第13話 紅い瞳の誓い
朝の光が、湖面に反射して村の屋根を照らしていた。
だが、レンの世界はまだ夜のままだった。
あの“白い糸”を見た翌日から、体の奥がじりじりと熱い。
発熱でもなく、怪我でもない。
ただ、胸の奥に“何か”が燃えている。
「……また、あの夢だ」
レンは額の汗を拭いながら、息を吐いた。
夢の中では、空の上に無数の光が舞っていた。
それらが糸になり、誰かの手で一斉に引かれていく。
その糸の先には、いつも“母の声”があった。
――レン、釣りってね、待つことが一番難しいのよ。
目を覚ましたとき、レンはもう涙をこらえられなかった。
夢が現実なのか、現実が夢なのか、わからない。
「母さん……」
その名前を呼ぶ声が、村の朝の静寂に溶けた。
⸻
日が昇りきる頃、マルタが小屋の戸を叩いた。
「レン、まだ寝てるの? 具合悪いなら――」
「大丈夫、もう行く」
返事の声が弱く聞こえた。
マルタは眉を寄せる。
彼の目の下には濃い影。
だが、その瞳は以前よりも強い光を帯びていた。
「昨日、湖で何か見えたんだね?」
マルタの言葉に、レンの手が止まる。
「……なんで、そう思う?」
「わたしにも、感じたの。
風が違ってた。匂いも、音も」
マルタはそっと目を閉じ、指先を空へ向けた。
「ねぇレン。空から糸が降ってきたんでしょ?」
レンの心臓が跳ねた。
言葉を失ったまま、マルタを見る。
「この間も言ったけど、おばさんが消えた日も、あれが見えたの」
マルタの声がかすれる。
「でも、誰も信じてくれなかった。
“空に引かれていった”なんて、怖すぎる話だもんね」
レンは拳を握りしめた。
「……あの糸、また出てきたんだ。
俺を、釣ろうとしてた」
「触れたの?」
「うん……でも、何も起こらなかった」
マルタは息を呑む。
「それって……一体」
彼女の瞳が、どこかで恐怖と安堵の間をさまよっていた。
「レン、気をつけて…」
⸻
一方そのころ――。
天空。
“神族界層”に浮かぶ都市〈エリュシオン〉。
雲の上を泳ぐように、光の橋が何本も走っている。
リュシアはその一角、〈監察局〉の白い円卓の前に立っていた。
「報告します。
特異体――レン=カミナギ。
前回接触において糸を視認、かつ一時干渉を確認」
報告を終えると、室内の空気が凍る。
椅子に座る上官たちの目が一斉にリュシアへ向いた。
「――視認、だと?」
「人間が、か?」
ざわめきが走る。
円卓の奥に座る上官――アーゼルが低い声で言った。
「リュシア。君の報告が真実ならば、その人間は“混血”の可能性がある」
「混血……」
リュシアは目を伏せた。
アーゼルの瞳が光る。
「駆除を許可する。
“観察対象”から“危険因子”へ――格下げだ」
リュシアの心臓が跳ねた。
「……待ってください」
「何か異議が?」
「彼は、まだ……無垢です」
「無垢なうちに消すのが、人間どもが言うところの慈悲だ」
アーゼルの声には一片の情もなかった。
「そいつが“糸”を完全に視るようになれば、この世界の均衡が崩れる」
リュシアは唇を噛む。
視線の先には、白い雲の海。
その下に、まだ眠るように暮らす少年の姿が脳裏に浮かぶ。
(――本当に、消さなきゃいけないの?)
心の奥に、微かな震えが生まれた。
それを隠すように、彼女は片膝をついた。
「命令、了解しました」
ただしその声は、わずかに掠れていた。
⸻
夜。
レンは空を見上げていた。
星の光が糸のように連なっている。
「…行くしかないんだろ」
レンは握った拳を空に掲げる。
母が消えた空。
あの日の“白い糸”の繋がる先へ。
「俺は……必ず、あの日の真相を釣り上げてみせる」
風が吹いた。
雲の向こうで、ほんの一瞬だけ、何かが光った気がした。




