10
最後になるかもしれない家の思い出が小野千代だなんて最悪過ぎる。
パパもパパだ。もう喫茶店を閉めるんだからお客の小野千代に愛想を振りまく必要なんてない。
すっぱりと言ってやればいいんだ。父みたく「あ、人間的に興味がないんで」って。
そもそもねぇ、うちの喫茶店は大繁盛してたんだから小野千代一人くらい来なくなったって平気だったはずなんだよね。
なのにパパったら愛想だけは人一倍なもんだから小野千代がつけあがるんだよ。
ずんずんと雪を踏みしめて歩き、私は戸惑うパパに抱き付いた。
すると小野千代が私におはようと挨拶をしたので一応返す。
パパの手が背中に回り、車に乗りなさいと押すので仕方なく離れれば、父が車の窓を開けて私を手招きしていた。
私は不機嫌なんだぞ、と再びずんずん歩いて窓の下に行くと父はニヤニヤと笑っていた。ムカつく。
「なにさ!」
「洸姫。洸姫っ。知恵を授けてやろうか」
「はぁっ?」
「おのちょ撃退の知恵」
「なにさ!」
息巻く私の肩を掴んで後ろを向かせた父は自分の髪を解いて、かわりに私の下ろしていた髪を頭の上に丸く纏めた。
髪を高い位置で纏めると頭が痛くなりやすいのであんまり好きじゃないんだけど。
慣れない髪型を手で触って気にしていると、父が後ろから私に耳打ちをした。
「顎を引いて声を少し低く出せよ? んでもって『須藤くん』って呼べ」
「はあぁっ?」
「いいからいいから。『須藤くん』って呼べ。それだけで良いから」
「なにそれ。そんなんで撃退できんの?」
「出来る。三百円賭けても良い」
いつも百円しか賭けない父が三百円も賭けるっていうんだから勝算があるのだろう。
それでも私はたったそれだけで小野千代を撃退できるのか半信半疑のままとりあえずパパのところへ戻る。
パパのちょっと後ろに仁王立ちをしてちょっと顎を引く。
そんなことしなくても低い声は出せるけど父がそう言うんだから引いた方が良いんだろう。
相変わらずパパは小野千代にいつから喫茶店を再開させるのかとか質問攻めにあっていて、はっきりとした返事をしない。
お父さんは喫茶店は潰すって言ってたし、再開なんて死んでもしないんだからはっきりと言ってやればいいのにさ!
引越しや転校とか嫌だけど、唯一パパから小野千代を引き離すこと出来ることだけは良いことだ、と私は思った。
「須藤くん!」
半信半疑で呼んでみたら、パパは想像以上の機敏な動きで背後の私を振り返った。
驚き過ぎて端正な顔のまま固まっている。
私を数秒凝視して、くしゃりと目を歪ませて俯く。
それからパパは小野千代に向き直り、静かに頭を下げた。
綺麗なお辞儀だった。
「小野先生。これまで娘を気に掛けていただいてありがとうございました。これから洸姫の母親に会いに行くんです。一緒に暮らすことになっています。ここにはもう二度と戻りません。お元気で。失礼します」
「母親って……」
小野千代は口に手を当ててパパの言葉を噛み締め、私を見つめた。
家族以外の人は私とお父さんや父は私と血の繋がりがなく、パパとは親子だと勘違いしたままだ。名字が同じだしね。私だってそう思ってた。
だからパパが母親に会いに行くと言えば、離婚していた奥さんとヨリを戻すんだって思う。
実際は違うけど。




