第10話 光の呼吸
湖畔の空気は澄んでいた。
朝靄がゆるやかに晴れていく中、リュシアはそっと目を細める。
――この世界の光は、やけに優しい。
神界の光とは違う。刺すような純度ではなく、人を包むような温度を持っていた。
「リュシアさん、こっち!」
無邪気な声が響く。
振り向けば、レンが手を振っていた。釣り竿を片手に、笑っている。
その笑顔に、胸の奥がわずかに痛んだ。
この少年を――釣り上げねばならない。
神々の命で、“器”を回収するために。
(……なのに、なぜ、こんなに心がざわつくの)
湖に立つ光の糸が、彼女の視界にちらつく。
レンの足元から、淡い光がゆらめいているのが見える。
人の子には見えない、神界との“接続線”。
だが、彼自身もまだ気づいていない。
「リュシアさん、釣りってしたことあります?」
「いいえ。……あなたたちは、魚を騙すのが上手なんですね」
「はは、まあ、ルアーの魅せ方しだいかな」
リュシアはその言葉に一瞬だけ息を詰めた。
――“ルアーの魅せ方しだい”。
自分が今していることと、同じじゃないか。
「ふふっ、難しそう」
笑顔を作る。
けれどマルタは、そのわずかな表情の硬さを見逃さなかった。
「……あなた、昨日の夜、どこにいたの?」
「え?」
「湖の中央。光が出たところ」
リュシアは一瞬だけ沈黙し、
やがて微笑のまま視線をそらした。
「夢でも見たんじゃないかしら?」
マルタは言葉を飲み込む。
彼女の瞳は金色にかすかに光り、
その奥で確信が芽生え始めていた。
(やっぱり、この人……“あっち”の存在だ)
レンはふたりの間に割って入るように、軽く笑った。
「なんか、ふたりとも緊張してない? まるで探り合いだな」
「そ、そんなことないです」
リュシアは慌てて微笑むが、その声は少し震えていた。
湖面が静かに揺れた。
光の糸が、リュシアの足元で細く震える。
――呼ばれている。神界から。
(まだ命令は果たせていない。
でも……もう少しだけ、見ていたい。この世界を)
レンが竿を振り抜くたび、水滴が朝日にきらめく。
その光景に、リュシアは一瞬だけ祈るような表情を浮かべた。
“神にではなく、彼に”。




