特別青少年健全育成条例
教室のドアを開けると、予想通りそこは喧騒に包まれていた。誰もが顔に興奮と不安を浮かべておしゃべりに興じている。彼らの話を聞くまでもない。話題は一つしかないだろう。
サトルは無言で教室に入り、まっすぐ自分の席へ向かう。自分も話に加わろうかと迷ったが、決断を下すより先に声をかけられた。隣の席の松井だ。
「おいサトル、知ってるか?」
目的語を伴わない不親切な問いかけだが、サトルは彼の意を解した。
「ああ、知ってるよ。正直今も驚いてるよ」
松井は満足げに頷き、言葉を続ける。
「驚いていない奴なんていないさ。なんせ発表されたのは昨日の今日だからな。見ての通り、みんな大騒ぎだ」
松井は教室に視線を巡らせる。サトルもそれに続く。廊下から見たときには気づかなかったが、窓際の自席から見ると、よりこの騒がしい教室の異質さが際立っている。
友達と話しているところを見たことがない山下は教壇に立ち、身振り手振りを交えながら事の重大さを大声で演説している。普段彼をいじめている大野はその演説を聞き、熱心にメモを取っている。教室の片隅にクラスメイトが集まっているかと思えば、その中心には髪が異様に伸びている男子生徒が見えた。入学式以来一度も教室に来ていない不登校の渕上だった。
「すごいな。こんな教室見たことない」
サトルが呟くと、松井は語調を強めて言葉を返してきた。
「おいおい、他人事じゃないんだぞ。俺らの生活の根幹を揺るがされたんだ。お前が落ち着いていることの方が異常だ」
サトルが反論しようとしたとき、教室の前方のドアが開いた。担任の井上だった。御多分に漏れず、井上の顔にも困惑の表情が浮かんでいた。
「お前ら、落ち着け。ホームルームやるからとりあえず席に着け!」
担任の強い一喝により、教室には久しぶりの静寂が訪れた。
担任は皆が席に着いたのを認めると、いつものように出席は取らず、黒板に文字を書いた。
そこに書かれたのは力強い筆跡の十一文字だった。その十一文字こそがこの教室、いやこの町中に混乱を巻き起こした原因だった。
特別青少年健全育成条例。
皆が固唾を飲むのが分かった。井上は教室を見渡し、悲哀を帯びた表情で静かに言葉を発した。
「みんなはもう知っているだろうが、昨日からこの市に特別青少年健全育成条例が施行された。あまりにも突然のことだったからみんなも戸惑っていると思う。正直先生も何が何だかわからん状況だ。だがとりあえず今の段階での情報を共有しておこうと思う」
そう言うと、井上は言葉を一つ一つ丁寧に紡いでいった。
特別青少年健全育成条例が初めて市議会に上がったのは一年ほど前の事だった。もともとこの市で未成年の、特に高校生間での性行為による妊娠および中絶の件数が他自治体に比べて莫大に多いことが問題となっていた。市長選でこの汚名を返上することを公約に掲げた市長がめでたく当選したのがきっかけだった。市長は就任するや否や議会で特別青少年健全育成条例の原型となる案を提出した。それは一見あまりにもバカバカしく、物珍しさに県外のメディアが報じたほどだった。
それは未成年の女性の行動を制限して、未成年のうちは同世代の異性と触れ合う機会を無くすというものだった。つまり強制的に分断することで不純異性交遊を防ごうということだった。誰もがその可笑しさに一笑し、まともに取り合おうとする者はいなかった。だがそれは議会で通り制定された。それが三日前のことだった。そしてその二日後の昨日、それは施行された。誰もがその異例のスピードと状況に戸惑った。実を言うとサトルも今朝教室に入って来るまで実感がなかった。だが今はそれを事実だと認めざるを得ない。
教室の机は約半分が空いていた。今この教室に、女子は一人もいなかった。
井上が話を終えると、前方で手をあげた生徒がいた。気性が荒く、いじめや問題行動が目立っていた大野だった。
井上は少し驚いた顔をした後、「どうした?」と訊いた。
大野は真剣な顔で質問した。
「今、女子たちはどこにいるんですか?」
井上は一回頷き、答える。
「今は自宅待機させている。なんせ家の外に出るのも禁じられている状況だからな。だが、将来的には青少年特別区域というものを作ってそこで生活をすることになるらしい。当然君らはそこに入ることはできないだろうな」
サトルは半ば呆れかえる思いだった。これは明らかに人権侵害ではないだろうか。どうしてみんな素直に守っているのだろうか。デモが生じてもおかしくないほどの凶行だ。
不意にチャイムが鳴った。ショートホームルームの終わりを告げるチャイムだった。
井上が職員室に戻ると、教室には再び喧騒が訪れた。サトルはまさか今回の特別青少年育成条例というものがここまで常軌を逸したものだとは知らなかった。サトルはこんなことは絶対に許されるべきではない、という小さな正義感が自分の中に芽生えていることに気付いた。その芽はみるみる成長していき、自分の中だけで抑えきれなくなり、誰かと議論をしたい衝動に駆られた。
隣の席の松井と話をしようかと思ったが、松井は教室にできている一番大きな集団に交じっていた。サトルは自席を離れ、その集団の傍に近づいた。
なにやら熱心に議論が交わされているようだった。中心にいるのは先ほど井上に質問をした気質の荒い大野と、その大野にいじめられている山下だった。サトルは嫌な予感がした。
だがそれは杞憂だった。二人は声こそは大きいものの、一見して想像したものと異なり、非常に和まし気な雰囲気だった。
二人とも顔には笑みが浮かんでいる。周りに集まっているものたちもみな穏やかな表情をしていた。サトルは野次に混ざり、話を聞いた。
「俺、本当にうれしいよ。こんな日が来るなんて思いもしなかった」
喜ばし気に話すのはいじめられっ子の山下だ。サトルは訝しんだ。女子がいなくなることのなにがうれしいのか。大野も浮かれ気味に山下に同調する。
「だよな! あいつらがいなくなって本当に清々したわ。マジで市長には感謝しかねぇよ」
その言葉に、周りの野次もうんうんと頷く。
それを見てサトルはいてもたってもいられなくなり、口を挟んだ。
「なぁ、なんで女子がいなくなることはうれしいんだ?」
二人はサトルを見て怪訝な表情を浮かべた。そしてすぐ、山下があたかも当然のことのように答える。
「なんでって言われてもなぁ。答えようがないよ。ゴキブリがいなくなってどうしてうれしいって聞くようなもんだ」
大野も続く。
「そうだよな。逆に聞きたいよ。お前はうれしくないのか?」
サトルは呆気にとられた。なにかの冗談かとさえ思った。だが、二人の目を見る限り真剣に言っていることは間違いなさそうだった。
サトルは困惑しつつも、返答する。
「うれしいわけないだろ。だってどう考えても人権侵害だろ」
そう言うと、話を聞いていた松井が言葉を挟んできた。
「それは良いか悪いかの話であってうれしいかどうかの答にはなってないだろ」
それを聞いて周りの聴衆もそうだそうだ、と口をそろえる。
「おい、待て。だって大野、お前彼女いただろ? それなのになんでだよ」
大野は数回瞬きをした後、呆れたように答える。
「彼女だ? お前な、冗談はやめてくれよ。あんなのはただの便所みたいなもんだろ」
「……便所?」
「公衆トイレよりもきったねぇ便所だよ。まぁもっと醜いのは性格だがな」
そういうと大野は大声で笑った。
サトルは次に山下に尋ねる。
「なぁ、山下はどうなんだ?」
「どうもなにもねぇ、さっきも言ったようにあれはゴキブリみたいなものだからさ」
サトルはその後クラス中の生徒に話を聞いたが、異口同音でこの条例のすばらしさを語るだけだった。だがサトルは自分の考えが正しいことを理解していた。このクラスが異常なだけなのだと心の中で強く思い続けた。しかしその日はずっとこの調子で皆が幸せそうに条例を褒め称える言葉を発していた。
帰宅すると、父と母は既に家にいた。今日は二人とも有給休暇を取ったのだ。
父は無言でソファに座るよう促した。サトルは黙ってそれに従う。
「学校はどうだった?」
父は低い声で呟いた。サトルは平常であるように努める。
「やっぱり女子は一人もいなかった。青少年育成条例のせいだって先生が」
「そうか……」
「父さん、どうして誰も反対しないんだ。こんなバカげた条例あっていいはずない。どうして妹と会う事すらできないんだ」
サトルは視線を二階へ繋がる階段にやった。二階にはミホの部屋がある。今もそこにいるはずだった。
父は答えない。
「僕はもうこのまま黙っていることなんてできない。署名活動でもデモでもなんでもやるさ。どうしてミホは学校にも行けずにずっと部屋の中にいなければならないんだ」
サトルは父親は自分の味方になってくれるはずだと確信していた。自分の娘がこんな目にあって黙っているような男ではないことはこの十七年の人生でよく知っている。
「それにだ、条例なんてものは破ったからって何か罰則があるわけでもないだろ。こんな誰にも見られていない家の中ですら守る必要はない」
サトルはそう言うと、立ち上がり会談へ向かった。その時背後から父親の声が飛んできた。
「なぁサトル。落ち着けや」
サトルは振り返り、父親と向かい合った。父の細く鋭い目がサトルに向けられる。
「サトル、お前はどうしてそう反対するんだ」
「は……?」
「お前はどうして青少年育成条例に反対するんだって聞いてんだ。おかしいだろ、なんか不都合でもあんのか」
サトルは頭に血が上るのが分かった。
「不都合? 何言ってるんだ。とうとう父さんまでおかしくなったのか? こんなことが許されるはずないだろ。不都合云々の問題じゃない」
父親は聞く耳を持たないといった様子で、大きなため息を吐くと、諭すような語り口で話した。
「今日、学校行ってなんか変化なかったか? 女子がいないってこと以外でだ」
「そんなこと……。いや、不登校の奴が学校に来てたりいじめっ子といじめられっ子が仲良さそうに話してたよ。それも女子を侮辱するような話題だ」
そういうと、父親は「そういうことだ」と呟いた。
「どういうことだ、ちゃんと話してくれよ」
「お前はどうして不登校が学校に来たりいじめがなくなったと思う? それはな、悪いものがなくなったからだ。腐ったミカンの話があるだろ、ダンボールに一つでも腐ったミカンがあるとほかのミカンも腐るっていうあれだ。この場合は学校における女子生徒の存在は腐ったミカン。いや、さしずめミカンに穴をあけて中身だけを食う害虫みたいなもんだ」
「……酔っぱらってるのか?」
「まぁ聞けよ。お前もわかってるだろ。どうして今日の教室は平和だったのか、害虫を取り除いたからだよ。どうしてみんな反対しないのか、それはみんなそのことに気付いているからだよ」
サトルにはもう聞くつもりはなかった。もうこの家もおかしくなっている。ミホと一緒に逃げなければ。この狂った場所から一刻も早く。サトルは話を続ける父を無視して階段を上った。上った左手にある二つのドアのうちの左側。そこがミホの部屋だった。
躊躇わずにドアを勢い良く開けた。
しかし部屋には誰もいなかった。
「もう遅い。ミホはもう行ったよ」
背後には父が立っていた。
「特別区域か」
父は答えなかった。肯定の意だろう。
「狂ってる……」
「なぁサトル。一つだけ教えてくれ。お前はどうしてそんな必死になるんだ。お前もわかっているんだろ、本当に狂っているのはこの町だということを。未成年同士の性行為が日常となり中絶率は全国トップだ。ミホももう三度も中絶をした。性病が蔓延して、ミホはもう子供を作れない体になった。こうでもしないと改善されることはないんだ。……こんな街にみんな疲れていたんだ。だから女子いなくなったらみんなストレスから解放されたんだろう」
サトルは黙った。父の言っていることは正しい。だがそんなことは知っている。本当は自分が間違っているということも。
クラスメイトは性欲から解放されたが、サトルは解放されていない。自分だけはまだ女を欲している。ミホと交わったときの快感を忘れられずにいる。
それを知っているのはサトルとミホだけだ。だからサトルは自分はまともであるという皮を被っている必要があった。だが、ミホが家から去った今、ここにいる必要はない。
サトルは一度深呼吸をした。決心はついた。
「父さん、お別れだ」
教室のドアを開けると、女子生徒たちの目が一斉にこちらに向けられた。担任の女性の先生が手招きしている。サトルは教壇に立った。そして先生に言われるままに黒板に自分の名前を書き、自己紹介をする。
「初めまして。男子区から転校してきました。身体は男性ですが性別は女性です。よろしくお願いします」
そう言うと、サトルは静かに微笑んだ。