月が見ていた夜
「阿部もいま帰り?」
阿部紗和が素早く振り返ると、白井智輝が大股で歩いてくるところだった。
「ああ、うん。後片付けが手間取っちゃって」
お気に入りのローファーを下駄箱から出しながら返事をした。胸が弾み、急に手が震えだす。同じクラスだし、帰りの下駄箱で一緒になることがないわけじゃないけれど、こんな遅い時間にたった二人というのは、初めてかもしれない。
「遅れてるって言ってたけど、パネルは間に合ったの?」
白井の問いかけに、紗和は頷く。
「もちろん。明日、楽しみにしてて」
パネル製作のチーフである紗和は、力強く言った。夏休みを半ば返上して、取り組んだパネル製作だから、かなり思い入れがあった。
「そっちこそ、準備は万端なの? 実行委員長」
「パネルのチーフが大丈夫っていうんだから、後はもう、大丈夫だろう」
「そりゃそうか」
何となく連れ立って歩き出す。
校舎を出ると、夜空が広がっていた。雲一つない空には、星がきらめいている。紗和達の高校は、山の上にあるので、星がよく見える。今頃、天文部が屋上でこっそり望遠鏡を覗いているかもしれない。
紗和は、最寄り駅までバスに乗る。でも、男子は歩く人が多いから、白井君も歩きかな。校門に向かって歩きながら、紗和はそんなことを考えている。
白井とは、共に体育祭の実行委員になって、話すようになった。それまでは、同じ教室にいながら、話をする機会はほとんどなかった。
仲良しの陽子によると、白井君は、全てのスポーツ部が弱小の我が校で、唯一、県大会まで進んだ剣道部の主将で、市内の大会なら天下無双の強さを誇る実力者、なのだそうだ。故に彼が剣道場で練習をしていると、下級生の女子が十重二十重と入り口を取り囲むそうで・・・。まぁ、陽子の話だから、少し大げさだとは思うけれど。
ところで、紗和の高校はまあまあの進学校であるため、三年生ともなると、みんな受験モードに突入する。なので、ほとんどの学生は、体育祭などの行事には消極的になる。しかし最上級生ともなると、行事を引っ張る立場になるわけで、生徒の熱意に反比例するように、仕事も責任も増える。
つまり三年生にもなって体育祭実行委員を引き受けるのは、学力に余裕があるか、お祭り好きのあんぽんたんかの二つで、学力に余裕のある白井が実行委員長に、クラスで唯一の美術部員だからと言う理由で、あんぽんたんの紗和がパネル制作のチーフに選ばれてしまったのだった。
白井はともかく、学業においては、いつもギリギリのラインを攻めている紗和にとっては、貧乏くじ以外の何物でもなかったが(実際に膨大な時間とエネルギーを体育祭の準備にとられていた)、しかし、その経験は何にも代えがたい素晴らしい財産になった、と、今の紗和は思っている。その大きな一つが、白井と仲良くなれたことだった。
紗和は、白井の隣を歩きながら思った。白井君にも随分助けて貰った。一緒にいて、本当に楽しかった。白井の笑顔、考え込む顔、困った顔、ちょっと怒った顔。何度も一緒に笑い転げたなぁ。どれもがかけがえのない思い出だ。でも、それはあくまで紗和だけの思いだ。明日が終われば、こうして一緒に帰ることなんてなくなる。だとしたら、今、並んで歩いているこの一瞬一瞬が愛おしくて、紗和は苦しいくらいだった。
白井と一緒に歩いていたら、あっという間にバス停に着いてしまった。
「阿部はバスだよね」
「うん、っていうか、この時間になると、ここのバス停、こんなに暗いの?」
紗和はちょっと驚いて言った。人通りはないし、暗いし、だから田舎の高校はいやなんだ。
「あ~、怖いんだ。お化けがでそうで」
「アホか。変質者の方が怖いわ」
「確かにそうだな」
白井は急に真顔になった。
「よし。優しい白井君が、バスが来るまで一緒にいてやろう」
「え、いいの? 悪いね」
「それとも、駅まで歩く?俺と一緒に」
『俺と一緒に』と言う言葉に、過剰にドキッとしてしまった紗和だが、
「う~ん、そうね。ここにずっと立ってても蚊に刺されそうだし、今日は歩こうかな」
さらっと答えることが出来た。
駅までの長い長い坂道を、だらだらと下りてゆく。
頭の上には月がぽっかりと浮かんでいる。ふっくらと、でもまん丸ではない月だ。明日かあさってには満月になるのだろう。
体育祭が終わったら、と、紗和は考える。実行委員になってから続いていた特別な日常も終わる。魔法みたいな日々が終わる。そして後は受験勉強一色だ。特に自分は、遅れに遅れた勉強をとり戻すために、相当頑張らねばならない。それを思うと、紗和はため息が出そうになった。
「阿部さ」
不意に白井が言った。
「ん?」
「明日の体育祭、最後のダンスの後、誰かと予定ある?」
紗和の心臓がドクっとなった。
「いや、特にないけど」
紗和は首を振った。本当は陽子とマックに行く約束していたけど、この際、許して貰おう。
「そうしたらさ、どっか行かない?」
「え? 二人でってこと?」
夢かもしれないので、紗和はこっそり太ももをつねりながら尋ねた。
「そう。二人で。だめ?」
頭の上から、白井の声が降ってくる。思いっきりつねった太ももは、飛び上がるほど痛かった。紗和は、正面の暗闇を見ながら、目をパチパチさせた。これ現実だ。夢じゃないんだ。笑みが浮かぶ。
「いいよ。どこに行く?」
紗和は、白井を見上げて言った。
「晩ご飯、食べに行こう」
白井も笑っている。
「いいね。きっとお腹ペコペコだろうから、一杯食べられるところにしようよ」
「よし。じゃあ、明日までに店を探すよ」
「私も探すから、どっちか良い方にしない?」
紗和は、そう答えながら、きっと今夜は布団に大ジャンプするだろうな、と思った。それで、布団の上で散々バタ足なんかやって、興奮して今夜は眠れないかもしれない。