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私と玉彦の正武家奇譚『陸』~誕生編~  作者: 清水 律
私と玉彦の正武家奇譚『陸』~誕生編~
168/335

3


 無意識に左手を口に当て、身体の感覚を刺激した動きは次に猛烈に頭の中の思考を張り巡らせた。


 部屋を間違えた? そんなはずはない。ここは玉彦と私の部屋だ。間違いない。


 泥棒が入って全部盗んで行った? そんなはずもない。この部屋には金目の物は全くないし、家人と稀人以外は裏門からしか出入りできないことから大荷物を持った人間たちが出て行こうものなら松梅コンビに見つかるだろう。

 それに母屋へ向かう離れからの渡り廊下には黒駒が番犬をしているので無理だ。


 次に考えられることは、玉彦が突然母屋内での引越しを思い立ち、勝手に荷物を運び出して他の部屋に移したということだが、このクソ忙しいお役目が立て込んだ十二月にそんなことはしないはずだ。

 もし移動するなら玉彦の性格的に必ず私と相談をするはずである。

 それに稀人たちの手も必要だろうから、ばたばたと騒々しく、しんとした母屋を徘徊していた私が気付かないはずがない。


 思い浮かんだことを次々に否定していくと、残った可能性は一つに絞られた。

 神守の眼の空間に迷い込んだ、である。

 しかし眼に触れても熱さはなく、そして涙も落としていないことから空間ごとどうにかしてしまう眼の作用ではない。


 奇妙な部屋に私はくるりと背を向けて、隣の部屋の襖を開けた。

 ここには玉彦と稀人、時々澄彦さんが子どもたちの為に買い込んだベビーグッズが積み重ねられているはずだったが、私の予想通りやはり何もない。


「うーん……」


 さてどうしよう。

 鈴を頼みの綱にしていたけれど、鈴があるはずの部屋には何もない。

 とりあえず離れへと行き、誰かを探す方が先決か。


 そう思った私は離れへと足を向け、慣れ親しんだ廊下と慣れない雰囲気の中を進む。

 すると玉彦が学生時代に使用していた部屋の襖が全開になっているのが遠目に見えた。

 さっきもあの部屋の前を通ったけれど、襖は確かに閉まっていたはずだ。


 足早になって部屋に辿り着き、中を覗き込めばそこには白いお役目着の誰かが座っていた。

 冬ではなく、夏の蝉時雨が降り注ぐ縁側の障子を開け放ち、そちらを眺めていた人物はゆっくりと私を振り返った。


 人がいる。けれど見知らぬ人に私は一歩後ずさった。

 正武家屋敷で白いお役目着を着る人は澄彦さんと玉彦だけ。

 けれど目の前の人物はその二人ではない。

 彼らは今、離れでお役目の真っ最中だ。


 お互い凝視し合って、私はあっと目を見開いた。


 宗祐さんほどの体格の良さ、けれど細い。

 頭は水彦のように潔い禿げ頭。立派に蓄えた顎髭は白い。

 年配。たぶん五十代くらい。

 そして、ちょっとだけタレ目で太い眉毛が頑固そうに見えた。


「道彦……様……」


 水彦を呼び捨てにする私だが、流石に雰囲気的に道彦を前に呼び捨てすることは戸惑われ、思わず口にした名前に敬称を付けた。


 彼は間違いなく道彦だ。

 顛末記が保管されている書庫にある写真で何度か見たことがある。

 玉彦が小学二年生の時に亡くなったはずの道彦が今、私の目の前にいる。


 ありえないことに再び思考を停止した私に道彦は目を細め、そしてお腹に目をやると柔和に笑った。


「さて。どなたかな? 愚息の御友人かな?」


「あ……私は……」


 孫の玉彦の妻です、と言いそうになって、口を閉じた。


 待て待て待て待て。

 何か変、絶対に変。

 亡くなった道彦を前にして私の眼は反応していない。

 っていうことは、不可思議なものではない別の事象に巻き込まれている。

 それによくよく考えれば、このお屋敷で今の年齢の私を見て玉彦の友人か、と聞くのは分かるがなぜか澄彦さんの友人かと聞かれている。


 道彦の質問に目を泳がせると、私の目は壁のカレンダーに釘付けになった。


 ……二十年以上前のカレンダーだ。

 玉彦はまだ生まれてもいない。



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