戦争をやめさせた一冊のマンガ
昭和二十年七月下旬。
当時、日本は第二次世界大戦の最中だった。私こと野山信一は少年兵としてフィリピンのある島に送られていた。
その島は面積にすればわずかなものだが、起伏に富み、私たちの掘っ立て小屋からも丘陵が望めた。丘陵の稜線はなだらかな曲線を描き、それはまるで女性の身体のようだった。私はその稜線を眺めるたびに、遠く本国で暮らす母の面影を見ていた。
私が配属された小隊は隊長を含めて三人と、かなりみすぼらしかった。その上、本隊からは完全に見放され、指令はおろか、配給すら来なかった。
それは完全に孤立無援の状態で、果たして本土に還れるかどうかも、正直なところ不安だった。今の自分たちがどこにいるのかさえも、時として、わからなくなりそうだった。
我々はやむを得ず、畑を耕し、芋の苗を植えた。痩せた土地であったが、現地の人たちから分けてもらった貴重な芋の苗だ。それが僅かな我々の命綱だったのである。
フィリピン本島や他の部隊は連日、激戦を強いられているようだったが、我々の小隊は至って呑気なものだった。実は、ここに来てからというもの敵の攻撃を受けたことがない。
当時の教育を受けて来た私は、完全な軍国主義者で御国のために早く敵と戦いたいと思っていたものだった。
両親や先生からは多くの敵を倒すことが理想と教え込まれ、それが当たり前だと思っていたのである。そのためには、己の命さえも投げ出す覚悟でいたのだ。
隣家の旦那さんがインドネシアで華々しく戦死を遂げ、近所では「軍神」と崇められていた。私もそういう者になりたいと、常日頃から思っていたのである。
「野山二等兵、焦るな。こんなところに敵なんぞ、来やしないぞ」
福島隊長が小銃を磨いている私に声を掛けてきた。
「しかし、お言葉ですが隊長、いつ敵が襲って来ないという保証があるわけではありません」
「韮山の奴を見てみぃ。あいつは呑気にマンガなんぞ描いておる」
韮山は私と同じ少年兵だった。しかし、韮山は手が空けばマンガばかり描いている。愛国思想の固まりのような私には信じられなかった。
私は韮山のマンガをこれまで、一度も読んだことがない。
私は心のどこかで韮山のことを「非国民」と侮蔑していたのかもしれない。
そんな非国民の書いたマンガなど、誰が読めようか。
隊長は韮山に近づくと描いているマンガを覗き込んだ。
「韮山二等兵は絵が上手いのう。しかし、この小隊に配属されてよかったな。他の部隊でマンガなぞ描いとったら、下手すりゃ軍法会議に掛けられる前に銃殺じゃぞ」
「はぁ、自分はマンガ家になるのが夢なんです」
「夢か、夢ねぇ……。今の時代にゃ役に立たねぇかもしれねぇが、持つにこしたこたぁねぇよ。若けぇってのはいいもんだ。ところで野山二等兵、貴様はどんな夢を持っとる?」
急に隊長から自分に話を振られ、私は一瞬返答に困った。戦争で勝つこと以外考えていなかった私である。
「自分の夢は一人でも多くの敵を倒すことであります。そのためなら死ぬ覚悟だって出来ています」
私は胸を張って答えた。
「そんなことは聞いとらん。ここじゃ敵も襲ってこんし、討ち死にも出来んじゃろう。もし、生き残って戦争が終わったら何をするんじゃ?」
「……」
私は答えられなかった。そんなことを考えてみたこともなかった。
「まぁ、ええわい。お前ら若者には希望がある。わしは戦争が終わっても、元の魚屋に戻るだけじゃ」
ある晩、韮山がせっせと何か作業をしていた。マンガを描いているわけでもなかった。
「韮山、貴様はさっきから何しているんだ?」
私は韮山を覗き込んだ。
「描き溜めたマンガを一冊の本にしているんだよ」
韮山は原稿を紙紐で括り、マンガ本を作っていたのだ。私はマンガなどには興味はなかったが、この時ばかりは韮山が一体、どんなマンガを描いているのか知りたくなった。
「ちょっと見せてみろよ」
「いいよ」
韮山は快く私に出来上がったばかりの手作りのマンガ本を渡した。
私は微かな月明かりをもらってそれを読んだ。
面白かった。そのマンガには台詞もなかったが、ユーモアが溢れていた。殺伐とした私の心が久々に潤ったような気がした。
「貴様、才能があるなぁ」
「へへへ、そうかい?」
韮山が照れたように笑った。
「今の日本には笑いが少ないよ。人間、笑わなくなったらおしまいだ、と思う……」
「それは戦争に勝ってからだ」
そうは言っても、私には韮山が羨ましかった。この戦場でもマンガ家になるという希望を捨てず、夢に向かって生きている韮山が。
その晩、床に就いた韮山が話しかけてきた。
「なぁ、野山……」
「ん、何だ?」
「貴様、俺のこと臆病者だと思っているだろう?」
その時、私は韮山に心の中を読まれたような気がした。確かにマンガばかり描いている韮山を心のどこかで非国民と軽蔑していたのは事実だった。
「あのなぁ、野山。俺は別に死ぬのは怖くないんだ。ただ、貴様が御国のために戦って死にたいと思うのと違って、俺はこの馬鹿げた戦争をやめさせるために命を賭けたいのさ。そのためには犬死にはしたくないな」
「この戦争が馬鹿げてるって?」
私は少し声を荒げた。何か私の生き方そのものが否定されたような気がしたのである。
「そうさ、敵も味方も正しいと思って戦っているけど、結局人殺しじゃないか。野山だって自分の親兄弟が殺されたら嫌だろう? それは敵も同じことじゃないかな」
「その前に敵の弾に当たって死んだらどうするんだ? 貴様の平和主義には呆れるよ」
「だが、その流れをどこかで断ち切らなきゃならないと思うんだ」
韮山はぼんやりと天井を眺めていた。
「そんな弱気でどうする。貴様、それでも日本男児か?」
私は強気でそう言い返した。「日本男児たる者、いざという時は云々」などと、耳にタコができるほど聞かされて育った私だ。
「そういう問題じゃないよ」
「じゃあ、どういう問題だ?」
私は一層、きつい口調で問い返した。
そこへ隊長が口を挟んできた。
「うーん。難しい問題じゃな。わしには何が正しくて何が間違っているのかわからん。どうせ我々の小隊は見捨てられているんだ。貴様ら、好きにやれよ。わしはもう寝る。貴様らも早く寝ろ。明日も畑仕事だぞ」
その晩、私は胸に何か棘のようなものが突き刺さり、なかなか寝付くことができなかった。
掘っ立て小屋の僅かな隙間から月明かりが漏れている。それは一筋の帯となって、まるで召集令状のように差し込まれていた。
(この光景を韮山が見たら、どう思うだろう?)
そんなことを思うと、余計に寝付けなかった。
私の耳元で蚊がうるさく鳴いた。
翌日、我々はいつものように畑を耕していた。
それは突然やってきた。
バキューン!
銃声が鳴った。
パパパパーン!
銃声は連続して鳴り続ける。
「敵襲だ! 一旦、小屋に引き上げろ!」
隊長が叫んだ。我々は逃げるように小屋へ入った。隊長は私に小銃を渡した。
「どうやら敵は数が多そうだ。きっと投降せん限りわしらは蜂の巣じゃろう。それでも戦うか?」
「もちろん戦います!」
私は背筋を伸ばし、キッパリと言った。
次に隊長は韮山にも小銃を渡した。
「わしと野山は命ある限り戦うつもりだ。これをどう使おうがお前の自由だ。お前一人、投降しても、逃げてもわしは目を瞑るぞ」
しかし、韮山は何も言わずに小銃を受け取った。そして、昨夜製本したマンガを小脇に抱えた。
敵の弾は粗末な壁を貫通して、小屋の中まで襲ってきた。隊長と私は小さな窓から小銃を撃ち返し、応戦をした。しかし、こちらが圧倒的に不利だった。
その時、私は左足に焼け付くような痛みを覚えた。敵の銃弾が左足を貫通したのだ。
「ぐわぁーっ……!」
「どうした! やられたか?」
隊長が駆け寄ってきた。
「かすり傷です。大丈夫です……」
しかし、痛みは私の左足の自由を奪った。血もドクドクと流れ出している。
私は韮山をにらんだ。韮山は小銃を手にしているものの、一発も応戦していない。
「貴様、この腰抜けめ!」
私は韮山に向かって吠えた。韮山一人、加勢に加わったところで状況が好転するとは考えられなかったが、追い詰められた私は、不満と怒りの矛先をその時、韮山にぶつけるしかなかったのだ。
「貴様は言ったな。戦争をやめさせるために命を賭けるって。だったら、今すぐ敵を鎮めてみせろ!」
私の怒りは収まらなかった。
弾は容赦なく小屋の中に撃ち込まれてくる。
韮山は小銃を見つめた。そして、マンガを交互に見つめる。
韮山の顔に動揺の色が浮かんでいた。
韮山は少し黙り込んで考えた後、「よし」と言って、小銃を投げ捨てた。そして、マンガを小脇に抱え、小屋から飛び出して行ったのである。
「おい、馬鹿! やめろ!」
隊長が叫んだが、韮山の耳には届かなかったようだ。
私と隊長は敵に襲われることも忘れて、窓から韮山の後ろ姿を目で追いかけた。
韮山は「わーっ!」と叫びながら、敵に突進していく。
パンパンパン……!
フィリピンの湿った空気に、ひときわ高い銃声が鳴り響いた。
同時に韮山の身体のあちらこちらから血が吹き上がった。
それでも韮山は歩みを止めなかった。そして、茂みの近くまで行くと、小脇に抱えていたマンガを銃声の鳴る方向へと投げ込んだ。
それから韮山はバッタリと倒れ、動かなくなった。
不思議とそれ以降、敵からの攻撃はなかった。プッツリと途絶えたのである。
「韮山ーっ!」
私は足の痛みを忘れて小屋から飛び出そうとした。それを隊長が止めた。
「気持ちはわかるが、韮山を囮に我々をおびき出す作戦かもしれん。今は様子を見よう。待つんだ……」
私はこれまで、こんなに後悔したことがなかった。自分の軽はずみな言動から、戦友を一人、死に追いやってしまったのだ。
後から考えてみれば、臆病者は私だった。普段から「華々しく討ち死にをする」などと言っておきながら、いざ敵が来た時には狼狽し、戦友にやり場のない苛立ちをぶつけるしかなかったのだから。
私はすぐにでも韮山のもとに駆けつけたい衝動に駆られた。
私は時間とは残酷なものであることを知った。
戦友の亡骸を前にして、手も足も出せない状況は、この上なく苦しかった。ひたすら「待つ」しかないと、わかっていながら、その時間が耐えられないのだ。
隊長を見れば下唇を噛んでいた。隊長もまた、時間と必死に戦っていたのである。
汗が目に入った。
不思議なもので、弾が貫通した左足より、韮山の亡骸を見つめる目に入った汗の方が痛かった。
汗は涙と混ざり合い、私の頬を止め処もなく濡らしていく。
熱帯の太陽は戦友の亡骸を残酷なまでに、容赦なく照らし続けた。
銃声が鳴った茂みは揺れない。
それでも隊長は私を制し、韮山の元へ駆けつけることを許してはくれなかった。
やがて南国にふさわしい、朱色と桃色の混ざり合ったような世界が広がり、黒とは呼べない闇が、辺り一面を支配した。
生きているのは隊長と私、そして、島の鳥や獣たちだけと思われた。どこかで、梟のような鳴き声がする。
「傷の手当てをしよう……」
「大丈夫です。それより、韮山を……」
「死んだ人間より、生きている人間だ」
隊長が闇の中で立ち上がると、しばらくして、ツンと鼻先を突き刺す臭いがした。アルコールの臭気だ。
「医者じゃなくて悪いな」
隊長はそう言うと、おもむろに私のゲートルを引き裂き、患部を露出させた。
「ぐわぁーっ……!」
アルコールが傷に沁みる痛みは、想像以上だった。
それでも私は耐えた。
おそらく、全身を銃弾で貫かれる痛みはこんなものではあるまいと思いながら……。
韮山の遺体が小屋に運ばれたのは翌日になってからのことだった。
暖かい南の島では遺体の腐敗も早く、既に死臭が漂っていた。韮山の回りには多数の蝿が飛んでいたことを今でもはっきりと覚えている。
しかし、私にはそれが汚らわしいとは微塵にも感じられなかった。
「韮山、韮山ーっ! すまん、すまん!」
私は動かなくなった韮山にしがみつき号泣した。
うつ伏せになった韮山を仰向けにすると、その死に顔は笑っていた。満足そうな顔だった。
「こいつ、マンガ一冊で本当に戦争をやめさせやがった」
隊長が呟きながら、私に韮山の小銃を差し出した。思ったとおり、韮山は弾を一発も撃ってはいなかった。
私はその時、初めて韮山の言った意味が理解できた。そして愚かだったのは自分だったと悟った。
「韮山もこの時代に生まれてこなけりゃなぁ。いや、韮山だけじゃない。野山、貴様や他の若者たちもとんだ時代に生まれちまったもんだよ」
そう呟いた隊長の背中が妙に寂しく、そして小さく見えた。
隊長と私は韮山の亡骸を荼毘に付した。
ゴウゴウと燃える炎の中で韮山の肉は焼け、骨となっていく。
周囲には肉や髪の焦げる、異様な臭気が立ち込めていた。私は火葬場でこの臭いを嗅いだことがあり、どうも好きになれぬ臭いであったが、この時は韮山の生きていた証の「匂い」として、私は鼻から肺の中へと吸い込んだ。
隊長は韮山が荼毘に付されている間、敬礼を崩さずに彼を見送り続けた。
私はただ打ちひしがれ、虚しく土を握り締めることしかできなかった。ただ、そう、韮山の「匂い」を吸い込みながら……。
やがて、茶褐色の遺骨が姿を現した。韮山の遺骨である。
焼いたばかりの骨は熱い。
それでも私は、韮山の頭蓋骨を思い切り抱きしめた。掌が火傷をしたかもしれないが、彼が銃撃で受けた痛みに比べれば、痒みほどにも感じぬ。
韮山の頭蓋骨の上に滴が落ちた。私の目からこぼれ落ちたものだ。それは私の頬を伝い、何度も何度も、頭蓋骨の上に落ちる。
「韮山、すまん……」
そんな言葉をうわ言のように繰り返し、私は頭蓋骨を眺めた。
涙でそれは霞んでしか見えなかったが、左の側頭部に弾丸の跡がある。
頭を打ち抜かれてなお、気力でマンガを投げ込み、戦争をやめさせた韮山。そんな韮山に私たちは救われたのだ。
この時私は、韮山からもらった命を粗末にはできないと思ったものだった。
火が鎮まると、隊長は韮山がマンガを投げ込んだ茂みへと向かった。もう、そこに人がいないことはわかっていた。
「ダメだ。見つからん。やっぱり敵が持っていったのかもしれん」
程なくして、そう言いながら隊長が茂みから出てきた。
隊長は韮山の遺稿を探していたのだ。
「はあーっ……」
重いため息を二人でついた
小屋に戻り、韮山の遺骨と遺品を整理する。
すると、遺品の中から描きかけのマンガが出てきた。
完成させたマンガは敵陣に投げ込まれてしまった。ここにあるのは、どれも絶筆の、未完成作品ばかりだ。
「ううっ、韮山……」
韮山の無念を思うと、また涙が溢れてくる。志半ばで逝った者の無念さは計り知れないものがあるだろうと思う。
確かに隊長の言うとおり、この時代に生まれなければ、韮山は名だたるマンガ家として名をはせていたかもしれない。そう思うと、彼の死が悔しくてならなかった。
「この戦争が終わったら、この韮山のマンガを本にしてみせます!」
私は隊長に向かってそう言った。
「うむ、韮山もきっと喜ぶぞ」
隊長の目は優しげで、慈しみ深いものだった。
それから、半月も経たぬうちに日本は敗戦を迎えた。その玉砕放送は見捨てられた我々の小隊にまで届いたのである。
幸いにも敗戦までの間、我々の小隊への攻撃はなかった。
私は韮山の遺骨を抱えながら、船で日本へと引き揚げた。そして韮山の家族に辛い報告をしなければならなかった。しかし、それは私の役目だった。私が責任を持って果たすべき任務だった。
日本が敗戦を迎え、アメリカの占領下に置かれるようになり、国民は今までの価値観の転換を迫られた。しかしこの時、既に私はもう軍国主義者ではなかった。韮山が銃弾に倒れた時、野山信一という軍国主義者は死んだのだ。
そして私たちを戦争に駆り立てた、戦中の野蛮で歪んだ愛国思想を強く呪ったものである。不思議なことに、敵への恨みは抱いていなかった。
「だめだ、だめだ。こんなマンガ、出版できない!」
私は韮山の遺稿であるマンガを出版社へ持っていったが、門前払いを食わされてしまった。
それは韮山の遺品から出てきた描きかけの原稿だった。
未完成品ということもあったであろう。戦後になって、表現の自由が緩和されたが、やはり商品価値にならないものは切り捨てられていくのかと思うと、私の胸は痛んだ。
韮山の遺稿は、彼の魂でもある。そんな彼の魂が踏みにじられた気がしたのだ。
仕方なく、私はその遺稿を韮山の実家へ届けた。
「こんな、売れんマンガなんか描く暇があったら、一人でも敵を倒して御国のために役立てばよかったんじゃ」
韮山の母親は涙を流しながら、そう言った。
「お母さん、お忘れですか? 息子さんがマンガを投げ込んだからこそ、銃撃が止まったんですよ。息子さんは戦争をやめさせるために命を賭けるとおっしゃいました。息子さんは信念に殉じたんですよ。私は息子さんの魂こそ英霊だと思っていますよ」
「ううっ……」
母親が泣き崩れた。
「お父も戦争で死んだんじゃ。うちだけがこうして生き残っておる。死ぬも地獄、生き残るも地獄じゃ」
「……」
「奇麗ごとでは済まされん。御国の戦争は終わっても、うちの戦争はまだ終わっとらん。終わっとらんのよ……!」
母親は遺稿のマンガの上にボタボタと大粒の涙をこぼした。
どちらにしろ、悲惨な戦争で家族を失った者の傷跡は大きい。私がいくら慰めたところで、癒されることはないであろう。
家族が立ち直るためには、莫大なエネルギーと、気の遠くなるような長い年月が必要なのだ。
そして今。
たまに息子夫婦の家を訪ねると、孫が戦争物のアニメを観ながら「殺せー! 死ねー!」と騒いでいる。
その度に私は背筋が凍る思いがするのだ。せめて孫が生きている時代には戦争が起こらないで欲しいと願う。
それにしても、マンガから飛び出した今日のアニメやゲームは随分と残虐だ。主人公が血みどろの戦いを演じている。
それを観て孫はどんな人間に育つのだろうかと、一抹の不安を覚える。
韮山よ、お前の描きたかったマンガとはこんなものだったのか。
ある日、私は孫を連れて博物館に出掛けた。何でも恐竜の化石が見たかったのだとか。
その帰りに私と孫はふらっと、戦争展に立ち寄った。何気なく看板に惹かれたのだ。
最初は嫌がっていた孫だが、入ればすっかり、銃器に目を奪われている。
「おじいちゃん、すごいね。おじいちゃんも戦争に行ったんでしょ?」
「ああ、行ったよ。でも戦争はいけないことなんだ」
口でただ「いけないこと」と言うのは容易い。ただ真実を語り、真意を伝えるにはもう少し孫の成長を待たなければならない。
私は孫と館内を回った。
すると孫が叫んだ。
「おじいちゃん、マンガだ。マンガがある!」
「えっ?」
私は一瞬ドキッとして孫の方を振り向いた。そしてウィンドウの中を覗き込む。
「おお……」
私の目から熱いものが溢れた。それはまさしく韮山が描いたマンガだった。
韮山よ、お前はこんなところにいたのか。
私はタイムスリップでもしたかのように戦友、いや旧友との再会を懐かしんだ。
「おじいちゃん、何で泣いてるの?」
孫が不思議そうに尋ねた。
「これはおじいちゃんの友達が描いたマンガなんだよ」
「へー。それでそのお友達、どうしたの?」
「撃たれて死んでしまったんだよ」
「死んじゃった……の?」
「そうさ、このマンガを敵に投げ込んだんだ。そうしたら敵の攻撃が止んだんだよ」
「どうして、反撃しなかったの?」
孫は不思議そうな顔をしている。
「そのお友達はね、戦争が嫌いだったんだ。だからこのマンガで戦争をやめさせたんだ」
「ふーん」
まだ、孫には理解出来ないかもしれない。だが、いつかわかる時が来るだろう。私はそう信じたい。
マンガを眺め続ける私の元へ一人の係員がやってきた。
「このマンガは、ある元アメリカ兵から寄贈されたものです。何でも日本兵の陣地から投げ込まれたものだそうですよ」
「知っています。これは韮山という私の友人が描いたものです。韮山がこれを描いていた時、私も同じ小隊にいました。韮山の骨を拾ったのも私です」
係員は「えっ?」と言って目を丸くした。
「そうでしたか。アメリカ兵の話では隊長がこのマンガを見て何とも穏やかな気持ちになり攻撃を中止したそうです」
「そうですか。やはり、このマンガが戦争をやめさせたんですね」
「あの時、攻撃をやめさせた一番の理由は何だかわかりますか?」
係員が私に尋ねた。私はこのマンガが攻撃をやめさせたものだと思っていただけに意表を突かれた。
係員はウィンドウを開け、マンガを取り出した。
「実はこのマンガには一言だけ台詞があるんですよ」
そう言って係員はマンガの最後のページをめくった。するとそこには吹き出しに小さな文字で「LOVE」と書かれていた。
これには私も衝撃を受けた。脳天に雷が落ちたような気分だった。韮山はいつの間にこんな文字を書き加えたのだろうか。こんな敵国語を書いたのが見つけられたら、いくら寛容な隊長だって許さなかっただろう。
私はまたしても韮山の信念の塊を見せつけられた気がした。韮山は時を経て尚、私の心を揺さぶりかけてくるのだ。
「これはいつまでも大切に保管しておいて下さい。後にも先にも戦争をやめさせたマンガなんてこれくらいでしょうからね」
私は係員の目を見つめ、思わず手を握りしめた。
「韮山をよろしく頼みます」
係員は真剣な眼差しで「はい」と頷いた。
おそらく、私の魂はもうすぐ韮山のところへ行くだろう。私の心臓の鼓動はここのところ、だいぶ乱れてきている。それに左足の古傷が痛むのだ。
それは怨念ではなく、かつての友が迎えにきてくれるような、どこか懐かしさを覚える。
だから私は、韮山のところへ行くのに、何のためらいもない。
私には残念ながら韮山のように形として後世に残すものは何もない。しかし、戦争の悲惨さを語り継ぐことくらいは出来る。
そして未来へ向かって走る孫たちがいる。
残された僅かな時間を平和な世の中にしていくための、一滴くらいの力になれればと思う。
私は友の魂に手を振りながら、孫の手を引いて会場を後にした。
帰り道、茜色に染まる東京タワーが美しかった。韮山が死んだ夕暮れとは、また違った日本の夕暮れの色だ。こんな平和な夕暮れを、あの日、想像できただろうか。
空には鰯の鱗が鮮やかに浮かび上がっている。そんな光景に、ふと、心を和ませてみる。
少しばかり心を寄り道させて帰るのも悪くない気がした。
了
夢をあきらめないことと、平和への幾ばくへの想いを込めて書きました。