第1話 空から母さんが釣られた日
――あの日、母さんは空に釣られた。
湖でも、海でもない。
見上げた先、雲の向こうから光る糸が垂れていた。
その糸に母さんの手が貫かれ、空へと引き上げられていったんだ。
「母さんっ!?」
「いやぁあああああああ‼」
叫びも届かず、母は青空の奥へ消えていった。
――その光景が、レンの人生を変えた。
――――――
水面を切り裂いて跳ね上がった魚の銀鱗が、朝日を反射してきらめいた。
少年――レンは小さな声を上げながら、竿を必死にしならせる。ジーッジーッ、と鋭く乾いた音を立てリールから糸が引き出されていく。
「よし……よしっ……!」
竿先をあげ、リールを巻く。水面で暴れる魚が光を散らしながら抵抗する。
だがやがて、観念した魚は水から引き抜かれた。
えら蓋を膨らませ、呼吸をしようと口をぱくぱくさせているのを見て、思わず笑顔がこぼれた。
「やった!母さんに見せてやらなきゃ!」
釣り上げた魚を抱えて駆けていくその足取りは、まだ幼さの残る軽さだった。
家の前に駆け込むと、庭先で洗濯物を干していた母が振り向いた。栗色の髪が風に揺れ、陽光を受けてきらめく。
「見て、母さん!釣れたんだ!今日は上手くフッキングできたんだ!」
レンは誇らしげに魚を見せた。
母は驚いたように目を丸くし、すぐに破顔した。
「まぁ……立派に釣れたじゃない。レン、本当に上手になったのね」
そう言って、母はそっと頭を撫でてくる。彼女の手は洗濯物の水で冷えていたが、その温もりは確かに息子の心を満たした。
「今日のお昼は、この子を料理しましょうか。……ふふ、張り切っちゃうわね」
「本当に⁉やった!」
嬉しそうに跳ねるレンを見て、母は小さく笑った。
魚を水で洗い流し、手際よく捌いていく母の背中。その姿をレンは小さな椅子に腰掛けて見守っていた。
「母さん」
「なぁに?」
「父さんも、こんなふうに魚を捌いていた?」
一瞬、包丁の音が止まる。だが母は振り返らず、穏やかに答えた。
「ええ……あの人も好きだったわ。あなたを膝に抱いて、『魚を綺麗に食べられるようになれば、立派な釣り人になれる』って言ってたりもしてたのよ」
レンは少しはにかみながら、足をぶらぶらさせた。
父の記憶はもう朧げだ。けれど釣竿を持つ大きな背中の影だけは、いつまでも消えずに胸に残っていた。
母は魚の下処理を終えると、ふと窓の外に目を向けた。
「……あとは庭のハーブを摘んでくるわ。焼くときに添えると、香りがぐんと良くなるの」
軽やかに言って、母は庭に向かった。
レンは椅子に腰掛けたまま、空っぽの
調理台を見つめる。心が弾んでいた。――母と食卓を囲む、なんでもない日常。それが、彼にとって世界で一番のごちそうだった。
しかし、次の瞬間。
「……っ⁉ 母さん!」
庭先から小さな悲鳴が聞こえた。レンは慌てて立ち上がり、扉を蹴るようにして駆け出す。
そこにあったのは――ありえない光景だった。
母の手には、摘み取ろうとしたはずのハーブ……だがそれは……何かが違う。鮮やかすぎる葉の根元から、鋭い針が突き出て、彼女の掌に深々と突き刺さっていた。
血が滴り落ち、地面を鈍く染めていく。
「くっ……あぁ……!」
母は必死に針を引き抜こうともがいていた。しかし、まるで魚が針にかかったように抜けない。血に濡れた掌を振り払うたび、逆に肉に食い込み、さらに深く突き刺さっていく。
「母さんっ待って!今助ける!」
レンは駆け寄り、その手を取ろうとした。だが――次の瞬間。
母の身体が、何かに引かれるように浮き上がった。
見えない糸に吊られたかのように、彼女は宙へと持ち上げられていく。
「や……いやぁああああああああ‼」
空へ。
青空の高みへ。
まるで釣りあげられる魚のように。
「母さん!母さんっ!!!」
レンは必死に手を伸ばす。しかし指先は届かない。
母は掌を針に貫かれ、その先の淡い光を放つ糸に真っ直ぐ引かれ、やがて見えなくなった。
風の音だけが残る。
レンはその場に崩れ落ち、声を枯らすように叫び続けた。
「母さぁあああああああんっ!!!」
――――――
空はあまりにも青かった。
何事もなかったかのように。
母が吸い込まれていったその場所には、白い雲が一片、のんびりと流れているだけだ。
ほんの数分前まで、すぐそこに母はいたはずなのに。笑って、レンの頭を撫でていたはずなのに。
信じられなかった。
信じたくなかった。
「……母さん……?」
かすれた声で呼んでみる。だが答えは返ってこない。
耳に届くのは、草むらに滴る血の音だけ。ぽたり、ぽたりと。小さな赤い点が、土に滲んで消えていく。
レンの喉が焼けるように熱くなった。
視界が滲み、空を見上げる瞳から、堪えきれない雫がひとつ零れ落ちる。
「……う、ああああ……っ」
声にならない嗚咽が、幼い喉を突き破る。
レンはその場に膝をつき、空へと必死に手を伸ばした。だが掴めるものなど、もうどこにもなかった。
「母さん……!いやだ……返してよぉ……っ!」
風が吹く。草が揺れる。
それだけだ。何も答えは返ってこない。
―――――
時間の感覚が消え失せていた。
どれだけ泣き叫んだのかも、もう分からない。
レンの小さな胸は、苦しいほどに上下していた。涙はとっくに涸れ、声も掠れて出なくなっていた。それでも、彼の眼差しは空から離れなかった。
――母は釣られたのだ。
その現実だけは、幼い頭にも理解できた。
魚のように、餌に似せた罠にかかり、針で捕らえられ、見えない糸で引かれていった。抵抗も、叫びも、何ひとつ届かずに。
「……どうして……」
震える唇から、ようやく絞りだされた問い。
けれど答えはどこにもなく、ただ風が冷たく頬を撫でていく。
―――――
やがて、レンの目は庭に落ちているものに気づいた。
母が摘もうとしていたはずの「ハーブ」に似せられた偽物の草。血がこびりついていた。
鮮やかで、生々しい赤。
レンは震える手で、それを掴もうとした。だが、触れた瞬間、恐怖に駆られて手を引っ込めてしまった。
それに触れれば、自分も母のように空へ連れ去られる気がして。
それでも目をそらすことはできなかった。
母を奪ったものは、紛れもなく、これだった。
―――――
胸の奥から、熱いものが湧き上がってくる。怒りか、悔しさか、それとも恐怖か。幼い心では言葉にできない感情が渦を巻き、押し寄せ、彼を押し潰していく。
――守れなかった。
その思いだけが、何度も胸を突き刺した。
母を呼び止めることもできずに、手を掴むこともできず、ただ見上げて泣くしかできなかった。
幼さゆえの無力さが、レンを苛んだ。
「……ぼくが……もっと……」
かすれた声が途切れる。
幼い体を抱え込むように丸くなり、震えながら嗚咽する。
彼の中で、母の笑顔と、最後の叫びが交錯する。
――「まぁ……立派に釣れたじゃない。レン、本当に上手になったのね」
――「いやぁああああああああ‼」
幸せな日常の声と、恐怖に満ちた絶叫が、無惨に繋ぎ合わされていく。
その残酷な記憶は、彼の心に深く刻み込まれた。
レンは、もう一度だけ空を仰いだ。雲の向こうに母がいるかもしれないと、子どもらしい希望にすがるように。
けれど、そこに見えたのは――ただどこまでも広がる青。無情なまでに、美しく晴れ渡った空だった。
レンの目から、最後の涙がぽたりと零れ落ちた。
「……母さん……」
その声は、もう誰にも届くことはなかった。
――神を釣る物語は、この日から始まった。




