第22話 塔の底の訓練
白の塔の地下深く、
崩落を免れた一角に、古びた石室があった。
壁には淡く光る紋が刻まれ、かすかな魔力が空気を震わせている。
レンはその中央で、膝をついて糸を張っていた。
指先から放たれた光の糸が、床に刻まれた紋と共鳴して波打つ。
その様はまるで、水面に垂らしたラインが“アタリ”を伝える瞬間のようだった。
「――感じるか?」
氷堂の声が、石室に響く。
彼はレンの背後に立ち、両腕を組んだまま、冷ややかな目でその糸を見ていた。
白髪の隙間から覗く瞳は、湖面の氷のように透明だ。
「うん……確かに、何かが……」
レンは眉を寄せた。
糸の先――何かが引いている。だがそれは魚ではない。
もっと鈍く、重く、意志を持った“何か”。
「それが魂だ。地上を漂う残滓だな」
氷堂は言った。
「糸の震えで識るんだ。生き物か、死者か、怒りか、悲しみか。
すべては“波”で見分けられる。お前の釣りの勘が、そのまま武になる」
「釣りの勘、か……」
レンは口元を歪めた。
この世界でも、自分の手の中にある“糸”が生きている。
釣り竿の感触が、戦いの糸と重なり始める。
「でも、これ……引いちゃっていいのか?」
「引け。だが“合わせ”を焦るな」
氷堂の声に、レンは深く息を吸った。
糸の張りが増す。
見えない存在が抵抗している。
レンは右手を軽く引き上げ、まるでルアーを平打ちさせるように糸を揺らした。
――ビン、と高音が響いた。
床の紋が一瞬だけ閃き、影が飛び出す。
黒い霧のような亡者の姿。
それを見て、レンの体が勝手に動いた。
「今だ!」
氷堂の声と同時に、レンの手が弾かれる。
光の糸が瞬き、亡者の体を貫いた。
釣り糸を切るように、鋭く、一直線。
亡者が悲鳴を上げ、霧散する。
糸の震えが静まると同時に、部屋に静寂が戻った。
「……やった?」
「いや、半分だ」
氷堂が前に出る。
足元に残る黒い残滓を見下ろしながら、低く言った。
「今のは“外道”だ。狙うべき魂じゃない。
お前の糸が、まだ濁っている。迷いがある証拠だ」
レンは唇を噛んだ。
自分の糸が濁る――それは、心の迷いがそのまま形に現れるということ。
「……釣りも同じだな」
「何?」
「焦って合わせると、魚が逃げる。
でも迷ってたら、針を飲まれる。そしたら歯で擦れて糸が切れる。
結局、自分の感覚を磨いて信じていくしかない」
氷堂の眉がわずかに動いた。
そして、珍しく笑った。
「いい感覚だ。お前は糸で“世界を読む”ことを知っている。
釣りの手が、そのまま魂の技になるとはな……面白い」
その笑みは一瞬で消え、次の言葉が冷たく続く。
「だが、糸は両刃だ。
他人を釣り上げる力は、自分を絡め取る力でもある。
お前が誰かの魂に触れすぎれば、その者の痛みを背負うことになる」
レンは静かに頷いた。
そのとき――石室の入り口に、リュシアの足音が響いた。
「氷堂……もうやめて」
彼女の声は震えていた。
その手には、封印の印章が刻まれた光の札。
「天界からの再召喚命令。あなたも感じているでしょう?」
氷堂が眉を上げる。
そしてレンを一瞥した。
「……来たか」
「リュシア?」
レンが立ち上がると、リュシアは目を逸らした。
その瞳の奥に、言えない痛みが宿っている。
「行かないで」
思わず出たレンの声に、リュシアの肩が震えた。
「ごめん……でも、もう“釣り人”は私たちを見てる」
彼女の言葉が、石室の空気を凍らせた。
氷堂が静かに剣を抜く。
その刃が、わずかに光糸を切り裂いた。
「来るぞ。黒翼じゃない……今回は、上の直系だ」
レンの指先が再び震える。
糸が張り詰め、床の紋が脈打つ。
まるで水面に落ちた最初の波紋――大嵐の前触れのように。




