第18話 白の塔の地下 ― 糸を斬る者
焦げた風が、瓦礫の隙間を抜けていった。
かつて“白の塔”と呼ばれた聖域は、今や白骨のように崩れ落ちている。
塔の外壁は焼け、天井の半分は消えた。
黒翼の襲撃から三日。
それでも――レンたちは戻ってきた。
「本当に、ここで……訓練なんてできるの?」
レンが瓦礫を踏みながら呟く。
リュシアは短く答える。
「塔は壊れても、地下の“第二層”は無事。結界がまだ生きてる」
その声に呼応するように、崩れた通路の奥から聞き慣れた声がした。
「――やっと来たね、坊や」
煤にまみれたマルタが、軽口を叩きながら姿を現した。
包帯の下から覗く腕は痛々しいが、その瞳はしっかりと光を宿している。
「塔が落ちても、あんたたちが来ると思って地下を起こしておいたんだ」
マルタが床を軽く蹴る。
瓦礫の下の円盤が唸り、光を放つ。
地下へ続く螺旋階段が現れた。
リュシアが息を飲む。
「……生きてたのね、白の塔の根」
「死んだふりが得意なんだよ、こいつは」
マルタがまた軽口を叩く…叩きながらも、表情を引き締める。
「降りよう。――あんたを鍛える人間が、待ってる」
⸻
階段を降りた先は、静寂と冷気の世界だった。
石壁には古い紋章。
〈訓練領域 D-9〉――塔が建てられた最初期の記録。
そこに立っていたのは、一人の男。
灰色の髪。剣のような瞳。
氷堂。
「久しいな、リュシア。それに……その少年が、例の“見える者”か」
「ええ。レン。彼が――」
言い終わる前に、氷堂は静かに剣を抜いた。
ギィン――と空気が鳴る。
冷たい金属の音。
レンの肌に、細い圧が走った。まるで、見えない釣り糸が頬をかすめたような感覚。
「構えろ、少年」
「え……?」
「世界は常に糸で繋がれている。その糸を断ち切れなければ、お前は何も守れん」
氷堂の剣がゆっくりと空を裂いた。
見えた。
光の糸。
無数の細い糸が、レンの周囲を絡め取るように走っている。
「……まるで、ラインだ」
レンの口からこぼれた。
「ん?」氷堂が眉を上げる。
「釣り糸だよ。サワラが噛みついた瞬間、ラインが切れる。あれと同じ感覚が――今、した」
氷堂は薄く笑った。
「面白い比喩だ。ならばその“サワラ”になれ。噛み切れ、少年。お前を縛る糸をな」
⸻
訓練が始まった。
氷堂の剣閃が、音もなくレンを襲う。
それは斬撃ではなく――誘い。
見えない糸で釣られるように、レンの体が引き寄せられる。
「力じゃない。呼吸を合わせろ」
「呼吸……?」
「風を読む。水面を読む。お前、魚を釣るとき、獲物の呼吸を感じたことがあるだろう?」
「……ある。流れの中で、糸が軽く震える時」
「それが“命の音”だ。斬るべきは肉じゃない、その震えだ」
レンは目を閉じ、息を合わせた。
光の糸が揺れる。
吸って――吐く。
世界の輪郭が澄んでいく。
そして、踏み出す。
ザン――!
一瞬の静寂。
次の瞬間、レンの周囲に張り巡られていた光の糸が、次々と弾け飛んだ。
まるで太刀魚が糸を噛み切ったように、鋭く、正確に。
氷堂の瞳が細められる。
「……今の感覚、忘れるな」
「はい……!」
「いいだろう。釣り師の直感を剣に変えるとは、悪くない才能だ」
マルタが腕を組んで笑った。
「ほら見ろ、坊やは筋がいいんだよ。もったいないくらいね」
リュシアもわずかに頬を緩めた。
だが、その穏やかな空気を裂くように、地鳴りが響く。
壁の紋章が軋み、塔の奥から黒い羽が舞い落ちた。
氷堂が剣を構え直す。
「……来たな。“黒翼”が」
リュシアが息を詰める。
「こんな早く……!」
「訓練は終わりだ。――次は実戦で、糸を断て」
レンが剣を握り直す。
息を吸う。
光の糸が、再び揺れた。




