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紘夢くんは僵尸から視線を外して九条さんを見、そして九条さんが頷くと自分も大きく頷いた。
再び指先を僵尸の口に触れさせる。
動きは増々過剰になり、今にも立ち上がって徘徊し始めそうな勢いである。
これは流石に危険すぎると、私が眼に力を籠めたその時。
微かに耳に玉彦の宣呪言が届く。
私と彼の距離だからこそ聞こえる声。きっと大広間の誰にも届いていない。
黒扇で口元を隠しているから尚更、玉彦が詠っていると気付く者はいない。
身体を昇華させられつつある僵尸以外は。
大広間に集められた島民の目には、紘夢くんの血が二度目に触れたことにより、段々と僵尸の動きが鈍くなり、そして倒れ、皺皺と干乾びて茶色の人皮を纏った骨になったように映ったことだろう。
実際は玉彦の宣呪言で祓われただけなんだけど。
漂っていた腐臭が掻き消え、紘夢くんの隣に正座した九条さんが良くやったというように肩をしっかり抱き寄せた。
指先を握り締めた紘夢くんはようやく感情を露わにして、天井を見上げて涙を流す。
怖かっただろう。本当の跡継ぎなのに家を乗っ取られて何も出来なくて、島を開発するということに反対の声すら上げられなかった事だろう。
うるりときた目に人差し指を当て、うんうんと何度も頷けば、こういう時に限って水を差す人はいるもので。
すっかり不穏な気配が消え去った大広間に八紘さんの怒鳴り声が響いた。
「こんなの、インチキだ!」
僵尸は本物だけれど、確かに血で眠らせたということは紛れもなくインチキである。
だってペテン師が私の前で立っているもの。
強気な声を上げても壁際から中ほどの棺に近寄ろうともしない八紘さんに、指先を絆創膏で包んだ航太郎さんが加勢する。
「そうですよ! こんなことで網元が決まるのはおかしい!」
勢い勇んだ二人にちらりと冷たい視線を送った玉彦はすとんと腰を下ろした。
「先程も確認したが、代替わりの儀式を終えた佐伯の人間が網元となる。私は貴様や先代の弟に儀式を行うつもりはない」
「儀式が何だって言うんだよ。そんなものしなくたって島の漁業権は佐伯の俺が持ってるんだ!」
当主が亡くなりまだ四日目である。
漁業権ってどういうものか詳しく知らないけれど、そんなにすぐに譲渡できる物なのだろうか。
これは専門的な話になってきそうだと私が思った矢先、棺の僵尸の後始末をしていた豹馬くんが作業をしつつ、口を開いた。
「島ってほとんど定置網漁だろ」
よっこらせと僵尸を持ち上げて豹馬くんは白装束を脱がせ、隣で木箱を用意していた住職さんに尋ねた。
「そうです」
そう言えば澄彦さんとお父さんがジェットスキーで定置網を引っ掛けて全滅させたって言ってたっけ。
船に乗って魚を追うよりも島の年齢層を考えれば定置網の方が負担は少ないのかな。
「定置網漁の免許期間は五年だけど、前の更新はいつだったんだよ」
「え?」
問われた八紘さんはきょとんとして、そして航太郎さんは首を傾げた。
この人たち、跡継ぎだー網元だー漁業権は自分にあるーとか言ったくせして、全く解っていないようだ。
「その調子だとお前はまだ学生で知らない時期に前の網元は取得したんだろ。後見人も知らないってことは最低でも数年前ってことだよな」
歓迎の宴の際に航太郎さんの話題になったとき、確か網元の奥さんが亡くなり島の外からお葬式に来て、それから半年ほどして島に移住してきたと言っていた気がする。
ということは、漁業権の話を知らない様子の航太郎さんが島にいた四年半の間にそう言った話はなかったということになる。
手際良く残された僵尸の骨を足先から木箱に収めていた豹馬くんが、途中で身体を起こして腰を伸ばす。
「定置網の漁業権で優先される権利者はその領域で網を張る地元漁師の七割の賛同を得た者だ。良く解かんねぇけど、お前が網元だって言い張っても七割の賛同を得られなければ漁業権は取得できねぇぞ?」
思いがけず豹馬くんの知識の広さを知った私は、おおおっと感嘆した。
さすが船の免許を持っているだけの事はある。
それから豹馬くんは特に何も発言せず、住職さんと一緒に収納作業に戻った。
おそらく残り半年も無い漁業権の事実を突き付けられた八紘さんは呆然としていたけれど、壁際から東の村長さんのところへ駆け寄り、膝を詰めた。
「俺に賛同するよな?」
ここでも強気に尋ねた八紘さんに村長は深い溜息をついて、首を横に振った。
全く迷う素振りはなかった。
「悪いが儂はあんたのやり方には賛成できん。それになんだ。島の開発がどうのと若いもんをそそのかしてるそうじゃないか。どうせもう漁師をしなくて済むと若いもんは気もそぞろでここ二、三日、仕事の手伝いもせん。紘夢が休みの子どもたち集めて手伝ってくれてたくらいだ。お前、何をしとった」
「俺は……初七日までは喪に服して……」
「はっ! 儂ら漁師は魚を相手にしとるんだ。七日も黙っていたら商売上がったりだ。紘雄さんは嫁が死んだ次の日から漁に出ていたのを知らんのか!」
どんっと力強く畳を叩いた村長さんの拳に黙らされた八紘さんはもう、何も言えなくなってしまったのだった。




