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ドアと壁の隙間に人が一人入り込めるスペースはある。
だが、わざわざそんなところから中を窺うのは普通じゃない。
目の高さはオレとさして変わらない。
男、男だ。
あの目は女じゃない。
……というか、あの目は。
まさかという考えが頭を廻る。
つい一時間ほど前。
五十嵐は寝ていると言っていなかったか。
しかも入院してこの方、ほぼ寝たきりの介護状態のはずだ。
特別棟から歩いてここへ来たというのか?
看護師の付き添いもなく、そもそも特別棟から出歩くことは禁じられているのに。
守衛に止められずに来ることは可能なのか?
「玉様……」
「……承知している。余程、頸烈な思いがあるようだ」
普段は視えない玉様だが、普通の人間と同様に対峙する者が生身を持っている猩猩だとか天狗などは見える。
それとやはり普通の人間でも認識できる程の強い霊体も見える。
こちらを凝視していた目がスッと左へ移動し蝶番の隙間から見えなくなると、代わりに今度はドアを掴む左手の指先が見えた。
その指先を支点にぐっと力を籠め、ドアの陰からのっそりと姿を現したのは、病衣を着た清藤主門だった。
スマホに写されていた姿とは違い、健康そうな肉体の主門だったが目は彷徨い、玉様もオレも、他の人間も認識できていないようだった。
ドアの陰から全身を現した主門は裸足で、酷く滑稽にオレの目には映った。
寝ていたベッドから着の身着のまま抜け出した徘徊老人だ。
年齢は当主とそう変わらないはずだが病衣という弱々しい鎧の出で立ちが一層貧弱に見える。
ドアに手を掛けたまま応接室を覗く主門の視界に動くものは佐々木だけで、そこに視点が定まるのにそう時間は掛からなかった。
主門は一歩踏み出して中へ入ろうとするが、そこに透明な壁があるかの如く阻まれて進めない。
これは一種の結界だ。
中の誰かが意識して張ったのではない。逆だ。
これ以上踏み込めば危険だと主門の本能が進まないことを無意識に選択しているんだ。
応接室に足を踏み入れたが最後、静観していた玉様は動くだろう。
玉様が動かないギリギリのラインはドアのすぐ内側まで。
佐々木以外が息を潜めて主門の動向を注視していると、主門が右腕を伸ばしたのを切っ掛けに佐々木を覆う赤いコーティングが沸騰したかのようにぼこぼこと泡立った。
まるで血液が沸いているかのようなその中で、佐々木の表情が苦し気に初めて歪んだ。
明らかに主門の動きと連動した様子に玉様が手にしていた黒扇を彼女の頭と両肩に打ち据える。
すると呆気ないほどに佐々木に纏わりついていた液体は霧散して祓われてしまった。
それと同時に伸ばされていた主門の腕も下ろされる。
「うっ、げぇっ……」
おかしな動きを止めた佐々木は両手を目の前のテーブルにつき、顔を伏せて呻き声と共に真っ黒いコールタールのような禍々しい粘液を吐き出した。
嘔吐きながら口元を汚し、ぼたぼたと落ちるのは昼に食べた焼きそばが若干消化されて白くなった寄生虫みたいな麺。
うわぁ……と内心思いつつ、しばらく麺類は食べないようにしようとなぜか思う自分の冷静さに自虐的な笑いが込み上げそうになる。




