第4話 静かな村にて
母を失ってから、レンの日々は静かに淀んでいった。
誰もが彼を気の毒そうに見た。けれど、その視線が長く続くことはなかった。
「かわいそうな子」と口にした次の瞬間には、彼らは畑を耕し、祭りの準備をし、日常に戻っていく。
レンの世界だけが取り残されていた。
朝の風が吹く。
あの日と同じ、草の匂い。
手を伸ばせば、そこに母の声があるような気がして、
レンは何度も空を仰いだ。
けれど、返ってくるのは無音の空ばかり。
そんな日々の中──マルタが声をかけてきたのは、ちょうど空の色が変わり始めた夕暮れだった。
「レン、湖に行ってたの?」
振り向くと、麦わら帽子を片手に持った少女が立っていた。
肩までの栗色の髪が風に揺れ、陽を反射して金糸のように光る。
「……ああ。久しぶりにね。別に、釣るつもりじゃなかったけど」
「そう言う人に限って、竿を握ると真剣になるのよ」
マルタは小さく笑いながら、レンの手元を見た。
泥のついた釣竿、乾きかけた針。
本当は彼がいまだに“あの場所”に通っていることを、彼女は知っていた。
「おばさん……きっと、戻ってくるよ」
その言葉は、風のように柔らかかった。
けれど、レンは一瞬だけ肩を強張らせる。
「……どうだろ」
「…」
マルタはそれ以上は言わなかった。
ただ、しゃがみ込んで草をむしり、指先で香草をひねった。
ハーブの香りが広がる。
母がよく摘んでいた匂い。
「ねぇ、レン。あたしね、時々空を見てると、何かに引っ張られる気がするの」
「空に?」
「うん。風じゃないのよ。目には見えないけど、上の方で何かが動いてるみたいで」
レンは少し眉をひそめる。
マルタの声には、いつも少し現実離れした響きがあった。
けれど、不思議とそれが心地よかった。
「……俺は、もう空なんか見たくない」
「そう言うと思った」
マルタは立ち上がり、帽子をかぶる。
「でも、見上げなきゃ見えないものもあるよ」
レンが返事をする前に、彼女は笑って背を向けた。
その横顔が、どこか母に似て見えた。
胸の奥がざらつくように痛む。
彼女の言葉が、心の奥で静かに響き続けた。
⸻
夜の風が、乾いた草を揺らしていた。
村の外れ、レンの小さな家。母の姿を失ってからというもの、灯の入る時間はめっきり減った。
だが今夜だけは、淡いオレンジの光が窓の奥で瞬いている。
テーブルの上、釣りの道具が散らばっていた。
レンは黙々と、糸を結び直していた。
何度も指先でノットのこぶを確認しては、少しだけ首をかしげる。
幼いころ、父が教えてくれた手順を何となく真似ているだけだ。
母がいなくなってから、父の面影を思い出すことも増えた。
顔はほとんど覚えていない。
けれど――手の動き、声の調子、釣り竿を扱うときの癖だけは、不思議と残っている。
指先に小さな棘が刺さった。
レンは思わず顔をしかめ、血を舐める。
金属の味。
その瞬間、ふと、胸の奥にあの日の光景が蘇った。
母が手を上げたまま、空に引かれて消えていった。
何も掴めず、ただ風の音だけが耳に残った。
それ以来、空が嫌いになった。
なのに、気づけばいつも――空を見上げている。
「まだ起きてたの?」
やわらかな声が背中にかかった。
振り返ると、窓の外にマルタが立っていた。
ランプを手にしていて、光が彼女の頬を金色に染めていた。
下ろした前髪の影からのぞく瞳は、相変わらず穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。
「……あぁ」
「また釣り道具いじってるのね」
「準備が大切だから」
「ほんと、好きよね。釣り」
マルタは小さく笑った。
その笑みが、レンには眩しすぎた。
誰ももう、この家に近づこうとしない。
“神隠しの家”と呼ばれ、村の子どもたちからは避けられている。
けれどマルタだけは、いつもふらりと現れて、何も言わずに隣に立ってくれた。
「マルタは……怖くないの?」
「何が?」
「この家。俺のことも。母さんが消えたのも、全部――変だって」
「変だけど、怖くはないわ。……不思議なだけ」
彼女は庭の方を見た。
草むらの向こう、夜空が広がっている。
満天の星。その中を、ひとすじの光がゆっくりと流れた。
流星のように見えたが、レンは無意識に息を呑んだ。
どこか――嫌な既視感。
あの日の“引かれていく光”に、似ていた。
「空って、怖いよな……」
ぽつりと漏らした言葉に、マルタが顔を向ける。
「でも、綺麗でもあるわ」
「……綺麗?」
「うん。たとえば、どんなに暗い夜でも、星は消えないでしょ? だから、私は見上げちゃうの。怖くても、つい」
レンは何も言えなかった。
彼女の声は小さく、それでいて温かい。
冷えた胸の奥に、微かな灯がともる。
どんなに掴もうとしても届かない光――でも、手を伸ばしたいと思える光。
母の消えた空の向こうに、まだ何かがある気がした。
「ありがとう、マルタ」
「え?」
「なんか、ちょっとだけ……息ができた気がする」
「そっか。じゃあ、明日は少し寝坊してもいいね」
そう言って、マルタは笑った。
夜風が、彼女の髪を撫でていく。
ランプの光が遠ざかるにつれて、レンの胸にぽつんと空洞が残った。
それでも――不思議と、もう泣きそうにはならなかった。
彼は、手元の釣り竿を見つめる。
修理しかけのリールが、かすかに光を反射した。
握る手に、ほんの少しだけ力がこもる。




