第2話 静寂の入り江
空へ消えた――あの日の光景を、レンはいまだに忘れられない。
朝の霧が薄れていく浜辺で、彼は釣り竿を構えていた。
潮の香りと、濡れた草の匂いが混ざる。風は穏やかで、まるで何事もなかったかのようだ。
――もう三年。
あの日、空へと消えた母の姿を見てから。
村では「神隠し」だとか「呪い」だとか、好き勝手な噂が立った。
誰も真実なんて知らない。
レン自身ですら、理解できていなかった。
けれど、ここへ来れば少しだけ呼吸ができた。
風が頬を撫で、波が岩を舐める音がする。
母がよく笑っていた“世界の音”が、まだここに残っている気がした。
竿を振る。
糸が弧を描き、光の粒を散らす。
水面にルアーが落ち、波紋が幾重にも広がっていった。
レンは無言のまま、浮かぶルアーを見つめる。
何も釣れなくとも、ただキャストしているだけで心が落ち着いた。
他に何も考えなくていい。この瞬間が今のレンをギリギリ保たせていた。
⸻
村に戻ると、視線が突き刺さる。
「まだ釣りなんかしてる」「あの子、ちょっとおかしいんじゃないの」
小声が風に混ざって届く。
レンは聞こえないふりをして通り過ぎた。
慣れてしまえば、痛みも鈍くなる。
ただ、時々――心の奥に小さな棘のような違和感が残る。
母の死を悼む声はもう誰からも聞こえない。
村にとって“沙耶”は、もう“いなかったこと”になっているのだ。
それでも、家に帰ると母の椅子を残したままにしていた。
食器棚の奥には、まだ一緒に使った箸が二膳。
夜になると、思わず「ただいま」と声をかけてしまう自分がいる。
⸻
「また釣り?」
柔らかな声が背中からかかった。
振り向くと、そこにマルタが立っていた。
肩までの栗色の髪を後ろで束ね、素朴な白い服を着ている。
年はレンより少し上――十六、七といったところか。
目尻が少し下がっていて、笑うといつも小動物みたいに見える。
「ご飯ちゃんと食べてる?夕ごはんうちで食べていきなよ」
マルタは籠を抱えながら、いつものように笑った。
「……悪い」
「別に。どうせおばあちゃんが多めに作るから」
マルタの家は村外れの丘にあって、薬草を育てて暮らしている。
母のサヤとも親しかった。
だから、マルタは時々こうしてレンを気にかけてくれる。
「ねえ、レン」
「なに?」
「釣りって、そんなに楽しい?」
「……楽しいかどうか、わかんねえ。でも、やめられない」
「湖には行かないんだ?」
「あんまり行かないかな」
「ふーん」
マルタはそう言って、潮風を吸い込んだ。
「わたし、風の匂いって好き。……沙耶さんもそう言ってた気がする」
レンの胸が、一瞬だけ強く締めつけられた。
母の名前を、もう誰も口に出さないと思っていた。
けれど、マルタの声はまるで風みたいに優しくて、どこか懐かしかった。
「……ありがとな、マルタ」
「え、何が?」
「いや、別に」
レンは小さく笑った。
それは本当に久しぶりの笑みだった。
⸻
夕暮れ、二人で丘を歩いて帰る。
橙に染まった雲の向こうで、鳥たちが鳴いている。
遠くに見える海の水平線――あの日、母が消えた方角。
「レン」
「ん?」
「わたしね、あの海の向こうに行ってみたいんだ」
「……危ないぞ。船もないし」
「うん、わかってる。でもさ、沙耶さん、向こうで元気にしてるかもしれないじゃない」
マルタの声が、少しだけ震えていた。
彼女もまた、レンと同じように“信じたい”だけなのかもしれない。
レンは空を見上げた。
薄暗くなりかけた空には、まだ星が一つもない。
けれど――
そのどこかに、母がいる気がした。
その瞬間――
海の向こうで、何かがゆっくりと“光った”。
マルタは気づかず、ただ夕風に髪を揺らしていた。
レンの心臓がひときわ強く跳ねる。
あの夜以来、決して見えなかった“糸の光”が、一瞬だけ空へと伸びていた。
――まるで、誰かが再び“釣り糸”を垂らしたかのように。




