第6話 天の釣り場
眩しいほどの青が、無限に広がっていた。
地上から見れば空。だが、神族にとっては“海”だ。
リュシアは桟橋の上に立ち、淡く光る竿を手にしていた。
その横で、透明な帳のようなものが風に揺れる。
帳の向こうには、地上の湖――あの少年が見えている。
「引きが強い……っ」
手の中の竿が震える。
“魂の糸”が地上に垂れ、何かを釣り上げようとしている。
リュシアの頬を、冷たい風がなでた。
湖面の向こうで、少年が必死に竿を押さえている。
目を細めると、その顔がはっきりと見えた。
黒髪の少年。
年の頃は、自分と同じくらい。
……いや、あの顔は――。
胸の奥がざらりと波打つ。
すぐに首を振り、感情を切り離した。
「対象、確保範囲。捕獲まであと三秒――」
彼女の声が冷たく響く。
しかし、次の瞬間。
――糸が、弾かれた。
眩い光が散り、リュシアの手の中で竿が震える。
糸の先がぷつりと切れ、光が霧散した。
「……っ、何?」
目を凝らすと、地上で少年が膝をついていた。
手にしていた竿は折れかけ、息を切らしている。
けれど――まだ“見ている”。
あの子は、光の糸を。
「まさか……見えている?」
信じられない。
地上の人間が“天の糸”を視認できるはずがない。
だが、あの目は確かに――こちらを見ていた。
背筋が冷える。
リュシアは糸巻きを押さえ、空気を震わせた。
「リュシア、失敗したのぉ?」
背後から、主任の声がした。
優しい声音とは裏腹に、眼鏡の奥のその瞳は、笑っていない。
「すみません。対象の反応が想定外で……」
「想定外ねぇ。……あの子、何か“見えてる”ようだったねぇ」
「やはり……」
セラフォードは顎に指を当て、少し考え込む。
「面白いねぇ。普通の人間なら、光を見るどころか、糸に触れる前に魂が抜けるのに」
「……どうしますか」
「とりあえず、生け簀に空きを。確認が必要だねぇ。釣り上げるまで、もう一度チャンスを与えるよ」
そう言って、セラフォードは振り返らずに歩き去った。
白い光が彼の足跡に残り、空の中に溶けていく。
リュシアは黙って竿を見下ろした。
まだ、少年の体温のようなものが伝わってくる。
透明な海の底に視線を落とす。
次こそは、と心の奥で小さく呟きながら。




