第3話 空からの視線
白い光が、果てしない天空を満たしていた。
その中央に浮かぶ都市〈エリュシオン〉は、まるで雲の上に彫られた彫刻のようだった。透明な結晶でできた塔が幾重にも伸び、空を渡る風が奏でる音が、都市全体を包む調べとなる。
神族――。
彼らはこの場所で、人間たちの“行い”を観測し、時に“回収”する存在。
その目的を問う者は誰もいない。ただ「そうすることが秩序だ」と教えられてきたからだ。
リュシア・フェインは、観測塔のバルコニーで足を組み、下界を見下ろしていた。
長い銀髪が風に流れ、金の瞳が微かに光を反射する。その姿はまるで機械仕掛けの天使――美しさに一片の温度もない。
「対象群、第二層北東部の行動。変化なし。」
背後で同僚が報告する声が響く。
「了解。釣果報告は上層へ提出して」
「了解しました、リュシア上官」
淡々と応じる彼女の声音に、感情はなかった。
“上官”――それが今の彼女の立場。訓練生だった頃から彼女は成績で抜きん出ていた。感情の制御、観測精度、ルアー制御技術、どれも完璧だった。
だからこそ、上層の神々は言った。
「お前は優秀だ、リュシア。だが、優しすぎる」
それが彼女の唯一の“欠点”とされた。
バルコニーの端、透明な床の向こうには、青く霞む大地が見える。
リュシアは無意識に視線を落とした。
そこには、ひとつの村。小さく、素朴で、静かな場所。
その川辺で――少年が竿を振っていた。
その姿を見た瞬間、リュシアの胸に何かが刺さったような感覚が走る。
風に髪を揺らし、真剣な眼差しで水面を見つめる少年。
筋肉の動き、呼吸のリズム、そして……あの手つき。
――釣り、だ。
だが、なぜだろう。
胸の奥が、痛む。
記録を呼び出す。視覚情報を検索する。
以前、彼女が“回収”した人間の映像が一瞬、脳裏をかすめた。
女性。穏やかな微笑。血の香り。手に刺さったルアー。
――あの時の……。
瞬間、リュシアは自分の手を見つめた。
針を放ったのは、自分だ。
命令だった。何の迷いもなく、完璧に遂行した。
それなのに、今、胸の奥で響くこの痛みは――?
「リュシア上官?」
背後の声に我に返る。
「……問題ない。観測を続けて」
冷たく答え、再び視線を下げた。
少年は竿を構え直し、陽に焼けた頬をしかめながらも笑っていた。
その笑顔が、どこか懐かしく感じた。
――何を、思い出しているの。
心の声を自分に問いかける。
でも答えは出ない。
そんなリュシアの背後で、扉が開いた。
滑るように入ってきたのは、白衣をまとった年長の神族――観測局の主任、セラフォードだった。
「おや、リュシア。まだ下層を覗いていたのか」
「はい。ルアー投下区域の再調整を確認していました」
「真面目だな。それはそうと…下層の群体管理は間もなく“漁獲期”に入る」
リュシアの瞳がわずかに動く。
「漁獲期……ですか」
「そうだ。あの村にも対象がいる。おそらく、先に回収したあの女の――息子だろう」
その言葉に、リュシアの手が一瞬、止まった。
「どうしますか。対象はまだ幼いようですが」
「食用か、あるいは工業用か…あるいは……」
セラフォードは顎を撫で、冷淡に笑う。
「とりあえず釣れたら生簀に入れておいてくれる?」
軽い調子で言い放たれたその言葉が、胸をえぐった。
生簀――。
それは神族の管理する“養殖場”。
釣られた人間たちが浮遊球体の中に閉じ込められ、次の段階の“加工”を待つ場所。
誰も逃げられず、誰も帰れない。
リュシアは微かに唇を動かした。
「……了解しました」
その声には、もう感情がなかった。
けれど、彼女の心の奥では、確かに何かが揺れていた。
――どうして、あの笑顔を見てしまったのだろう。
――なぜ、痛む。
雲の上の風が吹き抜ける。
透明な塔の影が、ゆっくりと大地を覆う。
その下で、少年はまだ空を見上げていた。
彼は知らない。
その空の向こうで、彼を“見ている者”がいることを。
そして、その視線が、少しずつ温度を取り戻しつつあることを。




