルルが神野の姿を見てほっとした声を出す。だが神野はうつむいたまま答えない。
白いスーツの男が、抑揚のない声で言った。
「――鴉。よくやりましたね」
その義眼が、神野に向けられる。
「本部への転送は完了しました。青龍の宝珠の座標、確認済みです」
白い義眼が淡く明滅している。
神野は何も答えない。
「え……先生? どういうこと……?」
ルルの頬から血の気が引く。
神野がゆっくりと顔をあげた。黒髪に銀のメッシュが揺れる。
その瞳には、もう優しさのかけらもなかった。
*
「嘘つくな!」岩尾が怒鳴る。
「嘘じゃねえ! おまえたちの居場所を知らせたのは、あの神野だ!」
ラウスは動きを止めた。
「神野レイガ……」宗田が呟く。「まさか――」
風が止んだ。湖面がひどく静かに見える。花柄シャツが息を荒げながら言った。
「人魚を泡にしたのだって神野だ。俺たちに利用される前に、殺したんだよ」
「なに……?」 ラウスの拳が震える。
「どうしても宝珠が欲しいんだろうよ。お前たちも俺たちもあいつらの駒だ」
「幾重にも張られた包囲の網」宗田が言う「わたしたちは、手のひらの上で転がされていたのですね」
「そうだよ。あいつらの欲しいものは宝珠だ、人魚じゃない。きっとまた、泡にされるぜ」
言葉もなく立ち尽くすラウスの手の中で、取り返した宝珠の光が、痛いほど脈打っていた。




