表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神釣り ―天を裂く糸―  作者: おかゆフィッシング


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/28

第1話 空から母さんが釣られた日

 ――あの日、母さんは空に釣られた。


 湖でも、海でもない。

 見上げた先、雲の向こうから光る糸が垂れていた。

 その糸に母さんの手が貫かれ、空へと引き上げられていったんだ。


「母さんっ!?」

「いやぁあああああああ‼」


 叫びも届かず、母は青空の奥へ消えていった。

 ――その光景が、レンの人生を変えた。


 


 ――――――


 水面を切り裂いて跳ね上がった魚の銀鱗が、朝日を反射してきらめいた。

少年――レンは小さな声を上げながら、竿を必死にしならせる。ジーッジーッ、と鋭く乾いた音を立てリールから糸が引き出されていく。


「よし……よしっ……!」


 竿先をあげ、リールを巻く。水面で暴れる魚が光を散らしながら抵抗する。

だがやがて、観念した魚は水から引き抜かれた。

 えら蓋を膨らませ、呼吸をしようと口をぱくぱくさせているのを見て、思わず笑顔がこぼれた。


「やった!母さんに見せてやらなきゃ!」


 釣り上げた魚を抱えて駆けていくその足取りは、まだ幼さの残る軽さだった。




 家の前に駆け込むと、庭先で洗濯物を干していた母が振り向いた。栗色の髪が風に揺れ、陽光を受けてきらめく。


 「見て、母さん!釣れたんだ!今日は上手くフッキングできたんだ!」


レンは誇らしげに魚を見せた。

 母は驚いたように目を丸くし、すぐに破顔した。


「まぁ……立派に釣れたじゃない。レン、本当に上手になったのね」


 そう言って、母はそっと頭を撫でてくる。彼女の手は洗濯物の水で冷えていたが、その温もりは確かに息子の心を満たした。


「今日のお昼は、この子を料理しましょうか。……ふふ、張り切っちゃうわね」


「本当に⁉やった!」


 嬉しそうに跳ねるレンを見て、母は小さく笑った。




 魚を水で洗い流し、手際よく捌いていく母の背中。その姿をレンは小さな椅子に腰掛けて見守っていた。


「母さん」

「なぁに?」

「父さんも、こんなふうに魚を捌いていた?」


 一瞬、包丁の音が止まる。だが母は振り返らず、穏やかに答えた。


「ええ……あの人も好きだったわ。あなたを膝に抱いて、『魚を綺麗に食べられるようになれば、立派な釣り人になれる』って言ってたりもしてたのよ」

 

 レンは少しはにかみながら、足をぶらぶらさせた。

 父の記憶はもう朧げだ。けれど釣竿を持つ大きな背中の影だけは、いつまでも消えずに胸に残っていた。





 母は魚の下処理を終えると、ふと窓の外に目を向けた。


「……あとは庭のハーブを摘んでくるわ。焼くときに添えると、香りがぐんと良くなるの」


 軽やかに言って、母は庭に向かった。

 レンは椅子に腰掛けたまま、空っぽの

調理台を見つめる。心が弾んでいた。――母と食卓を囲む、なんでもない日常。それが、彼にとって世界で一番のごちそうだった。




 しかし、次の瞬間。


「……っ⁉ 母さん!」


 庭先から小さな悲鳴が聞こえた。レンは慌てて立ち上がり、扉を蹴るようにして駆け出す。


 そこにあったのは――ありえない光景だった。


 母の手には、摘み取ろうとしたはずのハーブ……だがそれは……何かが違う。鮮やかすぎる葉の根元から、鋭い針が突き出て、彼女の掌に深々と突き刺さっていた。

 血が滴り落ち、地面を鈍く染めていく。


「くっ……あぁ……!」


 母は必死に針を引き抜こうともがいていた。しかし、まるで魚が針にかかったように抜けない。血に濡れた掌を振り払うたび、逆に肉に食い込み、さらに深く突き刺さっていく。


「母さんっ待って!今助ける!」


 レンは駆け寄り、その手を取ろうとした。だが――次の瞬間。


 母の身体が、何かに引かれるように浮き上がった。

 見えない糸に吊られたかのように、彼女は宙へと持ち上げられていく。


「や……いやぁああああああああ‼」


 空へ。

 青空の高みへ。

 まるで釣りあげられる魚のように。


「母さん!母さんっ!!!」


 レンは必死に手を伸ばす。しかし指先は届かない。


 母は掌を針に貫かれ、その先の淡い光を放つ糸に真っ直ぐ引かれ、やがて見えなくなった。



 風の音だけが残る。

 レンはその場に崩れ落ち、声を枯らすように叫び続けた。


「母さぁあああああああんっ!!!」






 ――――――



 空はあまりにも青かった。

 何事もなかったかのように。



 母が吸い込まれていったその場所には、白い雲が一片、のんびりと流れているだけだ。

 ほんの数分前まで、すぐそこに母はいたはずなのに。笑って、レンの頭を撫でていたはずなのに。


 信じられなかった。

 信じたくなかった。


「……母さん……?」


 かすれた声で呼んでみる。だが答えは返ってこない。

 耳に届くのは、草むらに滴る血の音だけ。ぽたり、ぽたりと。小さな赤い点が、土に滲んで消えていく。


 レンの喉が焼けるように熱くなった。

 視界が滲み、空を見上げる瞳から、堪えきれない雫がひとつ零れ落ちる。


「……う、ああああ……っ」


 声にならない嗚咽が、幼い喉を突き破る。

 レンはその場に膝をつき、空へと必死に手を伸ばした。だが掴めるものなど、もうどこにもなかった。


「母さん……!いやだ……返してよぉ……っ!」


 風が吹く。草が揺れる。

 それだけだ。何も答えは返ってこない。



―――――


 時間の感覚が消え失せていた。

 どれだけ泣き叫んだのかも、もう分からない。



 レンの小さな胸は、苦しいほどに上下していた。涙はとっくに涸れ、声も掠れて出なくなっていた。それでも、彼の眼差しは空から離れなかった。


――母は釣られたのだ。


 その現実だけは、幼い頭にも理解できた。

 魚のように、餌に似せた罠にかかり、針で捕らえられ、見えない糸で引かれていった。抵抗も、叫びも、何ひとつ届かずに。


 「……どうして……」


 震える唇から、ようやく絞りだされた問い。

 けれど答えはどこにもなく、ただ風が冷たく頬を撫でていく。


―――――


 やがて、レンの目は庭に落ちているものに気づいた。

 母が摘もうとしていたはずの「ハーブ」に似せられた偽物の草。血がこびりついていた。

 鮮やかで、生々しい赤。


  レンは震える手で、それを掴もうとした。だが、触れた瞬間、恐怖に駆られて手を引っ込めてしまった。

 それに触れれば、自分も母のように空へ連れ去られる気がして。


 それでも目をそらすことはできなかった。

 母を奪ったものは、紛れもなく、これだった。


 

―――――


 胸の奥から、熱いものが湧き上がってくる。怒りか、悔しさか、それとも恐怖か。幼い心では言葉にできない感情が渦を巻き、押し寄せ、彼を押し潰していく。


――守れなかった。


 その思いだけが、何度も胸を突き刺した。


 母を呼び止めることもできずに、手を掴むこともできず、ただ見上げて泣くしかできなかった。

 幼さゆえの無力さが、レンを苛んだ。


「……ぼくが……もっと……」


 かすれた声が途切れる。

 幼い体を抱え込むように丸くなり、震えながら嗚咽する。


 彼の中で、母の笑顔と、最後の叫びが交錯する。


――「まぁ……立派に釣れたじゃない。レン、本当に上手になったのね」


――「いやぁああああああああ‼」


 幸せな日常の声と、恐怖に満ちた絶叫が、無惨に繋ぎ合わされていく。


 その残酷な記憶は、彼の心に深く刻み込まれた。



 レンは、もう一度だけ空を仰いだ。雲の向こうに母がいるかもしれないと、子どもらしい希望にすがるように。


 けれど、そこに見えたのは――ただどこまでも広がる青。無情なまでに、美しく晴れ渡った空だった。


 レンの目から、最後の涙がぽたりと零れ落ちた。


「……母さん……」


 その声は、もう誰にも届くことはなかった。



 ――神を釣る物語は、この日から始まった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ