夫と親友に裏切られたので、湖畔の村で猫とスローライフを始めます
窓辺に射し込む朝の光が、薔薇色の絹のカーテンを透かして部屋を染めている。
いつもは美しいと思えるこの光景も、今朝は私の心に影を落とすだけだった。
結婚して早三年。
立派な屋敷での暮らしは、誰もが羨むほど華やかで恵まれている。
にも関わらず私の心が暗く沈んでいるのは、昨日の夕方、夫の浮気を見てしまったからだ。
月末恒例の義母への挨拶を終えて帰る途中、馬車の車輪が石に当たって大きく揺れた。御者が馬車を止めて確認している間、私は窓から外を眺めていた。
街外れの静かな並木道。夕暮れの街灯の下を通る二人組が目に入った。
男が帽子を取って女性に微笑みかけた瞬間、その横顔と仕草で心臓が跳ねた。それは間違いなくジークアスだった。
そして、彼の腕に寄り添って歩いているのは、アリス。
私の親友。
学生時代からの付き合いで、結婚後も時々屋敷を訪れてくれる大切な友人だった。
二人は人目につかない小径へと入っていく。
私は息を殺して見守った。やがて大きな樫の木の陰で、ジークアスがアリスを抱き寄せる。彼女も自然に身を委ね、二人は長い間そうしていた。
私は頭の中が真っ白になった。
馬車が動き出してからも、あの光景が頭から離れない。
胸の奥が締め付けられるような痛みが走る。きっと何かの間違い。でもあの親密な様子は、長い間続いている関係でなければありえないものだった。
その夜、私は読書をしながら彼の帰りを待った。
時計の針が十時を回った頃、ようやく玄関の扉が開く音が聞こえた。
「お帰りなさい」
「ああ、遅くなった」
「お食事はいかがなさいますか?」
「済ませてきた」
短い会話を交わした後、ジークアスは自分の書斎へ向かった。
私は一人、居間に残される。
翌朝、私は彼の書斎に掃除の名目で入り込んだ。
物色していると書斎の机の足元に、銀色の櫛が転がっていた。拾い上げた瞬間、息が止まる。アリスが愛用している髪飾りだ。
これは私の物ではない。でも見覚えがある。アリスが使っているものだ。
手に取った瞬間、膝の力が抜けそうになった。現実を受け入れたくない気持ちと、もう逃げられないという諦めが胸の中で激しくぶつかっている。
私は早鐘を打つ心拍に促されるように、ジークアスのもとに向かった。
「少しお話がございます」
「何だ?」
振り返った彼の顔が冷たく感じる。
櫛を見せつけるように持ち上げると、ジークアスの表情が一瞬強張った。
「これ、アリスの物ですよね? なぜ書斎に?」
しばらく沈黙が続く。
そして彼は、まるで開き直るように口を開いた。
「彼女が忘れていったんだろう」
「忘れる? そうだとして、どうして貴方の書斎にあるんですか」
「……回りくどいやり取りはやめないか」
「……っ! じゃ、じゃあハッキリ聞きます。アリスと逢瀬をしてましたよね。一体、どういうおつもりですか!?」
「どういう、か。お前はつまらないからな。他に刺激を求めた。それだけだ」
その言葉は、私の心を氷のように凍らせた。
「つまらない……?」
「そうだ。いつも同じことばかり話して、同じような日々を繰り返して退屈なんだ。その点、アリスは違う……」
もう聞いていられなかった。
部屋を出ようとする私に、ジークアスが追い打ちをかける。
「離婚したければすればいい。ただしお前には何も残らないがな」
私は何も答えず、自分の部屋へ戻った。そして時間を忘れて涙を流し続けた。
その日の夕方、私は決心を固めた。
この屋敷を出る。実家に帰ることも考えたが、それでは結局誰かに頼って生きることになる。自分の力で、自分の道を歩きたい。そう思った。
荷物は最小限にした。思い出の品々は置いていく。新しい生活には新しい物を揃えればいい。馬車に積んだのは、着替えと日用品、そして少額の金貨だけだった。
ただ、ここから離れた静かな場所で暮らしたい。そんな漠然とした願いだけを胸に、私は馬車に乗り込んだ。
御者に「東へ進んでください」と告げると、彼は頷いて手綱を握った。
馬車が動き出すと、屋敷がだんだん小さくなっていく。三年間住んだ家。
不思議なことに、悲しみよりも解放感の方が強かった。
もう夫の顔色を窺う必要もない。これからは自分のために生きていけばいい。
道中、旅の途中で立ち寄ったことのある村を思い出し、そこへ向かうことにした。
馬車で一日ごとに安宿を泊まり歩き、三日目の夕暮れ、湖畔の小さな村にたどり着いた。
「ここで降ろしてください」
御者は不思議そうな顔をしたが、荷物を降ろしてくれた。
村の中心部は小さく、教会と数軒の商店があるだけだった。人々はゆったりとした足取りで歩き、子供たちが広場で無邪気に遊んでいる。都会の慌ただしさとは正反対の光景だった。
宿屋を探していると、温かそうな明かりの灯った小さなパン屋が目に入った。扉を開けると、甘い香りが私を包み込んだ。
「いらっしゃい」
カウンターから中年の女性が顔を上げた。ふくよかで優しそうな顔立ちで、エプロン姿がよく似合っている。
「すみません、この村で部屋を借りられる場所をご存知でしょうか?」
「あら、見ない顔ね。旅の方かしら?」
「いえ、しばらくこちらに住もうと思っているんです」
女性は驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔になった。
「そう。なら村長にご相談したほうがいいわね。暇だし案内するわ」
「すみません、ありがとうございます」
「私はエマ。あなたは?」
「リナリアです」
エマに案内されて村長の家を訪れると、温和そうな老人が迎えてくれた。事情を簡単に話すと、快く住まい探しを手伝ってくれることになった。
「それでしたら、村外れに空いている家がございます。前の住人が街に引っ越されてから、ずっと空き家になっていましてね」
案内された家は、確かに古くて小さかった。でも手入れが行き届いており、庭には野花が咲き乱れている。都会の豪華な屋敷に比べれば粗末かもしれないが、私にはとても魅力的に見えた。
「ぜひ、お借りしたいです!」
「それは良かった。家賃も安くしておきますから」
村長の優しさに感謝した。きっと私の事情を察してくれたのだろう。
その日から、私の新しい生活が始まった。朝は鳥のさえずりで目を覚まし、庭の花に水をやる。午前中は掃除や洗濯、午後は村の中を散歩したり、本を読んだりして過ごす。
最初は何もかもが慣れなかった。薪で火を起こすのも、井戸から水を汲むのも、都会では使用人がやってくれていたことばかり。でも一つずつ覚えていくのが楽しかった。自分の手で生活を築いている実感があった。
三ヶ月が過ぎる頃には、私は完全に村の一員になった気がしていた。ジークアスのことを思い出すこともほとんどなくなり、心は穏やかだった。
ある雨の降る午後のことだった。
買い物帰り、いつものように教会裏の小道を通ったとき、か細い鳴き声が耳に届いた。以前から時々聞こえていたが、この日ようやく声の主を見つけた。
「にゃあ……」
それは両手で収まりそうなほど小さな子猫だった。
子猫は濡れた毛を震わせて、私を見上げている。大きな青い瞳が不安そうに揺れていた。周りを見回しても、母猫の姿はどこにもない。きっと捨てられてしまったのだろう。
私はそっと子猫を抱き上げた。小さな体が私の手の中で震えている。
雨に濡れて冷たくなった毛を触ると、子猫は弱々しく鳴いた。この小さな命を見捨てることなどできない。
コートの中に子猫を隠して、急いで家に向かった。
家に着くと、まずタオルで子猫の体を優しく拭いてやる。濡れた毛が乾くにつれて、美しい白とグレーの模様が現れた。
「きれいな毛色ですね」
子猫は私の膝の上で小さく丸くなっている。
その様子がまるで雲のようだったので、「クラウド」と名付けることにした。
翌日、村のエマのところへミルクを分けてもらいに行った。
「あら、リナリア。珍しく慌てているじゃない」
「実は昨日、子猫を拾いまして……」
事情を話すと、エマは目を細めて微笑んだ。
「そう。優しいのね」
「いえ、そんな」
「子猫用のミルクなら分けてあげるわ」
「ありがとうございます」
「でも子猫を飼うのは大変よ。夜中に鳴いたり、いたずらしたり」
「構いません。一人の生活に慣れてきた頃なので」
エマは何かを察したような表情を見せたが、何も言わずにミルクを温めてくれた。
家に戻ると、クラウドは小さなかごの中で眠っていた。私が近づくと、薄目を開けて「にゃあ」と鳴く。まだか細い声だが、昨日より元気そうだった。
「お腹が空いているのですね」
スプーンでミルクを少しずつ飲ませてやった。
最初はうまく飲めずにこぼしていたが、だんだんコツを覚えたようで、一生懸命舐めている。その姿が愛らしくて、思わず頬が緩んだ。
「あなたも一人ぼっちだったんですね。私も同じです」
クラウドはお腹がいっぱいになると、再び眠りについた。規則正しい寝息を立てて、時々足をぴくぴくと動かしている。きっと夢を見ているのだろう。
それから数日間、私の生活は一変した。朝はクラウドの鳴き声で目を覚まし、ミルクを飲ませるところから始まる。昼間は子猫が眠っている間に家事を済ませ、起きたらまた世話をする。夜も何度か起きてミルクをやらなければならなかった。
確かにエマの言うとおり大変だったが、不思議と苦には感じなかった。
むしろ、誰かのために時間を使うことが久しぶりで、心が温かくなった。ジークアスとの結婚生活では、いつも彼の都合に合わせているだけで、本当の意味で誰かを慈しむことはなかったような気がする。
一週間ほど経つと、クラウドは見違えるほど元気になった。
毛並みも艶やかになり、青い瞳にも生気が戻っている。よちよちと歩き回るようになり、私の後をついてまわるようになった。
「そんなについてこなくても大丈夫ですよ」
そう言いながらも、内心では嬉しかった。この小さな命が私を頼りにしてくれている。それが何より愛おしかった。
ある日の夕方、庭で洗濯物を取り込んでいると、クラウドが庭の隅で何かを見つめていた。近づいてみると、蝶々が花に止まっている。
「あ、蝶々」
クラウドは興味深そうに首をかしげながら、蝶々を見つめている。そっと前足を伸ばそうとしたとき、蝶々がひらりと舞い上がった。クラウドは驚いたように後ずさりして、私の足元に駆け寄ってきた。
「怖くありませんよ。優しい生き物ですから」
私がそっと撫でてやると、クラウドは安心したように喉を鳴らした。この小さな音が、私の胸を温かくしてくれる。
夜、暖炉の前でクラウドを膝に乗せて本を読んでいると、ふと思った。この子を拾ったのは偶然だったのだろうか。それとも、お互いに必要としていたから出会えたのだろうか。
ジークアスは私を「つまらない」と言った。確かに私は派手な人間ではない。でも、クラウドにとって私は特別な存在なのだ。小さくても、誰かにとって大切な人でいられる。それだけで十分じゃないか。
「私、あなたに出会えて良かったです」
クラウドは眠そうな目で私を見上げて、小さく鳴いた。
その夜、クラウドは初めて私のベッドの上で眠った。小さな体を私の枕元に丸めて、安らかな寝息を立てている。私も久しぶりに、心から安らかな眠りについた。
翌朝、目を覚ますとクラウドはもう起きていて、窓辺で外を眺めていた。朝日が子猫の毛を金色に染めている。
「おはようございます、クラウド」
振り返った子猫の瞳が、昨日よりもさらに輝いて見えた。きっと私の瞳も、同じように輝いているのだろう。
この小さな命との出会いが、私の新しい人生にもたらしてくれたもの。それは愛することの喜びと、必要とされることの幸せだった。
クラウドとの生活が当たり前になった頃。
突然、家の前に馬車の音が響いた。珍しいことだった。この村に馬車で来る人はほとんどいない。顔を上げると、見覚えのある人影が馬車から降りてきた。
ジークアスだった。
私は息を呑んだ。
ジークアスは以前と変わらず立派な服装をしていたが、顔は少しやつれて見えた。私を見つけると、複雑な表情を浮かべて近づいてきた。
「リナリア」
「どうしてここに?」
「君を迎えに来た。一緒に帰ろう」
私は立ち上がり、土を払った。心拍が速くなっているのを感じたが、不思議なことに恐怖や動揺はなかった。
「お帰りください」
「そう冷たくしないでくれ。話をしよう」
「話すことなど何もありません」
ジークアスは苛立たしげに髪をかき上げた。
「リナリア、君が必要なんだ。君が勝手にいなくなってから屋敷はめちゃくちゃだ。取引も次々破談になった。君が私の仕事を裏で支えてくれていたのだと痛感した」
「……勝手な言い分ですね。アリスにお願いしたらいかがですか?」
「なにを意固地になっているんだ。こんな田舎で生活など辛いだろう」
「私は十分幸せです」
「幸せ? こんな貧しい場所での生活が? 君には都会での華やかな暮らしが似合っている」
「彼女は私たちの大切な仲間ですから」
「仲間?」ジークアスは嘲笑するように言った。「リナリアはあなたたちとは身分が違う。本来こんな古臭い場所にいるべきではない」
その時、足元から小さな鳴き声が聞こえた。クラウドが私の足にすり寄ってきたのだ。
「にゃあ」
ジークアスは眉をひそめて猫を見下ろした。
「なんだ、こんな汚い動物を飼っているのか。さっさと処分して帰るぞ」
「処分?」
私の声が震えた。
クラウドを見下ろすジークアスの冷たい視線に、怒りが込み上げてくる。
「この子は汚くありません。撤回してください!」
ジークアスは困惑したような表情を浮かべた。
「ったく、なにを怒っているんだ。わかった、謝ればいいのだろう。すまなかった。これで満足したか?」
「なんですかその言い草。お引き取りください。もう顔も見たくありません」
「勝手に話を進めるな。君が必要なんだ」
「あなたにはアリスがいるでしょう」
「彼女とはもう終わった。君だけが私の本当の妻だ」
今更なにを……!
その時、背後から落ち着いた声が響いた。
「揉め事ですかな?」
振り返ると、村長が静かに歩いてくるところだった。
温和な表情はいつもと変わらないが、その目には静かな威厳があった。
「村長さん。すみません」
「彼女に話があるなら私が聞きますよ。場所を移しましょう」
ジークアスは村長を見下ろすような態度で言った。
「これは夫婦の問題だ。部外者は口を出さないでください」
村長は微笑みを浮かべたまま答えた。
「部外者ではありません。リナリアさんは我々の大切な村民ですから」
「たかが数ヶ月住んだだけで村民? 馬鹿馬鹿しい」
「奥様を大切にしない男性に言われるのは不服ですね」
「何を知っているというんだ」
「存じ上げておりますよ。リナリアさんがここに来た理由を、私たちは聞いています。あなたが他の女性と過ごしていたこと、彼女を傷つけたこと」
ジークアスの表情が青ざめた。
「それは……一時の過ちだ」
「一時であろうが過ちを犯したなら、まず謝罪すべきではありませんか?」
ジークアスは黙った。村長は続けた。
「私は長い間、多くの夫婦を見てきました。真の愛とは、相手の幸せを願うことです。自分の都合で相手を振り回すことではありません」
村長はリナリアの方を向いた。
「リナリアさん、あなたはここで本当に幸せですか?」
私は迷わず答えた。
「はい。幸せです」
「そうですか。それが一番大切なことです」
村長は再びジークアスを見た。
「お聞きします。あなたは彼女の幸せを願っていますか? それとも、自分の都合を優先していますか?」
ジークアスは答えられずにいた。
私はクラウドを胸に抱きながら、ジークアスを見つめた。彼の表情には、初めて迷いが浮かんでいた。やがてジークアスは苛立たしげに髪をかき上げた。
「馬鹿馬鹿しい。田舎者の説教など聞いていられるか」
村長は静かに首を振る。
ジークアスは私を睨みつけた。
「リナリア、最後に聞くぞ。本当に戻らないのか?」
私は迷うことなく答えた。
「はい。二度と戻るつもりはありません」
「……はっ。後悔することになるぞ。こんな辺鄙な場所で一生を終えるなど、愚かの極みだな」
ジークアスは踵を返して馬車に向かった。御者に何か言いつけると、馬車はすぐに動き出した。
馬車が見えなくなると、村長が私に向かって言った。
「村長さん、ありがとうございました」
「いえ、あなた自身が答えを出されたのです。私は少しお手伝いをしただけですから」
クラウドが私の胸で小さく鳴いた。その声が、新しい人生への祝福のように聞こえた。
それから一年が過ぎた。
春の午後、私は庭でクラウドと遊んでいた。子猫だったクラウドは立派な大人の猫に成長し、美しい毛並みを誇らしげに見せびらかしている。
「クラウド、そんなに得意げにしなくても」
そう言いながらも、私は微笑んでいた。この一年間、クラウドと過ごした日々は何物にも代えがたい宝物だった。
その時、エマがやってきた。いつものように温かい笑顔を浮かべている。
「リナリア、少し相談があるの」
「何でしょうか?」
「実は、小さな図書館を作る計画があるのよ。司書を探しているんだけど興味はない?」
私の心が躍った。
「図書館ですか?」
「そう。あなたなら教養もあるし、きっと素晴らしい司書になれると思うの」
新しい希望が心に灯った。自分の力で働き、この村に貢献できる。
「ぜひ、やらせてください」
「本当? 嬉しいわ。みんなも喜ぶと思う」
クラウドも私の膝で嬉しそうに鳴いている。きっと、新しい生活を祝福してくれているのだろう。
運命は時として残酷だが、同時に優しい贈り物もくれる。クラウドとの出会い、この村での生活、そして新しい仕事への道筋。すべてが私を真の幸福へと導いてくれた。
小さな村で、小さな図書館で、小さな猫と一緒に。それが私の選んだ人生だった。そして、それこそが私にとって最も美しい人生なのだ。




