金の俺様と銀のスパダリ、私が本当に欲しいのは
「もうセラフィーナの婚約者でいることに疲れた。僕は一生独身でいたい。婚約は解消しよう」
放課後のこと。
物憂げな瞳を逸らしたまま、婚約者であるアシェルが別れを告げる。
「ど……どうして? この間だって一緒にお出かけをしたじゃない。なぜ急に――」
「もう、君には話しかけられるのもうんざりなんだ。失礼するよ」
縋り付くセラフィーナに冷たく一方的な言葉だけを残し、アシェルは裏庭から去ってゆく。
セラフィーナは、振り向きもしない彼の後ろ姿をただただ見送る他なかった。
(……一体、どうして)
セラフィーナ・リベルテリア伯爵令嬢とアシェル・エルデリア伯爵令息。二人は幼い頃に婚約を結び、十八歳になる今日まで少しづつ関係を育んできたはずだった。
彼から愛されていたかと聞かれたら、そうとは言いきれないかもしれない。けれどお互いに良い関係を築けていたと信じていたし、少なくともセラフィーナは、優しく穏やかなアシェルのことを愛していた。
今年、学園を卒業したらすぐにでも結婚しよう。つい先日そう誓い合ったはずなのに。
(アシェル……私はずっと、あなたのことが好きだった)
学園の裏庭にある小さな泉。そこには細い水路を通じて、蒼く澄んだ水が湛えられている。
傷心のセラフィーナは力無く泉の脇に座り込むと、薬指の指輪を抜き取った。
金色の婚約指輪は、アシェルと同じデザインであつらえたものだ。初めてこの指輪を身につけたとき、幸福で心が満たされたのを覚えている。
彼とお揃いの婚約指輪、アシェルにとって特別な存在である自分――
(でも、もうこんな指輪、意味無いわ!)
自暴自棄になったセラフィーナは、溢れる涙とともに指輪を池へと投げ込んだ。
「さようならアシェル……」
指輪はポチャリと音を立てて、泉の底へと沈んでゆく。
ゆっくり、ゆっくり……指輪の姿が見えなくなる。
と、その時。
「お嬢さん、こんにちは」
「ん?」
指輪を投げ込んだ泉に、突如鮮やかな虹がかかったではないか。
そして魔法のように靄で覆われたかと思うと、なんと水面から美しい女性が現れた。
「だ、誰!?」
「私は泉の女神」
「泉の女神……!?」
「あなたが失ったのは金の俺様王子ですか? それとも銀のスパダリ魔術師ですか?」
「俺様……スパダリ? え?」
神々しく輝く泉の女神は、現れて早々、謎の言葉を口にした。
どことなく早口のそれは、セラフィーナには聞き慣れない単語である。
(な……何を仰っているの?)
女神の言う『金の王子』とは、この国の第二王子マクシミリアンのことだろうか。金に輝く髪を持ち、少々自己中心的な性格の彼は、確かにこの学園に在籍している。
そして『銀の魔術師』――魔術師シルヴァリオンもこの学園に講師として勤務しているが、彼のことを指しているのだろうか。物腰丁寧な彼は、生徒間でもとても人気が高かった。
しかし、どちらにせよ赤の他人である。セラフィーナが失ったのは穏やかで優しい……最愛のアシェルだった。泉の女神は何か勘違いでもしているのかもしれない。
「あの……女神様が仰っているのは、この学園にいらっしゃるマクシミリアン殿下とシルヴァリオン先生のことでしょうか。残念ながら、お二人とも違います。私が失ったのはアシェル・エルデリアといって――」
「チッ……あなたは正直者ですね」
「え?」
悔しげに顔を歪ませる女神の後光が、にわかに強くなってゆく。やがて裏庭は白い光に包まれて、セラフィーナは目も開けていられない。
「大抵のご令嬢は、金の王子と銀の魔術師に目が眩むものなのに」
「……だって、私が好きなのはアシェルただ一人なのです。アシェルじゃないと意味がありません」
「仕方が無いので、正直者のあなたには三人とも差し上げましょう」
「えっ――――」
――暗転した瞼を開けると、セラフィーナはリベルテリア伯爵家のベッドに横たわっていた。
窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。どうやらもう朝を迎えているらしい。
(なんだ、夢――そうよね、夢よね)
学園の裏庭で不思議な体験をしたはずのセラフィーナは、あれが夢であることにホッと胸をなで下ろした。
しかし――
(あれ……?)
すぐ自身の違和感に気付いてしまう。
まさかと思いつつ、寂しくなった薬指に目を落とした。
やはり、昨日までそこにあった婚約指輪は消え去ってしまっている。宝物として、常につけていたものなのに。
(夢……じゃなかったというの……?)
学園の裏庭からは、どのようにして帰路に着いたのか覚えていない。
覚えているのはアシェルに婚約解消を言い渡されたこと、そして裏庭の池から女神が現れたことだけだった。
仕方なく、セラフィーナは重い足取りで聖マルテノ学園へと向かった。
聖マルテノ学園は、王侯貴族の子女達が通う学園だ。彼らの情報網は尋常ではなく、一夜明けて登校してみれば、早速セラフィーナとアシェルが婚約解消したとの噂が流れていた。
今日ばかりは学園を休めば良かっただろうか。腫れ物のように扱われ、それを避ければ孤立感は増してゆく。
「セラフィーナ・リベルテリア伯爵令嬢」
噂で肩身が狭くしていたところ、なぜか第二王子であるマクシミリアンから呼び止められた。
第二王子――言葉を交わしたこともない、雲の上の存在だ。しかしマクシミリアンは周りに構わず、セラフィーナの真隣までぐいぐいと迫ってくる。
「マクシミリアン殿下。私のような者に何の御用でしょう」
「やっと俺の妃になる気になったか」
「え?」
マクシミリアンは机に手をつき、自信たっぷりにセラフィーナを追い詰める。
あまりの距離の近さに呆然としたが、ふとセラフィーナの脳裏には昨日の女神の言葉がよみがえった。
『正直者のあなたには三人とも差し上げましょう』
(まさか……まさか、そんなはずは……)
「昨日、アシェルとは婚約解消したのだろう」
「いえ、私はされた側で――」
「どちらでも構わない、これで気兼ねがなくなった。セラフィーナ、俺の妃になれ。悪いようにはしない」
「え!!」
一体、どういうことなのだ。
戸惑っている間にも、マクシミリアンは強引にセラフィーナの手を握る。
(な、何なの、この男……!!)
王子相手に手を払いのけたりも出来なくて固まっていると、遠くに見慣れた人影が見えた。
(アシェル……!)
こちらを見ていたアシェルと、一瞬だけ目が合った気がした。
もしかしたら助けてくれるだろうか――どうしても、無意識にそんな期待をしてしまう自分がいる。
しかし彼はすぐさま立ち去ってしまった。まるで何も見ていなかったかのように。
(……そうよね。アシェルは私と話すことも嫌って言っていたものね)
無情にも遠ざかる彼の背中に、セラフィーナは絶望した。
昨日までは婚約者だったはずなのに、もう既に他人のようだ。
それほど嫌われてしまっていたのだろうか。
胸が痛い。苦しい。アシェルに嫌われた現実が、残酷なほどセラフィーナに襲いかかる。
「も、申し訳ありません殿下。私――失礼いたします」
「おい!」
セラフィーナはマクシミリアンの手からするりと逃げると、教室から飛び出した。
これ以上、あの場所にいたくは無かった。
逃げたかった。好奇の目からも、アシェルの後ろ姿からも。
裏庭に身を隠したセラフィーナは、やっと一息つくことができた。しかし、ここでも頭を巡るのはアシェルのことばかりだ。
アシェルとは裏庭で多くの時間を過ごした。ここでは周りを気にすることもなく、二人きりの時間が持てたから。
(楽しかったのは私だけだったのかしら……)
裏庭では、未来の話を沢山した。卒業したら、結婚したら、子供ができたら――思わず目尻に涙が滲む。
「おや。泣いているのですか」
涙を堪えていたところ、またもや声をかけられた。ここはあまりひと気のない場所であるはずなのに。
振り向いてみると、そこには魔術師シルヴァリオンが立っている。
(もしかして、泉の女神様が仰っていた『銀の魔術師』……)
「シルヴァリオン様……なぜこのような所に」
「貴女はまだ、アシェルに未練があるのですね」
「こ、これは――」
「ここには私しかいませんよ。我慢する必要はありません」
シルヴァリオンはそう言うと、綺麗に折りたたまれたハンカチを差し出した。
なんて優しいのだろう。こんなことをされてしまったら、今のセラフィーナには涙を留めておくことが出来ない。
ありがたくハンカチを受け取り、静かに流れる涙を拭う。
「ありがとうございます……」
「……私では、貴方の心を癒すことはできませんか」
「えっ」
「ずっとお待ちします。貴女の心が癒えるまで」
そっと跪き、こちらを見つめる魔術師シルヴァリオンの瞳には、どこか熱が籠っているように見えた。
まるで接点の無かった彼に、このように口説かれてしまうなんて――
(あの女神様は、本当に三人ともくれたというの……?)
家路につく馬車の中、セラフィーナは混乱する頭を整理しようと必死になった。
あの泉の女神の言葉は本物だった。
王子マクシミリアンも魔術師シルヴァリオンも、前触れもなく突然態度を変えた。彼等二人から言い寄られるなんて、本来ならありえない。
(でも……女神は、三人ともくれるって言っていたのに)
思い出すのは、見て見ぬふりをして去っていったアシェルの背中だ。
『自分には関係ない』
愛しい彼の後ろ姿は、そう物語っていただけだった。
屋敷に帰ると、両親がセラフィーナに駆け寄ってきた。
いつも夫婦喧嘩が絶えないというのに、今日は珍しく二人とも機嫌が良いようだ。
「よくやったなセラフィーナ。マクシミリアン殿下と魔術師シルヴァリオン様から、縁談の打診が届いたぞ」
「えっ……! もう?」
「やっぱりアシェルを見限って正解だったわね」
「あいつなどにセラフィーナは勿体ない」
「そうよ、貴女はアシェルの隣で燻っている子なんかじゃないわ」
両親の不穏な会話に、セラフィーナは思わず二人を問い詰める。
「……どういうこと?」
アシェルの家――エルデリア伯爵家は、事業の失敗で傾いていた。そんなアシェルにセラフィーナの両親は、婚約の解消を申し出たという。
不本意な婚約解消に、アシェルも一度は食い下がったらしい。しかし「セラフィーナが不幸になっても良いというの?」と両親が説得したところ、彼も婚約解消を受け入れたそうだ。
「なんですって!」
全身から、血の気が引いてゆく。
事の真相を聞いたセラフィーナはなりふり構わず再び馬車へ飛び乗った。
「アシェル!!」
「セラフィーナ……! なぜここに? 君にはマクシミリアン殿下とシルヴァリオン様が――」
日も落ちてからエルデリア伯爵家へ現れたセラフィーナに、アシェルは目を丸くして驚いた。
「聞いたわ! うちの両親もあなたも、なんて馬鹿なの! 私はアシェルが好きなの! 貴方じゃなくては駄目なのよ」
「……でも、僕といると君が不幸になる。それだけは耐えられそうにない」
「なにが不幸かなんて、自分で決めるわ」
セラフィーナは、勢いに任せてアシェルの胸へと飛び込んだ。
穏やかな関係を育んできた二人には、初めてのことだった。こんなにも近く、互いの鼓動が聞こえるなんて。
「私のことを嫌いじゃないのなら、婚約解消なんて止めにして」
「――しかし」
「まだ好きなのなら、お願いだから抱きしめてよ……!」
金色の王子マクシミリアンに手を握られても、銀色の魔術師シルヴァリオンに優しくされても、傷ついた心が癒されることは無かった。
セラフィーナにはアシェルだけなのだ。昔も今もこの胸を動かすことが出来るのは。
「……そんなこと言われたら、僕は君を抱き潰してしまうかもしれない」
熱っぽいアシェルの声に、セラフィーナは顔を上げた。
大好きなアンバーの瞳はこちらを優しく見つめていた。もう、他人のような冷たさは消え去っている。
「ずっと我慢していた。僕にそのような資格は無いのだと」
「アシェル……」
「ありがとうセラフィーナ。もう、絶対に君を離さないと誓う」
遠慮がちな彼の手が、そっとセラフィーナの身体を包み込んだ。そんな反応がもどかしくて一層強く抱きしめ返すと、彼もそれに応じてくれる。
いつしか二人はきつく抱きしめ合った。
夜も更けて、互いの思いが溶け合うまで。
「ここで、女神様と会ったの」
後日、セラフィーナは裏庭の泉へアシェルを案内することにした。
もし会えたなら、女神には感謝の言葉を伝えたかった。それはアシェルも同じ気持ちだ。
今日も泉は蒼く静かで、あの出来事が嘘のように凪いでいる。
「ここへは何度も来たけれど、まさか女神様がいたなんて知らなかったな」
「……信じてくれるの?」
「勿論。まあ、僕にとっては君が女神のようなものだけど」
「もう! アシェルったら」
「わわっ……!!」
歯の浮くようなアシェルのセリフに、セラフィーナは思わず彼の肩を突き飛ばした。
それは運悪くアシェルのバランスを崩してしまい、彼は後ろへと倒れ込んでゆく。
「アシェル!!!」
助けようとしても時すでに遅し。水しぶきを上げて、アシェルは泉へと消えてしまった。
と同時に現れたのは――
「あなたが落としたのは」
「でた! 女神様!!」
またもや鮮やかな虹とともに、泉の女神が現れた。
「あなたが落としたのは、財力で無双するアシェル・エルデリアですか? それとも、ハイスペ策士なアシェル・エルデリアですか?」
「無双……??」
相変わらず、女神の二択は早口で謎だらけだ。
けれどセラフィーナの答えは決まっている。
「いいえ。私のアシェルは……要領は悪くてお金もなくて、でもとても優しくて笑顔の素敵な、私の愛するアシェル・エルデリアです」
「……あなたは正直者ですね。大抵のご令嬢なら、金とスペックに目が眩むものなのに」
「スペ……え?」
「また負けたわ……! でも仕方がありません。そんなあなたには三人ともあげましょう」
「また!?」
悔しげに敗北を口にする女神から、眩い光が溢れ出す。
セラフィーナの視界は次第にぼやけて、やがて意識を手放した。
一年後。
「アシェル君。その、もう少し援助を頂けないかね」
「何を仰るのです、お義父様。必要な経費はセラフィーナにお渡ししているではありませんか」
「そこをなんとかならないかしら」
「なりません」
縋り付くセラフィーナの両親を、アシェルはバッサリと切り捨てる。その姿は以前のものと比べ物にならぬほど毅然としていて――
(はあ……アシェル格好いい……)
セラフィーナはただただ愛しい彼の姿に見惚れていた。
贅沢三昧を繰り返していた両親によって、いつの間にか借金が嵩んでいたリベルテリア伯爵家。
その危機から脱出できたのは、豊かな富と頭脳を手に入れたアシェル・エルデリアのおかげであった。
傾いていたエルデリア伯爵家はアシェルによって立て直され、さらに領地に投資をすることで資産は何倍にも膨らんだ。
泉の女神によって財力と能力を兼ね備えたアシェルは、エルデリア伯爵家だけではなくリベルテリア伯爵家をも救ったのである。
「ありがとう。うちなんかのために」
「僕に出来ることであればなんでもやるよ。セラフィーナのためになるのなら」
「アシェル……」
「君は、僕の女神だから」
アシェルはセラフィーナを抱き寄せると、その唇にキスをする。
互いの指には揃いの結婚指輪が輝いていた。
「あの子は手強かったわね。俺様王子にもスパダリ魔術師にもなびかないなんて」
学園の裏庭、蒼く揺れる泉のほとり。
「今度は逆に不憫受けなんてどうかしら……いえ、インテリ高慢、腹黒ヤンデレ……それとも」
ワンコ系執事、ツンデレ義弟、溺愛系隣国王子……
女神の手には読み込まれた本が数冊。
学園裏の泉では、今日も女神が悩める者を待っている。