第5話 湖に落ちる光
母がいなくなって、どれくらい経ったんだろう。
日付なんて、もう数えていない。
村の人はみんな優しかったけど、声をかけてくるのは決まってひとり――マルタだけだ。
年の近い少女で、どこか不思議な雰囲気をまとっている。
小さな湖の桟橋に荷を下ろし、父の形見のフライロッドを構える。
リールの金属部分が冷たくて、指先に秋の気配がしみた。
静寂の中、湖面がふっと揺れる。
フライが沈み、薄い波紋を残して消えた。
――コツン。
ほんの小さなアタリ。
すぐに竿を立てる。だが、重い。まるで根掛かり。
ラインがギシギシと音を立て、ロッドが弓なりにしなる。
「……なんだ、これ……!」
力任せに引いても、びくともしない。
魚じゃない。
動き方が違う。
底に引きずり込まれる感じでもない。
――逆だ。
引っ張られている。上へ。
頭の上の空から、何かに。
ぞくりと背筋が粟立つ。
視界の端で、細い“糸”のような光が見えた。
空の方から、湖の水面へまっすぐに伸びている。
風でも光の反射でもない。
確かにそこに“線”があった。
その先が、俺の竿につながっている。
「……え?」
心臓が早鐘を打つ。
焦ってラインを持つ手に力を入れるが、止まらない。
地面に余っていたラインが無くなり、スプールが見たことのない速さで回転し、
ラインがどんどん引き出されていく。
やばい。切れる――!
その瞬間、足元の桟橋が軋んだ。
まるで自分が“釣られている”ような感覚。
体が浮く。竿ごと、上へ――
「っ、やめろ!」
咄嗟に叫んで、桟橋の縁を掴み、体を押し下げる。
足の裏がぎりぎりで木の板を踏みとどまった。
視界の上、光の糸が一瞬だけ震える。
次の瞬間、糸は――ぷつん、と消えた。
風が止む。
リールは、さっきまで、けたたましい音を響かせていたのを恥ずかしがるように黙った。
湖面に浮かぶラインが揺れている。
息を吸うのを忘れていたことに気づく。
胸が痛いほど脈打って、手が震えている。
――見えたんだ。あの”糸”。
母が消えた日の、あの光と同じ。
「また……来たのか」
呟いた声は、水面に吸い込まれていった。
光も、波紋も、すべて嘘のように静まり返る。
空だけが、やけに青かった。




