第12話 白い糸
夜が明けきる前の空は、群青と灰のあいだをゆらいでいた。
村の上には霧が漂い、湖はまるで深呼吸をするように波紋を刻んでいる。
リュシアはその上に、立っていた。
足元には、薄い光の紋が浮かび、彼女の体を支えている。
地上から見れば、ただの朝靄の中の幻影だろう。
手にした釣竿のような装置――神界製の“導索槍”。
白銀の糸がその先端から垂れ、風にたゆたっている。
「……目標、確認」
リュシアの瞳が淡く光る。
遠く、湖畔の小屋――レンの姿がそこにあった。
まだ眠りの中。
胸が静かに上下しているのが見える。
「対象:人間、感応値 通常域。
ただし、先日反応を示した“糸視認”の兆候あり。
――やはり、特異点だわ」
彼女は小さく息をつく。
霧の中から声が届く。
『リュシア、報告を』
「特異体、まだ覚醒の兆候はありません」
『ならば、予定通り“観察継続”だ。手を出すな』
リュシアは小さく頷いた。
「了解しました」
通信が途絶える。
風だけが残った。
――手を出すな、か。
彼女の胸の奥で何かがざらついた。
(どうして、あの少年を見てると、胸が痛むんだろう)
リュシアは目を閉じ、そっと糸を巻き取る。
――その時だった。
ピン、と。
糸の先が跳ねた。
まるで、向こう側から“引かれた”かのように。
リュシアは反射的に糸を押さえる。
「……っ、何?」
空気が歪む。
下を見る。
湖畔。
そこに――レンが立っていた。
白い糸が、彼の手に触れている。
「っ!」
リュシアの顔から血の気が引いた。
(見えてる……? そんなはず――)
レンの瞳がゆっくりと糸を辿る。
「これ、なんだ……光って……る?」
その手が、掴んだ。
――世界が揺れる。
湖の波紋が一斉に広がり、霧が弾け飛ぶ。
糸の接点で、光が閃いた。
リュシアはとっさに槍を振り抜く。
糸が消え、同時に風が爆ぜた。
レンは膝をつき、目を押さえる。
(――危なかった)
リュシアは息を詰める。
神族の糸に触れた者は、普通なら即座に魂を焼かれる。
だが、彼は生きている。
「……やっぱり、あなたは」
リュシアが呟く。
木々の陰から、マルタが走り寄る。
「レンっ! 大丈夫!?」
「……ああ……ちょっと、眩しくて」
マルタは空を見上げる。
そこにはもう、誰もいなかった。
けれど、彼女だけは感じていた。
まだ、そこに――白い糸の匂いが残っていることを。




