第28話 帰潮
――静寂だった。
耳を裂いていた光の轟音は、もうどこにもない。
ただ、波の音だけが遠くから響いていた。
レンはゆっくりと目を開いた。
空があった。
だが、それはかつての“天界の空”ではない。
どこまでも広く、どこまでも青く――風が吹き抜ける、地上の空だった。
腕の中にはリュシアの姿がある。
「……リュシア」
リュシアがうっすらと目を開ける。
彼女の瞳からは、もはや神の光は消えていた。
ただ、人間の少女のような、弱くて温かい光があった。
「もう……神族としての力は残ってないわ」
「構わない。生きててくれればそれでいい」
レンはそう言って、額を寄せる。
そして二人はしばらく抱き合った。
すぐそばで、マルタが倒れている。
血まみれだが、生きている。
そして、少し離れた場所――
崩れた白の塔の残骸の上に、氷堂が立っていた。
「生きてたか、坊主」
声が少し掠れている。
「……なんとか、ね」
「フッ、空ごと落ちてきて“なんとか”か」
レンは小さく笑う。
空を見上げると、そこにはもはや“光の網”はなかった。
青い空の中に、淡い糸の欠片が漂い、溶けて消えていく。
やがて目を覚ましたマルタが言った。
「……沙耶さんは?」
マルタの問いに、レンは首を振る。
「……届かなかった」
その言葉に、風が静かに吹き抜けた。
リュシアがかすかに呟く。
「でも……まだ繋がってる。〈空の向こう〉は完全には閉じていない……あなたの糸が、道を残したの」
レンは拳を握りしめた。
胸の中の光の糸が、かすかに脈を打つ。
「いつか……必ず、行く」
「ええ……その時は、わたしも一緒に」
リュシアは弱く微笑んだ。
その笑みは、もう神のものではなかった。
ただ“人間の少女”としての微笑みだった。
レンは空を見上げる。
彼の瞳には、もう迷いはない。
母を救うための新たな旅路へ。
風が吹く。青い糸がふわりと揺れ、空の彼方に伸びていった。まるで空の向こうと、この海を繋ぎ直すように。
空と海が溶け合う水平線の先。そこに新しい光が生まれつつあった。




