第24話 空を裂く糸
塔の天井が崩れたあと、残ったのは灰と静寂だけだった。
空気はまだ震え、焼けた石の匂いが漂っている。
宙を漂う光の粒――まるで、誰かの息の残り香のように揺らめいては消えていった。
レンはその光を見つめていた。
糸を切った感覚が、まだ指先に残っている。
何かを失い、同時に何かを掴んだような、不思議な感覚だった。
「……今の声、父さんのだ」
かすれた声に、隣のリュシアが目を閉じる。
「レオニス・カミナギ――あなたの父。
彼は“空の釣り人”と呼ばれた人間だった」
その名を聞いた瞬間、レンの胸が強く跳ねた。
忘れようとしていた記憶がざわめき出す。
海風の匂い、太陽の光、そして父の背中。
「父さんが……神糸に触れたっていうのか?」
「ええ。
彼は神々に選ばれた“最初の釣り人”だった。
でも、神の糸を“斬ろう”とした。
それが、禁忌だったの」
リュシアの声は静かだった。
けれど、微かに震えていた。
彼女自身の罪を思い出しているように。
「レオニスは戦ったわけじゃない。
ただ、守ろうとしたの。
“釣られた”魂たちを、天へ奪われないように」
その言葉が、レンの胸に刺さる。
母を釣り上げたあの光景――あれは偶然じゃなかったのか。
リュシアが小さく息を吸う。
「……あなたの母、沙耶を釣り上げたのは、私」
塔の空気が一瞬で凍りついた。
レンはリュシアを見た。
表情が動かない。
けれど、拳が震えている。
「……知ってた。でも、聞きたくなかった」
「ごめんなさい。
あの時、私は……命令に、従うしかなかったの」
その目から、ひとすじの涙が落ちる。
それは、神であるはずの彼女が初めて流した“人の涙”だった。
レンは拳を握った。
怒りと哀しみが渦を巻く。
けれど、その奥で、なにかが変わり始めていた。
「母さんは、今も……あの空の向こうに?」
「ええ。
“釣られた者”たちは、神域の最奥――〈空の向こう〉に囚われている。
神でさえ踏み込めぬ場所。
……でも、あなたなら届くかもしれない」
「俺が……?」
リュシアは頷き、レンの右手――糸を放った指先をそっと撫でる。
「そのラインは、人と神の境界を越える唯一の“キャスト”。
あなたの父、レオニスが遺した最後の技――
“空裂の糸”」
レンの指先が熱を帯びる。
見えない糸が震え、どこか遠く、空の奥を探して張っていく。
彼は深く息を吸い込み、両手を広げた。
その構えは、まるでフライフィッシングのキャスト。
竿こそ握っていないが、体の動きは完璧なループを描いている。
右腕がしなり、左手が空を切る。
空気が唸り、見えないラインが弧を描いて舞い上がる。
前へ――後ろへ――そしてまた前へ。
糸は風を捉え、加速していく。
レンの頭の中に、父の声が蘇った。
――「ラインを感じろ。釣りは、風と語ることから始まる」
レンの指先が再び光を帯び、ループが光輪のように空を舞う。
やがてそれが一点に収束した。
――ピン、と。
乾いた音が空を裂いた。
リュシアが顔を上げる。
「……誰かが、ラインを掴んだ」
塔の外、崩れた天井の向こうで光が閃く。
黒い羽が舞い、百を超える影が降り注ぐ。
「黒翼部隊……神の処刑人たち!」
リュシアが剣を構え、マルタが刃を抜く。
「どうやら、空の向こうも“本気”みたいだな」
レンは唇を引き結び、右手のラインを握り直した。
風が吹く。
光の糸が舞い上がり、空中でループを描く。
レンはキャストの要領で、右手を振り抜いた。
「――空裂!」
光が奔流となり、無数のループが空を舞う。
その糸は黒翼の群れを次々に切り裂き、絡め取り、弾き飛ばしていく。
その一閃は、まるで神話の“雷”よりも速く、美しかった。
リュシアが息を呑む。
空を裂いたその軌跡――それは、まさしくレオニスの残した技。
だが、レンの動きには父にはない“しなり”があった。
力ではなく、想いが風を引き寄せ、糸を導く。
光のループが消えた後、空には一本の筋が残った。
天と地を繋ぐ“解き放ちの糸”。
レンはその糸を見上げ、静かに呟く。
「父さん、見ててくれ。
俺が、母さんを――この空を、釣り上げる」
風が止む。
そして――
夜空を裂くように、一本の光が走った。




